1-2.てのなるほうへ①
シスターの授業中に現れた少女・ラズリ。
シスターを慕う施設のOBである彼女は、いなくなってしまった友人の所在を聞きに来たのだった。
収穫は得られず、彼女は施設を後にする。
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――絶え間ない喧騒と、漂う紫煙。
大男達が木製のジョッキを突き合わせて一気にあおるその横で、机に突っ伏した男が呻き声をあげている。部屋の隅ではテーブルに小銭を山積みにした男達が殺伐とした雰囲気でトランプのような札をめくる裏では、無精髭を蓄えた男と派手な化粧の女が大きな笑い声をあげていた。
吹き溜まりと呼ぶにはあまりにも活気に溢れ、楽園と呼ぶにはあまりにも堕落したこの場所で、人々の合間を縫うようにして忙しなく動き回るラズリを目で追い続ける。
「ハイ、ミートボールおまたせしました」
酒や料理と共に各テーブルへ届けられる彼女の笑顔は、シスターの施設で子供に向けられるそれと全く同種のものであり、先程聞いた「酒場での仕事は子供の相手をするのと同じ」という言葉が本心であろうことを示していた。
教室から出ていくラズリを反射的に追いかけてここまで来てしまった俺は、見えないことを良いことにストーカーじみた……というかストーカーそのものになってしまったことに気まずさを紛らわせるために、致し方ないことだと自分に言い聞かせる。
本来であれば彼女が言っていたルビーという子供を探す手伝いをするつもりだった。が、ラズリが教室からそのままこの場所に来てしまったため、戻るタイミングを見失ってしまったのだ。
決してやましい気持ちでつけまわしていた訳ではない。
誰にするわけでもない言い訳を心の中で重ねながら、開放的な雰囲気に反して閉塞感をおぼえるこの空間でまともに息ができる場所を探していると、一番奥にピアノのような楽器が置かれた演壇が目に入った。
他の場所よりも多く設けられた灯りに照らされた壇上で、楽器は主人の帰りを待つように寂しく佇んでいた。
しかし、仮にどこかの誰かが弾いたところで、こんなにも無秩序に騒音を撒き散らす店内では誰も耳を傾けないだろう。誰にも求められていない、場違いな異物という印象が今の俺のようで、妙な親近感を覚えてしまう。
気づけば楽器が置かれた壇に上がっていた。ピアノが弾けるわけでもない。ただ、必要とされていない楽器に寄り添ってやりたくなっただけだった。
座れば嫌でも人目につく場所だったが、いつも通り俺に一瞥をくれる人間は誰もいない。カウンターの向こうで皿を拭いている店員すら例外ではなく、得体の知れない俺のような者が楽器に触れようとするのを制止する素振りすら見せなかった。
楽器の前に置かれた椅子に座り、試しに鍵盤を2、3叩いてみると、やはりピアノと同じような軽快な音が鳴り響いた。
鍵盤を乱雑に叩き、悲鳴のような泣き声のような、雑多な音が撒き散らしてみる。しかし、店内は大声を張り上げて笑う者、殺気立った雰囲気で杯をあおる者、人目をはばからず抱き合い始める男女など、笑えるほど類型化された酔っぱらい達が各々の刹那的な幸せを享受している真っ最中で、誰もこちらに気づいてはいなかった。
「やっぱり気づいてはもらえないんだよ、俺もお前も」
楽器に対して言い聞かせるように呟き、溜め息を漏らす。「ひょっとして誰かが俺の存在に気づいてくれるのではないか」などといった期待を抱いていなかったと言えば嘘になるが、それ自体はどうでもよかった。
ただ、寂しく置いてある楽器の「救い」になることができなかったのが少しだけ悔しかったことと、自分の楽しみを貪るだけの人々に虚しさを覚えた。
自分以外には無関心な人達によって作られた淀んだ空気は、前の世界で目にしていた昼休みのソレとよく似ており、嫌悪感をおぼえずにはいられなかった。
しかし、何より辛いのはそういった蔑むべき情景よりも、カウンターの奥から漂う料理の香ばしい匂いや、この上なく満足そうな様子で杯を空けてうっとりとした声を漏らす人達だった。
この一ヶ月間パンと水しか摂っていない俺にとって、手の込んだ食事は存在そのものが暴力的だった。
ある程度は耐えていたものの、途中で久しく飲んでいないコーラの蠱惑的な甘さが脳裏をよぎり、喉を鳴らしてしまう。
慢性的な飢餓感が一気に広がり思考が塗りつぶされていく中で、自制心がこの場を離れるべきだと言い聞かせ始めた。
それに従い立ち上がろうとした瞬間、制止するようにラズリのよく通る声が響いた。
「それじゃ、そろそろ演らせてもらおうかな」
その一言で、風が吹き抜けたかのように店内が静まり返った。
大声で話していた人達は口を閉じ、俯いていた男は顔を上げていた。賭けに興じていた男達も手元の札を置き、彼女の方へと顔を向ける。
一体何を「やる」のか一瞬考えた後、ゆっくりとこちらへ歩みを進めるラズリを見て言葉の意味を理解した。
慌てて席を立ち上がり、すぐ近くにあるカウンターの空席に腰掛ける。そのまま外に出ればよかったと思った時には、既に彼女は鍵盤に触れ始めていた。
音が、鳴る。
否。奏でられる。
楽器の弾けない俺が鍵盤を叩いても意味のない音しか鳴らないのは当たり前だ。そして、楽器を弾ける人間が曲を演奏出来るのも当たり前だ。しかし、彼女が音を重ね合わせて楽曲を編んでいく様は、単に「楽器を弾く」「曲を演奏する」という言葉では表現出来ない何かがあった。
一言で言えば「上手い」のだろう。だが、その言葉を幾つ重ねても実態には程遠く、却って薄っぺらくなってしまうような気がした。
普段の彼女の朗らかさとは対称的な静けさを湛えた美しい音に聞き惚れていると、途中から彼女のよく通る声が乗せられるようになった。
普段よりも高く清廉な印象を与える美声が、体中に沁み入るような感覚。映画館で重低音を浴びた時のような首の後ろにピリピリと伝うようなそれではなく、頭から足の指先からゆっくりと柔らかな音に浸かっていくような感覚だった。
歌われていたのは、魔王討伐に出かけた勇者の冒険譚、その一幕だった。
以前耳にした「魔物」という言葉を思い出し、RPGや映画のようにこの世界にも魔王がいるのだと再認識する。
あっという間に演奏が終わり、店内は万雷の拍手と喝采に包まれた。
「今日はこれでおしまい、続きはまた明日!」
ラズリが照れ笑いを浮かべながら壇上で一礼をすると、あちらこちらから束ねられた紙幣が壇上に飛んでいく。
あまり行儀が良いとは言えないが、音楽を聞くということを越えた特異な体験に、紙幣を投げて礼を言いたくなる気持ちは痛いほどに理解出来た。
再び騒がしさを取り戻した店内で給仕を再開したラズリを、俺は放心状態になりながら見つめる。
昼間に彼女を知った時には、こんな特技があるとは思いもよらなかった。
一種の崇拝のような気持ちを抱き始めている自分に気づき、頭を振る。
「あっれー、もう終わっちゃった?」
店の扉を開けて入ってきた黒髪の女が大声をあげた。
年の頃は俺よりも少し上だが、酒場に積極的に来るようなタイプには見えない。
演奏を聞きに来たのは明白だった。
「はい、ついさっき終わっちゃいました。続きは明日」
女は毅然と答えるラズリに口を尖らせながらも、しぶしぶといった様子で奥に進む。俺の隣に空いていた席に座ると、カウンター越しに店員に注文する。
「あ、いつもの通り生卵3つジョッキによろしく。お酒飲めないのに来てごめんね」
「いえいえ。ラズちゃんの演奏を聞きに来てくれる人も立派なお客さんですから」
店員は笑いながら手際よく卵を割り、ジョッキに入れていく。
「かき混ぜたほうが?」
「んや、そのままでいいよ」
女は出されたジョッキを受け取ると、口をつけることなく、隣の席――俺の目の前に置く。
「生卵を飲むシーンで有名なボクサーを描いた洋画あるじゃん? アレって、最初は役者が拒否したらしいんだよね。なんでかって? 生卵って日本以外じゃゲテモノ扱いっていうか、普通に食中毒とか起きるかららしいよ」
そう言いながら、女は俺の方を向いて笑った。
思考が、停止する。
「でも不思議なもんよね、この世界……いや、この国? には生卵を飲む文化があるんだ」
「あ、貴方は……」
問い返す俺に、女は悪戯っぽく笑い返す。
間違いない。
――この女は、俺を見ている。俺が見えている。
「はじめまして。異世界にようこそ♪」