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第1章

 ラーメンがこんなに悲しい食べ物だとは知らなかった。

 私はネギラーメンをじっと見た。麺は冷めたスープを吸って伸びきっている。食べても食べても減らないラーメン。いや、先刻から私はまだ麺を数本しか口に入れていないのだ。私は箸を持つ手を震わせた。麺を箸ですくい上げようとする。箸の先が開かない。むっ、と力を入れると親指が箸の片割れ───割り箸だけに───を丼の上にぽろりと落とした。

 左手で落ちた箸を拾い、右手に持たせてやる。

 この歳にして私はただ今、箸の特訓中である。

 二ヶ月程前に右手を怪我して以来、少々不自由になっているのだ。

「由加、眉間が…」

「黙っててよ」

「ゴルゴになっとるで」

「えっ」

 私は有名な殺し屋の太い眉とその間の皺を思い出し、左手でぱっと眉間を押さえた。「やだ…」恥ずかしくなって俯いた。目の前にすっと伸びた手が、持っていた箸で麺をがばっと掴むと、向こうの丼に移し入れた。既にスープも飲み干した空の丼にべちゃべちゃになった麺を半分程移して、澤田さんはそれをずるずるっと食べ始めた。

「不味いな」

「……」

 見るからに不味そうだ。しかしテーブルに運ばれて来た時は湯気が上がり、香ばしいネギとスープの匂いがとても美味しそうなラーメンだったのだ。箸と格闘するうちに刻一刻と姿を変えていったラーメンは、まるで私のようだと思った。

 伸びきって不味いラーメン。

 力なくそれを見つめる私。

 食べる事さえ上手くできないのだ。

 悲しい気持ちで見つめていたなるとが、澤田さんの箸にひょいとつまみ上げられ、彼の口の中に消えていった。

 会社の帰りに寄ったラーメン屋。最近私は、夕飯には必ず箸を使うようにしている。昼間、会社で採る昼食はいつもおにぎりやパンなどで済ませる。皆の前で箸を使うのが嫌なのだ。その会社の人で澤田さんは唯一、私のこの右手の状況を安心して見せられる人だ。怪我をした場に居合わせたからだろう。

 彼は私の右手について何も言わない。下手な慰めより嬉しいと思う。でもそれは恥ずかしいから言わない。

 彼が自分の丼に伸びたラーメンを追加して、見ると私の丼の底に一口分くらいの麺とネギが残るばかりになっていた。私は左手で丼を傾け、箸で麺を寄せてどうにかすくい上げるとそれをつるるっと食べた。

「…ごちそうさまでした」

「……」

 澤田さんは何も言わず、口をぎゅっと結んで、掌を胃の辺りに当てた。そりゃあ、食べ過ぎというか、麺が胃に入る前に既に膨れているのだから無理もない。ふと彼が左手を動かした。その仕草につられて私も自分の腕時計を見ると、ラーメンが運ばれてから一時間も経っていた。

 私が肩を落とすと澤田さんは「行こか」と言って立ち上がった。

 店を出てゆるゆると歩き出す。晴海通り。築地駅の方への角は曲がらずに、話しながら銀座の方へ向かう。意味はない。ただ話をするために歩いている。

「握力は相変わらず…。指も握れる程には曲がらないし…」

「ふむ」

「でもタイプは少し速くなったんだよ。ほら」

 私は両手を前に伸ばしてかざし、指を動かしてみせた。私の仕事は情報処理の入力オペレーターだ。

 さ、わ、だ、と、も、ひ、こ。

 と澤田さんの名前のキーを宙に叩く。『も』で少し指がもたついた。ホームポジションより下のキーを叩く時には腕を引くようにするからだ。

 澤田さんは「そーか」と頷きながら聞いている。

 毎年春に行われる我が社の展示会も終わり、まもなく東京の桜も開こうという季節だ。私達は軽い綿のコートで夜の街明かりの中をゆっくり歩いた。

「異動になるかと思ったんだけど…」

「何でや」

 この右手のためにオペレーターとしては働けないと思ったから。

「松岡さんのご主人が転勤するんだって。だから松岡さんは今月で退職しちゃうの」

「ほーお。聞いとらんかった。ほな送別会するんか」

「うん。月末。それに森さんが四月から人事に行く事になって」

「由加は森さんと仲ええからな」

「うん。でも二階だし」

 互いに横目で見遣って、ふふ、と笑った。

「早いな、由加も一年おるんやな」

「うん。奇跡の長続き」

「ははは」

 人材派遣であちこちを転々としてきた私がこの会社に一年───正社員になって半年───も居るのは、心地好い雰囲気を作り出す人々が居るからだ。優しく、お祭り好きな楽しい人達ばかりだ。

「それで、四月には入力室にも新人さんが入るんだよ。二人来るって」

「由加も先輩やんか」

「うん。年齢だけなら大が付く先輩なんだけど」と言うと澤田さんは「アハハ、歳だけはなァ、外見はチビッコやけどな」と言った。むう、と横目で睨んだ。背の高い澤田さんと並ぶと自分が縮んだ気がする。

「今まで一番後輩だったからね、何か嬉しい」

「単純やなあ」

「うん。それはいいんだけど、困る事もあって」

 何やねん、と彼は顔をこちらに向けた。

 それは今朝のミーティングを終えて、席に戻ろうとした時の事だった。

 入力室のチーフ、市川さんが「泉ちゃーん、ちょっとー」と歌うように節を付けて私を呼んだ。チーフは手招きして、自分の大きなデスクに二つ備えた椅子の一つに掛けるよう私に勧めた。

「四月から新人さんが来るんだけどもさ、泉ちゃん、インストラクターやってくれる?」

「えっ?」

 突然の事で驚いた。インストラクターって、何をするんだろう。

「去年、和泉君がやってた事だよ。システムの概要を説明するの。後は松ちゃんが仕事の流れを教えてくれたっしょ」

 松ちゃん、とは松岡さんの事だ。

「二人のうち一人は学校でパソコンいじってて、それなりに下地の整った子だからそこまででいいの。泉ちゃんの時と同じだね。もう一人がさ、キーボードに触った事もない子なんだわ。その子にタイプの指導までやって欲しいんだわァ」

「そんな、私」

と、膝の上の右手を左手でぎゅっと掴んだ。

「できません。あ、あの…」

「何言ってんの、泉ちゃんだからできるんじゃん」

「は?」

 チーフはニッと笑って、ずれそうな銀縁眼鏡をチョイと直した。

「キャリアもある。サブチーフ並みの実力も持ってる。適任だよん?」

「そんな実力なんて、今は…」

 その後を言い淀む。先月、入力室を視察した他社の人に「新人」と言われた事を思い出した。新人が新人を指導するなんて無理な話だ。

「今はね。でもそれは右手だけの話。そこんとこ理解しなさいね。ハイ決まり」

「え、え、」

「これ読んでおいて」とファイルを一冊差し出され、「ほい戻った戻ったー」と追い払われてしまった。

「…チーフは多分、リハビリの一環というか、その…私…」

 私のために、という言葉が出なかった。澤田さんは「ま、市川さんの事やから、そんなもんやろな」と軽く頷いた。

「どうしよう。自信ないよ」

「市川さんは、由加に出来そうもない事は頼まへんよ。それに新人さんかて早いとこ使えるようになってもらわな困る訳やろ?確実の線を狙うんやったら大河内さん辺りに頼みゃあええやんか、由加に頼むのは同じ事が由加にも出来るからや」

「そう、かな」

「そおっ」

 澤田さんが妙に力を入れてそうと答えるのでおかしかった。

「さっきの箸みたいに粘ってみい」

「…うん」

「由加、やっと自分から手の話するようになったな」

 ニコッとして言う澤田さんを横目で見上げた。本当にこの人にはかなわないのだ。

 開発部の澤田智彦といえば泣く子も笑う関西人、社内きってのフェミニスト、歩く気配りオフィスのドラえもん、そして私、入力室の泉由加のお守り役。以上は全て私が言ったのではなく、社内で囁かれる彼のキャッチコピーである。

 澤田さんは、私がこの会社に派遣されてまもなく知り合った友人、和泉諒介の親友でもあって、その縁で私とも親しくしている。諒介はというと昨年の四月に大阪へ行ってしまった。私の特異体質───右手の事ではない───を知る唯一の人物で、離れていても私を気に懸けてくれる有り難い友人だが、それが周囲に誤解を生んでいる。私達は社内公認、本人非公認のカップルなのだ。そして澤田さんは『泉ちゃんの虫除け』とまで言われており、三人の友情はなかなか複雑な形に見える。

 けれど私達が解り合っていればそれでいいのだ。

 私は頷いて「えへへ」と笑った。

 帰宅して入浴し、パジャマ姿で床にごろごろ転がって、借りてきた研修指導のファイルを開いた。システムの概要。私が昨年、諒介に教えてもらった時はどうだったかと思い出しながら活字を追っていると、行間やページの隅に諒介が書き込んだ青いインクの文字があった。ちまちました、癖のある字ですぐ判る。私は、入力室のインストラクターを今度は私がやる事になったと報告しておこう、と思った。電話でも済む事だが、私は手紙を書く事にした。これもリハビリになるからだ。

 テープを巻いて太くしたペンを握ってゆっくり書く。無意味に字が大きい。ところどころ字が震えている。なんて格好悪い手紙だろう、と書き終えてがっかりした。しかし書き直す気力もない。せめて外側くらいは見栄え良くしよう、と宛名はワープロで打って、畳んだ便箋を封筒に入れた。




 桜も五分咲き、四月の始まりに入力室は新入社員二人を迎えた。

 一人は山口さんといってスラリと背が高くスタイルも良い、モデルみたいな女の子だ。 もう一人は浜崎さん、やっぱり背が高くてスタイルも良くて、スポーツ選手みたいな女の子。モデルとスポーツ選手、どう違うのかというと、ただ雰囲気が違うだけである。

「インストラクターの泉です。よろしくお願いします」と頭を下げた後、頭を上げた。見上げてしまったのだ。最近の子は発育がいい。この身長差、どちらが新人だか判らない。

 三人で入力室の奥にある休憩室の椅子に座った。テーブルに資料を配る。「それでは…」の言葉と一緒に口から心臓が飛び出しそうだった。震える手でファイルを開いた。

 私はそこに挟んだ諒介の手紙を見た。

 指導の要領が細かに書かれている。先輩の心遣い。友達の優しさ。思わず微笑んだ。

 一通りの説明を終えて、私は心の中で自分に拍手喝采した。

「…山口さんには、基本コードを覚える研修に入ってもらいます。判らない事があったら、いつでも私に声を掛けてください。浜崎さんはタイプの練習から…」

 自分の事を言っているみたいだった。

「それじゃ、マシン使って説明します」

 立ち上がって私の席へ行き、基本操作や仕事の流れを説明する。今は居ない松岡さんが教えてくれた事だ。「こうやって」とゆっくりキーを叩く私の手元を二人が覗き込む時、顔から火が出そうだ、と思った。

「心臓飛び出したり火ィ吹いたり、マジシャンかおまえは」

 午後の休憩時間に澤田さんと五階の廊下の中程にある休憩所でお茶を飲んで、研修指導の時の事を話すと彼はそう言った。私は長椅子に果ててしまった。

「だって緊張したんだもの」

「その上がり性、何とかせえ」

 マシンの前で説明を終え、ほっと安心した途端に「それでは席に着いてください」と言うべきところを「それでは位置に着いてください」と言ってしまい、隣の席の佐々木さんに「用意ドン」とすかさず突っ込まれてしまったのだ。新人さん二人は驚いて三秒程固まっていたが、皆が手を止めて大笑いすると一緒になってお腹を抱えて笑っていた。

「もうだめ。恥ずかしくて死にそう」

「まだ初日やんか。これからやろ」と澤田さんが私の頭をくしゃ、と撫でたのでびっくりした。「ひゃっ」と言って飛び起きようとして、テーブルの縁に頭をごちんとぶつけ、長椅子から転がり落ちた。「いたた」

「大丈夫かー?」と澤田さんは椅子からしゃがんでテーブルの下に頭を入れてこちらを覗いた。大柄な彼が休憩所の明かりを遮って、テーブルの下は暗くなった。

 突然怖くなった。

「…いや」

「由加?」

「いや、いや、怖い」

 逃げだそうとするがテーブルの下は狭く、私はテーブルの脚や長椅子にごちごちとぶつかった。「いやだ、やめて」

 ガタンと大きな音がして不意に明るくなった。澤田さんがテーブルをずらしたのだ。立ち上がった彼は私を見下ろしてひどく驚いた顔をしていた。私はそれを見て、ああ、と床に転がって丸まった。震えが止まらなかった。

 大丈夫、もう暗くない。どこにも落ちない。大丈夫。

 自分に言い聞かせていると、澤田さんが私の傍らに膝を突いて「何がそんなに怖いねん」と訊いた。

「…暗いのが」

「ええ?」

「暗いとどこかに落ちそうなの。怖いの」

 澤田さんは「落ち…?」と呟き、私を起こそうと肩に手を置いた。

「触らないで」

 思わず叫んでしまった。彼はぱっと手を退けた。

「…ごめん。自分で起きられる…」

 ゆっくりと起き上がって髪を掻き上げた。「もう、大丈夫だから」澤田さんの顔を見られない。涙が出そうだったのだ。

「…行かなくちゃ」

「あ、ああ。俺も…」

 彼がテーブルを戻す間に、私はふらふらと休憩所を離れた。背後で彼が心配して私を見ているのが判っていたが、早く一人になりたかった。


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