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第4章

 勝鬨橋から、また銀座まで歩いた。

 銀座は好きだ。外灯の色の柔らかさや街並みが、時間の流れをゆるやかに感じさせる。その分だけ時間を手に入れられそうで、銀座に行くのが好きだ。

 部屋に戻った私はプランタンの買い物袋をキッチンのテーブルの上に置いて中身を取り出した。ルームランプ。何と澤田さんからのプレゼントである。私が「暗いのが怖い」と言ったのを気に懸けてくれたらしかった。

 私はそれをベッドの頭の上に置いてプラグを差した。スイッチを入れると、魚がぽっと光った。魚の形の面白い照明。私は部屋の明かりを消してみた。もうずっと、出かけている間にも点けていた明かりだった。

 私は部屋の真ん中に膝を抱えて座り、魚のランプを眺めた。

 暗い部屋を、光る水色の魚が今にも泳ぎだしそうだった。

 気持ち良さそうだ。

 私は魚と並んで泳ぐように、床に寝転がった。

 逆さまに私を覗き込む魚の目。何かに似ている。前にもこんなような事があったと思う。何だっけ、と魚の目を見つめた。




 目の前を何かがすうっと横切った。

 桜の花びらだ。私は今度こそ本当に帰ってきた。富士の夢ばかり見るから、たまらなかったのだ。風に乗ってひらひら、ひらひらと、優しい花吹雪。公園の桜の木。黄緑色の葉がきれいだ。ここはどこだろう、見た事がない。新しく出来たのだろうか、と見回して驚いた。

 富士が見えない。

 深い青の夜空に金星がぴかぴかと光っていた。

 何だ、東京だったんだ。公園に足を踏み入れる。周囲の家並みに見覚えはなかった。築地にこんな所があったろうか。

 私から離れたブランコの向こう、更にフェンスの向こうの道を誰かが通る。

 諒介?

 私は呆然と諒介によく似た人が目の前を通り過ぎて行くのを見た。

 黒縁眼鏡の横顔、癖のない髪、オレンジのTシャツの上に青いシャツを羽織って、ベージュのカラージーンズ、足元はコンバースかと思いきや、突っかけサンダルだった。サンダル以外は見覚えのある服装。

 私は慌てて追いかけた。ひょろひょろと痩せた後ろ姿もそっくりだ。両手をポケットに引っかけて、左手首に白いビニールの買い物袋を下げていた。透けて見えるカレーパンに、私は口元を手で押さえてこっそり笑った。

 諒介、と呼んでみたいが人違いかもしれない。私は黙ってその人のあとをついていった。静かな道を、その人は鼻歌混じりにのんびり歩いていた。かすかに声が聞こえてくる。そんなところも諒介に似ているな、と思うと目がじーんとしてきた。


  う え を む ぅ い て、 あーる こう、 ぉ ぉ ぉう

  な み だ が、 こ ぼ れ、 なーい よ ぉ ぉ に

  おもい だ す はーる の ひ、 ひ とーり ぼ ぉっ ちの よ る


 ふわふわとやわらかい歌声も似ていた。坂本九とは意外。諒介は洋楽しか聴かないと思っていた。いや、諒介じゃないかもしれないのだし、と思いながら歩いていると、私の足が何かを踏んづけた。足元を見ると靴を履いておらず、ソックスの足で石を踏んでいた。

 これは夢なのかしら、この前もパジャマで家に帰ったから。

 夢ならきっとあれは諒介だ。私は「諒介」と呼んだ。

 諒介は振り返った。

「由加?」

 私はにっこり笑ってみせた。




 水色の光る魚が私と並んで泳いでいた。それがだんだんとはっきり見えて来て、またぼやけた。諒介、と声がぽつりと出た。おかしな夢だった。だるくて動く気になれない。右手で目をこすっていると電話のベルが鳴った。電話まで這って寝転がったまま左腕を伸ばして受話器を取る。「由加?」と夢の中のような声がした。

「諒介?」

「うん」

「珍しい」

「うん。その、…何となく」

「澤田さんから聞いたんでしょう」

「…そんなところだ」と答えて彼はフッと笑った。

 やっぱり、そうだと思った。「もう大丈夫、気にしてないよ」と言うと、彼は少しの沈黙を置いて「そうか」と答えた。

「この前佐々木さんに、『和泉さんは元気してる?』って訊かれた」

「うん、元気。と、お伝えください」

「判った。この前の手紙に何にも書いてなかったから、『多分』って答えたの」

「そうか。…今度から何か書くように心掛けるよ」

 私はフフ、と笑ってごろんと寝返りを打った。

「すごい、予知夢かも」

「何が」

「今、うたた寝してたら夢に諒介が出てきちゃったよ」

「僕が?」

「うん」

「…そうか、それは…感激のあまり泣いただろう」

 泣いたけど、感激かどうかは疑問なのでそれについては答えない事にした。

「面白かったよ?諒介が歌って歩いてるの」

「…へえ?それは…美声だったろう」

「うん。でも歌は坂本九」

「坂本九、ちゃんですか…」

「そうです。『上を向いて歩こう』」

「そうか。…名曲だな」

 しゅっ、と音がして諒介が煙草に火を点けたのが判った。

「…それで、その、…夢の僕は歌って歩いて、…タキシード着て仮面着けていた?」

「はあ?」

「…いや、その、…前に由加がタキシード仮面の夢がどうこうって言って…」

「そんな事言ったっけ」

「言いました」

 きっぱりと言うので笑ってしまった。諒介にタキシードなんて似合わないと前置きして、夢の服装を説明した。

「ほら、土曜日にそんな格好で会社に来てた事あったでしょう」

「ああ、夢は割とそんなもんだな」

「でも靴はサンダルだったよ。突っかけ」

「…便所サンダルみたいな奴か」

「うん」

「由加は僕に対してそういうイメージを持っているのか」

「そうかも…」

「あとはどんなイメージなんだ。…その、たとえば、その夢の僕が何かしたとか、持っていたとか」

「買い物袋。カレーパン入ってたよ」

 そう言って、それがおかしくて私はクククと笑った。

「…そうか。所帯臭いイメージなんだな」

「あはは」

「それで、その、…由加は夢の中で何をしたんだ」

「諒介のあとをついて歩いて、これは夢だと気がついて、」

「どうして気づいた?」

「…石を踏んづけて、靴を履いてなくて…」

 夢だったから、その人は諒介だった。

 私はその事に気がついて、そっと受話器の送話口を押さえた。諒介は何も言わず、私が続きを話すのを待っている。

 長い沈黙だった。

「…諒介、って呼んだら、振り返ってびっくりしてたよ…」

「そうだろうな。あとをつけられたら驚くだろう」

「何だか…」私はふと思った事を口にした。

「この前会った時みたいに、いろいろ訊くんだね」

「…すまない」低い声だ。

「ううん」

 私はのっそりと起きあがり、ベッドに腰掛けてコルクボードの諒介の手紙を見た。『ひとまず安心しました。』の字が目に飛び込む。この電話にせよ手紙にせよ、彼は心配してくれているのだ。会社を早退して私につきあってくれる澤田さんや、私を見かけるたびに声をかけてくる古田さんにも心配をかけている。

「謝るのはこっち…」

 横に倒れて目をつぶった。不意に「あの、」と彼の声があらたまったので私は目をぱちっと開けた。「何だ何だ」

「この前の宿題だった、僕がなぜ時間が欲しいと思うのか、について…」

 言った通り考えておいてくれたらしい。相変わらず律儀だ。

「結構、単純な理由で、その、…あ。うーん」

 考えてなかったんだろうか。

「無理に言わなくてもいいよ」

「とまあ、こんなふうに」

「はあ?」

「何をどう言おうか、すぐには判らないんだ、僕は。くだらない事ならすぐに口にできるけど。会話はタイミングだからね」

 諒介はくっくっと笑った。またひっかかった、と思っているんだろう。

「だからその、僕は、熟考しないと喋れないんだ」

「うん」

「そしてタイミングが合わない以上、話を終えるか、待ってもらうしかない」

「うん」

「以上」

「…え?」

「え?」

 何と。たったそれだけの理由だったのか。だんだんおかしさがこみあげて、私はクククからフフフ、アハハと段階を踏んで笑った。

「…そんなに笑わないでくれ。こんな事にもひと月かかるんだ」

 諒介は少し黙って、フッと笑うと「とにかく」と言った。

「由加が思うより、僕はずっと単純なんだ」

 単純、と聞いて、そうだろうか、と思いながら訊ねた。

「この前、何を笑っていたの?」

「え?」

「スプラッタな想像のあと」

「……」

 ごそごそ、と音がした。多分、眼鏡を外して額をこすっているのだろう。

 じっと待つ。諒介は黙り込んでしまった。熟考しているのだろうか。目を閉じて待っているうちに眠くなってきた。電話代、どうなっちゃうんだろう、とぼんやりと思った。うとうとしてはハッとする、それを繰り返すうちに、遠くに声がした。

「…笑わずにいられなかったんだ…」

「何それ」

「…もしもし?」

「何で…」

「…由加?…おーい」




 兄が突然訪ねて来たのは、その週末の事だった。

 電話をもらった時にも驚いたが、バイクのヘルメットを抱えて現れたのには更に驚いた。兄、和宏は400ccのバイクで富士宮から東京までやって来たのだ。

「何考えてるのよ」

「何も」

 そうだろうな、と思う。兄は「疲れた」と言っていきなりごろりと横になった。

「…今日はどうしたの」

「由加の手を見に来た」

「やだ」

 兄はがばっと起き上がると「うりゃー、見せろー」と言って私の手首を掴んだ。「何すんのよ」と蹴飛ばすと蹴り返され、しばらく蹴り合った末にそれぞれ臑をさすった。子供の頃みたいだ、と思った。

「由加、何で帰って来ないの」

「……」

「お茶もろくにいれられないで」

と、兄は盆の上の湯呑みを見た。湯呑みの周りには左手でいれたお茶がこぼれて水溜まり、いやお茶溜まりになっている。そのお茶溜まりには、その前にこぼしたお茶の葉がぷかぷかと浮いていた。

「と、いう訳で、今日は帰って来いと言いに来た。俺は別にどうでもいいんだけど、母ちゃんが毎日うるさくってもう」

 兄は起き上がって胡座をかき、湯呑みを手にした。ずっ、とお茶を飲み、「東京のお茶は不味いな」と呟いた。

「お母さんが送ってくれたお茶だよ」

「水が不味いの。それはともかくね、今の仕事にこだわる必要はないし、家でゆっくり集中して手を回復させればいいでしょ。東京に一人で居る事はないの。良くなってからまた出て来る事もできるでしょうが。由加は昔っから何も言わないで、一人でうじうじ悩むけどさ。こういう時の家族でしょ」

 兄の口から強烈に気恥ずかしい言葉が発せられ、私達は互いに困惑した。兄は後退の始まった生え際をぽりぽりと掻いて、

「親に遠慮は要らないの。立っていれば使い、臑をかじって骨の髄までしゃぶり尽くせ」

「お兄ちゃん、鬼畜」

「最近、俺は抜け毛が激しい。由加が心配かけるからだ」

「抜け毛まで私のせいにしないでよ」

 兄がポケットから煙草を取り出したので、私は灰皿を取って床に置いた。

 兄の言いたい事は判る。けれど家に帰ったら逃げるようで、力を蓄えられないようで、橋が遠くなるようで、と考える。

 東京と一緒。

 私は涙が出そうになって、ゆっくり立ち上がってトイレに隠れた。トイレットペーパーで鼻をかんで戻ると、兄はベッドに腰掛けてコルクボードを見上げていた。

「由加…。何、この『給湯室に一人で行くな』って」

 諒介の手紙だ。しまった、片づけておけばよかった、と思った時、兄はくるりとこちらを向いた。

「会社で何かあったの?給湯室って怪我した所でしょう?その手もそのせいなの?」

「…判らないの、本当に、ただの…」

「判らないって何それ。冗談じゃない。危ない目に遭って何で会社行くの」

「それは…私が失敗しちゃって」

「そうでもどうでも」ベッドから勢いよく立ち上がった兄はまた頭を掻いた。

「…母ちゃんが知ったらひっくり返る。とにかく、帰んなさい。もう許さないから」

「何を」

「バカ者」

 兄はどかっと胡座をかいて、また煙草をぷかぷかと吸った。その後、外へ夕飯を食べに出た時も、兄は帰って来なさいと何度も繰り返し、懇々と私に話して聞かせたのだった。


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