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日本書記に残された天変地異、疫病について

作者: 大海人 漢

 昨今の東日本大震災や津波が現代人に与えた恐怖と衝撃は、我々の命が絶えず自然界の鳴動に左右されていることを改めて知ることが多い。

また、過去には渡来してきた人々が新たな疫病を持ち込み、日本列島全域に蔓延し、多くの死者を出してきた。

医学の未発達の時代では治癒が望めず、隔離するか祈祷師が祈ることが唯一の治療法であった。

権力者もこの疫病の平癒と天変地異を鎮めることができなければ、地位を追われ、時には責めを負い殺されることもあった。

そして、自分達が苦しんだ疫病や天変地異を歴史に残し、後世の人々に役立てばという思いを残した。 日本書紀は、様々な豪族の家に伝わる諸々の家伝や言い伝えを天皇家が編纂して歴史書として残したものである。

本書は、将来の我々がこのような災害や疫病にみまわれた時に克服するための一助となればと思う。

表示法は、天皇記(推定西暦、中国、朝鮮半島の王朝名)と疫病、天変地異の内容を記す。

 ◎崇神紀5年(前93年、前漢、楽浪他3郡)

 国内に疫病が流行り、民の半分以上が亡くなった。この病は6年11月にようやく収まった。

 ◎崇神紀11~12年(前87~86年、前漢、楽浪他3郡)

 11年夏、異俗の人々が多数渡来した。陰陽が乱れ、寒さと暑さが平年と違った。疫病が起こり、人々は大いなる災いを受けた。

◎允恭紀5年秋7月(416年、北魏と東晋、百済、新羅及び高句麗)

 地震が起こった。

 ◎欽明紀28年(567年、北周と北斉と陳、百済、新羅及び高句麗)

 諸国で大水が出て、飢える者が多数でた。人が人を食らうことがある程であった。被害の少ない国々から穀物を運んで飢餓を救った。

 ◎敏達紀14年春2月(585年、隋と陳、百済、新羅及び高句麗)

 国内に疫病が蔓延し、死ぬ者が多かった。

 ◎敏達紀14年春5月~夏6月(585年、隋と陳、百済、新羅及び高句麗)

 疱瘡で死ぬ者が多かった。体が焼かれ、打たれ砕かれるように苦しいと叫んで死んでいった。

 ◎用明紀2年春4月(587年、隋と陳、百済、新羅及び高句麗)

 大王の疱瘡は、重病となり、亡くなった。

 ◎推古紀7年夏4月(599年、隋、百済、新羅及び高句麗)

 地震が起きて、全ての建物が倒壊した。全ての神に地震の平癒を祈願した。

 ◎推古紀9年夏5月(601年、隋、百済、新羅及び高句麗)

 大王は、耳梨の行宮に訪れた。この時大雨が降り、川の水が溢れ宮殿に満ちた。

 ◎推古紀20年夏5月(612年、隋、百済、新羅及び高句麗)

 この年百済から倭国に帰化する者が多かった。その者の顔や体には、斑模様や痘痕があり、異様であった。

 ◎推古紀28年冬12月(620年、唐、百済、新羅及び高句麗)

 天に赤色の気が現れ、長さは一丈あまりで、形は雉の尾のようであった。

 ◎推古紀31年春~秋(623年、唐、百済、新羅及び高句麗)

 春から秋まで長雨が降り、洪水が出て五穀はよく実らなかった。

 ◎推古紀34~36年夏4月(626~628年、唐、百済、新羅及び高句麗)

 34年夏6月、雪が降った。この年は3月より7月まで長雨が降り、天下は大いに飢えた。

老人は草の根を食って道端で死んでいた。幼児は、母の乳を吸いながら母の死骸に重なりあっていた。また、盗賊が大いに蔓延った。

 35年夏5月、蠅が多く集まり十丈ほどの高さになり、大空を浮遊しながら信濃坂を越えた。その羽音は、雷のようであった。上野の国で霧散した。

 36年春3月、日蝕があった。夏4月、あられが降った。桃の実ほどの大きさであった。春から夏にかけて日照りが続いた。五穀が実らず、百姓は大いに飢えた。

 ◎舒明紀6年秋8月~7年春3月(634~635年、唐、百済、新羅及び高句麗)

 長い星が南の方角に見えた。人々は彗星といい、やがて東方にきえていった。

 ◎舒明紀8年春1月~10年秋9月(636~638年、唐、百済、新羅及び高句麗)

 8年春1月、日蝕があった。夏5月、長雨があり洪水となった。ひどい旱魃が起こり、民は大いに飢えた。

 9年春2月、大きな星が東から西に流れ、雷のような大きな音がした。春3月、日蝕があった。

 10年秋7月、大風が起こり、木々や家々を壊した。9月長雨が降り、桃や李の花が咲いた。11月、雲がないのに、雷が鳴った。大風が吹き雨が降った。長い星が西北の空に見えた。この彗星が現れると、人々は凶作になると噂した。

 12年冬2月、星が月の中に入った。人々は、凶事が起こる前触れではと噂した。

 ◎皇極紀元年春3月~2年夏9月(642~643年、唐、百済、新羅及び高句麗)

 空に雲がないのに雨が降った。この月も翌月も、長雨であった。

6月、日照りが続いた。星が月に入った。不吉なことが起こるのではと人々は囁き合った。

河の神に祈ったり、雨乞いをした。8月雷鳴が起こり、大雨が5日間続き、天下を潤した。

 冬10月、地震があり雨降りの日が続いた。翌日も地震で揺れた。この夜は地震と共に風が吹いた。

2週間後、夜半に地震が起こった。この月は大雨が降り、西北の方向で雷が鳴った。冬なのに春の陽気であった。

 2年春1月、5色の大きな雲が天に満ち(瑞兆)、一色の青い霧が地面に湧き上がった(凶兆)。大風が吹いた。

2月、桃の花が咲いた。雹が降って草木の花や葉を枯らした。

3月、強風が吹き、雷が鳴り、みぞれが降った。

4月、近江国で径が一寸に及ぶ雹が降った。

5月、月蝕があった。

7月、茨田池の水が腐り小さい虫が湖面を覆った。その虫は口が黒く、体は白かった。湖面は藍色に染まり、死んだ魚が腐って浮いていた。

9月大雨が降り、暫くして雹になった。

 ◎孝徳紀2年~5年春1月(646~649年、唐、百済、新羅及び高句麗)

 越の国の鼠が昼夜連なって東に移動した。

3年夏4月、雨が9日間降り続き、家が壊れ水田が没した。人及び牛馬が多く溺死した。

 5年春1月夜、鼠が飛鳥の都に向かって移動した。

 ◎斉明紀4年冬11月(658年、唐、百済、新羅及び高句麗)

 出雲の国より報告あり。北の海の浜に沢山の魚が打ち上げられ、積み重なっています。

3尺の高さに積み上がっており、魚は河豚ぐらいの大きさで雀のような口をし、針のような鱗があるとのこと。

 ◎斉明紀6年冬12月~7年春5月(660~661年、唐、百済、新羅及び高句麗)

 蠅の大群が西に向かって、大坂山を飛び越えて行った。群れは人が十人で取り囲んだ大きさで、高さは大空に達する程であった。

 7年春5月、大王が筑紫の朝倉橘広庭宮に遷宮したとき落雷があり、鬼火が現れた。大舎人や近習の人々に、病をえて亡くなる者が多かった。

 ◎天智紀3年春3月(664年、唐、新羅及び高句麗)

 難波京の北で星が落ちた。地震があった。

 ◎天武紀4年秋8月~7年冬12月(675~678年、唐、新羅)

 大風が吹いて、砂を巻き上げ家を壊した。11月に大きな地震があった。 

 5年春5月、下野の国司が凶作のため百姓が飢え、子を売るものがおおくいたと報告した。また、機内の草木を勝手に切ることを禁じた。

夏6月、大旱魃があった。神々に祈祷し、僧侶を招いて三宝を篤く祀らせた。しかし、雨が降らず五穀は実らず、百姓は飢えた。

秋7月、箒星が東の空に現れた。7,8尺もあった。

9月になって大空に覆った。

 6年夏5月、旱魃があり、機内で雨乞いをした。

6月、大地震があった。

 7年冬12月、鳥が空を覆って、西南から東北方向に飛んでいた。

筑紫の国で大地震があった。地面が広さ二丈、長さ3千丈にわたって裂け多数の民家が崩壊した。丘が崩れて流れ出て、その上にある家も移動した。

家の家人は、夜明けとともに異変に初めてきずき驚いた。

 ◎天武紀8年夏6月~13年夏6月(679~684、唐、新羅)

 雹が降った。大きさは桃の実ほどもあった。

冬10月、地震があった。11月、また地震があった。

 9年夏8月灰が降った。雷電が激しかった。

9月地震が発生した。11月、日蝕があった。後日、月蝕も起こった。

 10年夏6月、雨乞いをした。地震がまたあった。

秋9月、箒星が現れた。火星が月と重なった。冬10月、日蝕があった。

その後地震が起こった。11月、地震がまたあった。

 11年春1月、地震があった。3月、また地震があった。

秋7月、地震が発生した。

8月、灌頂幡のような形の火色のものが、空に浮かんで北に流れ日本海に沈んだ。

この日、水蒸気が東の山で発生し、その大きさは一丈二尺もあった。

次ぎの日、地震が起きた。虹が天の中央に向かい合って現れた。

 12年秋7月、8月に至るまで日照り続きで雨が降らなかった。百済僧、道蔵が雨乞いを行った。

 13年夏6月、雨乞いをした。7月箒星が西北の空にあらわれた。長さは、一丈余りであった。

  同年冬10月、夜中に大地震があった。人々は、叫びながら逃げ惑った。山崩れが起こり、土砂は川に溢れた。

官舎や家屋並びに寺社の壊れるもの多く、人畜の被害は多大であった。

伊予の国の道後温泉では湯がでなくなり、土佐の国では田畑が一千町歩も埋まり海となった。

古老曰く。このような地震は古今東西はじめてであると。

東方の海で鼓の鳴るような音が聞こえ、伊豆大島の西と北の両面が三百丈余りひろがり、新島ができた。

11月、土佐の国から高波が押し寄せ、海水が溢れ返った。

7つの星が東北の方へ流れ落ちた。日没時、星が東の方へ落ちた。

夜8時頃、隕石が大空を雨のように流れ落ちた。

天の中央に仄かに光る星があり、昴と並んで動いていた。

 14年春3月、信濃の国に灰が降って草木が枯れた。冬12月、西の方で地震が起こった。

 ◎天武紀朱鳥元年春1月(686年、唐、新羅)

 春1月、地震があった。秋7月、雷が南方の空に光り、大雷雨となった。

 ◎持統紀朱鳥元年冬11月(686年、唐、新羅)

 冬11月地震があった。

 ◎持統紀2年秋7月(688年、唐、新羅)

 旱魃のため雨が降らなかった。百済の沙門道蔵に雨乞いをさせた。

 ◎持統紀4年夏4月(690年、唐、新羅)

 日照り続きで、雨乞いをした。

 ◎持統紀5年夏6月(691年、唐、新羅)

 都と諸国の40箇所で水害が発生した。4月から降り始めた季節はずれの雨は、6月まで続いた。

 ◎持統紀6年夏5月(692年、唐、新羅)

 洪水が発生した。秋7月、夜半火星と木星が点滅しながら、離れたり接近したりを4度繰り返した。

 ◎持統紀11年夏5~6月(697年、唐、新羅)

 日照り続きで、諸社に詣でて雨乞いをした。

(あとがき)

 古代の倭国で発生してきた転変地異で多いのは、旱魃、洪水、地震、津波、火山の噴火、隕石の落下でした。

交易を通じて或いは大陸の難を逃れて多くの人々が渡来しましたが、中には不治の疫病を持ち込む者もいて貴賤に関係なく病み死んでゆくものがかなりいました。

人々は、とにかく無力でした。神に祈り、祈祷師に全てを任せることしかできませんでした。

天皇紀の中で、特筆すべきは天武紀です。福岡西方沖地震と東南海地震が記録されているのである。

巨大地震とそれに伴う巨大津波、火山の噴火(富士山?)の様子が具体的に表わされている。

日本列島が活動期に入り、この時期に転変地異が集中しているようである。

近い将来、日本列島がこのような災難に見舞われ、未曽有の被害がでるのではと危惧している。




 

 

 


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