ずっと好きだった人
「関係ないわけないだろう。何をいじけているんだ?」
その言い方に、詩織は思わず涙をにじませた。
涙を見られないように、俯いたまま詩織は言った。
「いじけてなんてないよ。出て行って!」
強気で言ったはずの言葉は、涙にぬれて、簡単に健君に気が付かれてしまう。
「どうしたんだ」
小さなため息が頭上に降ってきた。
同時に優しい掌が頭の上に置かれて、詩織は本格的に泣き出してしまった。
小さな時から、ずっと彼が好きだった。
意地悪で、嫌味ばかり言うのに優しい人。
五つも離れた女の子が付いて回っても、軽く微笑みながら手をつないでくれた。
いつから恋心を抱いたのかはっきりと分からないくらい、いつの間にか恋をしていた。
だけど、五つの年の差は大きくて、詩織に兄がいなければ、隣に住んでいようがなんだろうが、あっという間に疎遠になっていただろう。
しかも、健君は女の子にモテた。
「俺もだ」と兄は主張するだろうが、兄のことなんか気にしていないからよく分からない。まあ、「お兄ちゃんに渡して?」と手紙を預かったことはあるが、どうでもいい。
「詩織?」
吐息のような声で呼ばれて、詩織はさらに涙をあふれさせる。
健君から戸惑う空気を感じて、身勝手にもむかっとした。面倒くさいなら構わないでくれたらいいのに。
その思いを言葉に乗せて、詩織は叫んだ。
「健君、私と付き合ってるわけじゃないって言った!」
「―――は?」
思ってもみないことを言われたというような彼の声に、詩織はさらに責め立てた。
「付き合ってくれるって、言ったのに!」
叫ぶ自分の声が、いつまでも子供っぽくて、嫌になる。
健君がすごく驚いた顔をしている。付き合っているつもりなんてなかったのだ。
でも確かに、先週、健君は詩織からの告白に応じてくれたはずだったのだ。
健君に勉強を教えてもらいながらも、ようやく詩織は大学に合格した。
健君だって社会人一年目で大変だったはずなのに、いつも勉強を見てくれたし、時々遊びにも連れて行ってくれた。
だから、ちょっと期待していた。この恋は成就すると。
先週、詩織の誕生日のお祝いに食事をごちそうしてくれた健君に告白をしたのだ。
「好きです。付き合ってください」
―――と。
健君は、目を見開いて数秒間固まった後、「ああ」と低い声で頷いた。
だけど、健君は、眉間にしわを寄せて考え込んでいるような顔をした。
迷惑そうな―――決して、自分も好きだった相手から告白された人の表情ではなかった。
機嫌が悪い顔で黙ってしまった彼に、詩織は呼びかけた。
「健君?」
今、告白にOKの返事をもらったのだと思う。
だけど、何だろうこの空気は。詩織は喜べなかった。
不安そうにする詩織に「ああ」と笑いかけたときには笑顔だったけど―――、あれは作った笑顔だった。
その後もいつも通りに食事をして、いつも通りに家に送ってもらった。
帰り道、手をつないで歩いた。
だけど、健君はどこか上の空で、何かを一生懸命考えているようだった。
きっと―――詩織を傷つけない方法なんかを。
隣の家に帰っていく健君が振り返ることは無かった。
詩織は健君が悩んでいるのを、気が付かないふりをした。
気が付かないふりをして、健君の彼女でいたかった。
でも、聞いてしまったのだ。―――彼と兄の会話を。
その時、詩織は洗濯物を干すために庭にいた。兄たちの声は、兄の部屋の開け放した窓から降ってきたのだ。
「おい、お前、詩織と付き合ってたの?」
いつそんな情報を入手したんだと兄の勘の鋭さに驚いた。
健君と付き合い始めたことは、まだ誰にも言っていなかった。
言えるはずがない。だって、まだ健君は考えている。
聞きたくないのに、その場から動けずに、干す予定のタオルを握りしめていた。
そして、詩織は決定的な一言を聞いた。
「いや……付き合ってない……」
健君の声は低くて、語尾まで聞き取れなかったけれど、聞かなくても、何の影響もない。
「付き合ってない」という言葉を聞き間違えるはずがないのだから。
健君の言葉に傷ついたのと同時に―――やっぱり―――とも思った。
最初から、健君の態度がおかしいことは分かっていたんだ。ほんの少しの希望に縋っていた。
彼は、幼馴染の女の子を気遣って断れなかっただけなのだ。