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異世界に転生した俺が『   』になった話  作者: 碓氷つむじ
第一章・プロローグ
2/8

0-1.異世界に来る前の話

「ちょっと煙草買いに行ってくる。すぐ戻る」

 そう言って家を出た父親は、二度と家に戻ることはなかった。

 そのまま消息を絶ち、十年経った今もどこにいるのか分からない。


 普通は心配したり喪失感に苛まれたりするのだろう。あるいは自分と母を捨てたことに怒りをおぼえたりするのかもしれない。

 しかし、父親が帰ってこないという事実に対して俺が抱いた感情は喜びだった。むしろ、いなくなったことに怒りなど湧くわけがなかった。なぜなら、何処かへ消えた男は人間のクズで、存在していることに怒りを覚えずにはいられないような男だったからだ。


 物心ついた時から父親が働きに出る姿を見たことがなかった。保育園の頃まで、世の中では母親が働き父親は家にいるのが一般的だと思っていたぐらいだ。

 たとえ働いていなくても、一緒に遊んだり、見守ってくれるような人間であれば人並みの愛着も湧いただろうが、今思い返しても疎ましく思われていたであろうことが分かるくらいには冷たい態度をとられていた。


 日がな一日家にいて本を読むか、昼間から酒をあおるような得体の知れない老人と公園で金を賭けて将棋を指すような日々を送る、本来であれば父親とすら呼びたくないろくでもない人間。

 唯一感謝出来るのは失踪してくれたことで、いっそのことどこかで死んでいて欲しいとすら願ってしまうような存在。

 それが俺の父親だった。


 同じ場所で働いている中年が、身の上話を聞き終えてひきつった笑みを浮かべている。

 この一瞬の間の後に出てくる言葉はデリケートな問題に不用意に触れてしまったことについての謝罪で、その後には同情か叱咤激励か更なる不幸自慢が続く。あるいは聞かなかったかのように軽く流す。そんなことが瞬時に予測出来るくらいには見慣れた反応だった。

 もちろん、他人が似たような話をしていたら俺もそのいずれかの反応をしていただろうが、個人的にはそこまで大した話ではなく、他の人が小さい頃に遭った事故や怪我の思い出話をするのと同じような感覚だった。


「そうかぁ、大変だったんだねぇ。まぁ人生色々あるからねぇ」

 同情の言葉を並べた後、同じ場所で働いているだけの人は話題を変えた。

 肉体労働の合間に訪れる休憩時間に重苦しい空気は必要ない。ただ食事をしている間の暇が潰せればそれで良い。そう言外に告げているようだったが、俺も概ね同意見だったので次の話題に移る。

 現場が変われば二度と会わないかもしれない希薄な関係だ。お互いの事情に立ち入るメリットなど何もなかった。


 会話を終えて日陰で少しだけ眠った後、午後の作業が始まった。

 俺とは違う世界に生きる人達の、幸せの象徴であるマイホーム。その建設現場の中で、車で運ばれてきた資材を指定の場所に運んだり、逆に車に言われたものを積み込んだり、清掃したり養生したりといった、誰にでも出来る単純な作業が俺の仕事だった。

 普段の何倍にも膨れ上がったような長い時間に耐えながら、いずれ監督から声がかかって作業が終わるその瞬間まで目の前の仕事をこなしていく。

 ヘルメットの下から滴り落ちる汗を拭い、動けば動くほど重く覆いかぶさってくる疲労を押し返しながら、土埃の中をただただ動く。容赦なく浴びせられる日光と怒号に精神がすり減らないよう心を無にしながら、ただただ働く。

 人間でなくてもいいような、むしろ機械がやれるならばその方がいいような、何の技術も要らないただの雑用。

 働く前は肉体的な疲労だけに耐えればいいと考えていたが、自分の仕事に誇りを持てないことがこれほどまでに精神的な疲労を伴うとは思ってもいなかった。とはいえ、俺に出来る仕事でこれ以上割りに合った金額のものがない以上、耐えるしかなかった。


 作業を終え、連れ立って事務所へと戻った頃には既に日が傾き始めていた。一列に並んで日給の入った薄っぺらい茶封筒を受け取ると、ようやくその日の仕事が終わる。


 同僚と最小限の挨拶だけを交わして、俺は足早にその場を立ち去った。当然、俺を呼び止める者は誰もいない。ここで働いている人の殆どが稼いだ日銭で思い思いの夜を過ごし、また始まる憂鬱な朝に向かって英気を養うのだ。貴重な時間を潰してまで俺と関わろうとする人間はいなかった。

 そして、それは俺とて例外ではなく、好きとか嫌いとかいった感情すら持ち合わせていない相手と意味もなく関わるぐらいなら、なるべく早く俺だけの楽しみに浸りたかった。


 懲役刑のような労働を終えた後、家路の途中にある自販機で缶コーラを買って喉を潤す。それだけが唯一の楽しみだった。むしろ、その瞬間のために一日の大半を苦痛に身を委ねているような気さえしていた。


 ペットボトルよりも冷えている缶コーラを、吹き出さないように慎重に開けて一気にあおる。

 口の中に広がる甘みと炭酸の刺激。背骨を伝って冷たさが全身に行き渡る、ひんやりとした感覚。口を離して息を吐き出すと、一拍おいて体の芯から力が湧き上がってきた。

 過去も現在も軽蔑の対象である酔っ払いの気持ちが、この時ばかりは理解出来るような気がした。


 少しずつ飲みながら、徐々に夜へと変わる街の中をゆっくりと歩く。粘着く汗を乾かし、日に焼けてヒリついた肌をいたわるように吹く穏やかな風が心地よかった。

 外灯が街と共に俺の中にあるなけなしの人間性を照らし始めると、くすんで見えた景色が色を取り戻していく。

 買い物かごをぶら下げたままスーパーの前に自転車を停める主婦や、漂ってくる惣菜のいいにおい。「生活」を強く感じさせるありふれた景色が、妙に愛おしく思えた。


 しかし、そんな気持ちも制服に身を包んだ同じ年頃の人達が視界に入った瞬間、急速に萎びていった。

 知っている顔がいたわけではない。

 ただ、複数人で楽しそうに会話をしながら駅の方角へ歩いていく彼らが理由もなく眩しく見えてしまっただけだ。そして、相対的に今の自分の暮らしが薄暗いもののように思えただけだった。


 例えば彼らと同じように、働くことを後回しにして学校に通っていれば、透き通ったガラス玉のような輝きを瞳に宿すことが出来たのだろうか。

 そんな考えが頭を過るが、即座に否定する。

 きっと心根は今と同じままだ。

 むしろ昼間に働くことを選んだのは、そういった後ろめたい気持ちをかき消すためだった。

 父親とは違うのだと証明し、俺は初めて自分の人生を肯定できるはずだったのだ。


 結果として訪れたのは、誰の気にも止められず、自分で自分を何者でもないと思い続ける「路傍の石」のような生活だった。

 夢と呼べるような目標も、何か出来るような能力もなく、ただ職についていることで社会に居場所を作っているだけの最低な生活。

 気づけば夢見ていた人生のスタートラインは見えなくなっていた。


 先程まで感じていた最大限の幸福が喪失感へと変わっていく。掴んだはずの感覚を取り戻そうと精一杯周囲を見回してみても、穴の空いた風船に息を吹き込むように気持ちが素通りしていくだけだった。

 やがて喪失感すら諦念にのまれていく。暖かな気持ちは余韻もなく消え去り、残ったのはぐずついた自意識だけだった。


 いっそ生まれ変われたなら。

 あの父親と一切関係のない環境で、真っ当な人生を送れたのなら。

 そう思う反面、環境を理由に甘えるなという自分の声が聞こえてくる。

「明日から、生まれ変わったような気持ちで頑張ろう」

 既に何度目かになる決意を口にして、俺は家路をとぼとぼと歩くのだった。


***************************************************************************


 肩を落としたまま、誰もいない家に到着する。

 ポストを開けると「朝霞 歴 様」と俺の名前が印字された封筒が数件出て来る。一つ一つ順番に見ていくが、そのどれもが公共料金の振込用紙だった。

 一人暮らしを始めてから、出会うことのない幽霊やサイコよりも出費が恐ろしくなった。

 とはいえ、実家に戻るという選択肢はなかった。

 母親に頼った生活をした時点で、俺は最も忌むべき男と同じになってしまう。学校を出るまでは致し方なかったが、今の状況で甘えるわけにはいかなかった。


 荒んだ気持ちのままテレビを点けると、流行りの芸人が声を張り上げてネタを披露していた。その時点でテレビをぶち壊したくなる衝動に駆られたが、ぐっとこらえてチャンネルを変える。

 映し出されたニュース番組は、一年ほど前に起こった高校生による銃乱射事件の話を蒸し返していた。


 撃ち殺された生徒の遺族が抱えるやりきれない思いを数分に編集した映像は、痛ましいという言葉以外では表現出来なかった。

 現場で射殺された犯人と同じ年ということもあり、この話題を目にする度に末恐ろしい気持ちになる。

 とはいっても、自分が学校に通っていたら撃ち殺されていたかもしれない――などという恐怖ではなく、一歩間違えば俺もああなっていたかもしれない、という恐怖だった。


 いかにクズの血を引いていようと、悪事を美徳とする感性は持ち合わせていない。さらに言えば銃の所持が許可されていないこの国でそれを入手し、あまつさえ人に向けるような真似などできはしない。

 それでも、なんだか他人の話を聞いているような気がしなかったのだ。


 ニュースが変わり、事故を起こして損傷したトラックとブルーシートで目隠しされている現場の映像が映しだされる。

 轢かれたのは俺と同じ年の高校生らしかった。

 遺体が見つからないほど派手な事故だったらしい。壁のシミになってしまった高校生の冥福を祈りながら、トラックの運転手のことを考えてやりきれない気持ちになる。

 この先どうやって生計を立てていくのだろう。色々な所に金を払う必要があるはずだが、少なくとも向こう数年は車に乗ることが出来ないはずだ。

 俺の疑問など関係なく、ニュースは続く。ここ数年の交通事故の分布を表すフリップが映し出され、キャスターが解説する。


「去年の交通事故での死傷者数は3700人を超え――」

「交通戦争時代の一万人よりは減っていますが、日に10人程度は亡くなっている計算になりますね」

「安全運転を心がけて欲しいものです」

「そうですね。それでは次の特集です」

「今、巷にかわいいネコちゃんが溢れています!!!!その理由とは!!??」


 痛ましい事件や事故の話をした後、ニュースキャスターが何もなかったかのように明るいニュースを語り始める。

 こんなことをしていて頭がおかしくならないのだろうか。


 見れば見るほど憂鬱になっていく。

 ただでさえ心が落ち込んでいるのに、追い打ちをかけられているような気分だった。

 リモコンを投げつけたい衝動を抑えながら電源を消すと、汗を流すためにシャワーを浴びることにした。

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