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ヒツゼンセイ関連

Pseudo-Lovers

作者: 八久斗

 マーフィーの法則というやつがある。端的に言えば「こういう時に限って」というものであり、例を挙げるなら「食パンを床に落とすと、決まってバターを塗った面が下になる」なんて感じだ。

 泣きっ面に蜂という言葉もある。悪いことは重なるものだという意味であり、先ほどの例に加えるなら「食パンが落ちたので咄嗟に掴もうとしたら手で弾いてしまい、食パンは埃の溜まった冷蔵庫の下へ、手と床はバターまみれ」てなことになるだろうか。それを思えば今の状況は些細なことであり、こんなことで嘆くようでは先の長い人生が思いやられるというものだ――

 奴と初めて言葉を交わしたのは、俺がそんな訳の分からない理屈で自分を慰めようとしている時だった。

「何してんの?」

 突然声をかけられて、文字通り俺は飛び上がった。何もやましいところは無いのだが、休日の昼間から駅のホームに這いつくばっている姿はあまり見られたいものではない。多感な中学3年生なら尚更だ。

 後ろに立っていたのは髪の長い女子だった。背は高く、華奢ではないがシャープな印象を受ける。両の瞳はキラキラと輝き、あらゆる事を楽しんでいるかのように思えた。制服に見覚えがあり、別の中学だが年の頃は同じくらいだろうと知れた。

「小銭でも落とした?」

 今度は少しばかり具体的な問いになった。確かに自動販売機の下をのぞき込んでいればそう見えるだろう。だが、それくらいのものであれば当時の俺はプライドが勝ってこんなことはしていなかったかもしれない。俺が落としたのは精々3桁の価値のものではなかった。

「……携帯なんだ」

 そう言うと、そいつは声を殺して笑った。

「何でまた、そんな所に」

「マーフィーの法則ってやつだ」

 我ながら分かりにくい説明だったが、奴は何となく察したようだった。もっとも、携帯電話をちょっとした弾みで取りこぼし、咄嗟に上げた足が下手に当たって自動販売機の下に蹴り入れてしまうなんて芸当、そうそうあってはたまらない。それもかなり奥まで入ったらしく、少しばかり手を入れても触れるものは無い。傘でもあれば掻き出せるのだが、本日の空は忌々しいほどに晴天だ。

 手持ちにめぼしい物はなく、その辺から何か棒のようなものでも拝借してこようかと思っていると、そいつは唐突に口を開いた。

「ね、マナーモードになってる?」

「……はあ?」

 意図が分からず、怪訝な視線を返す。しかし奴はじっと俺の目をのぞき込んできた。

「携帯。サイレントじゃなくて、振動するやつ。なってる?」

「なってる、けど」

 塾や電車でいちいち設定を変えるのが面倒で、俺は常に携帯の着信音をバイブレーションにしていた。だが、どうして今それを尋ねるのか。訝しがっていると、そいつは自分の携帯を俺に差し出した。

「じゃあこれで電話かけてみて」

 言われて思い当たる。携帯を見失ったとき、友人の携帯からかけて音を頼りに探したことがある。それをやろうとしているのか。そう思い、深く考えずに番号を打ち込んだ。まもなく自動販売機の下から振動音が湧いてくる。アスファルトとプラスチックが小刻みにぶつかるその音は、確かにそこに俺の携帯電話が存在していることを示していた。それにしてもこの音、決して聞いていて楽しいものではない。

 不愉快な音を鳴らしながら、ようやく思考が追いついてきた。確かにこれで場所は分かる。だが、奥にあれば取れないことに変わりはないではないか。それに、それなら何故マナーモードの有無を聞いたのか。音が出るなら普通の着信音でも同じはずだ。隣に首を捻ると、そいつはじっと音のする場所を見つめていた。俺も視線を戻す。と、妙なことに気がついた。

 音の出所が、動いている?

 それが意味するところを、俺が理解できるよりも先に、振動音は大きくなり――

 見覚えのある機体が、ひょっこりと顔をのぞかせた。


「駅のホームって、水はけのために傾斜がついてるんだよ」

 俺が今回の元凶から購入したレモンティーを片手に、奴は満足げに解説した。

「雨水が溜まらないように、中心から線路側に向けて低くなってる。だからベビーカーとかは動いちゃうから注意するようにって時々ポスターがあるよね。もちろんそれは自動販売機の下だって例外じゃない。もしかしたら角度と方向によっては使えるんじゃないかって思ったんだけど、上手くいって良かったよ」

 俺は小さい頃の遊びを思い出していた。ひもを引っ張ると振動する玩具。それをゆるやかな坂道に置く。そのままでは動かないが、振動させた途端、それは坂道を下り始める。摩擦力の関係だとは思うが、後に文系に進んだ俺にはそういう現象が存在するという程度の理解にとどまった。実際、理論は重要じゃない。大切なのは応用できるかどうかだ。隣のこいつは、それを見事に実践して見せた。

 しかし何故だろう。俺はこいつに対して尊敬や驚きではなく、得体の知れない不安を覚えていた。何か非常に面倒なことが起こりそうな予感。その理由が思いつく前に、反対側の列車がやってきた。

「じゃあ、私こっちだから。ごちそうさま。また明日」

 そう言うが早いか奴は身を翻し、車両の中へ消えていった。「明日」の意味もその時の俺には分からなかった。


 そいつが塾で同じ授業を受けていたことも、この一件で向こうに電話番号が知られてしまったことも、俺が気づくのはしばらく後のことだ。





「榎本! 貴様どういうつもりだ!」

 殴りかからんばかりの勢いで、友人某氏は昼休みを向かえ一息ついていた俺に迫る。何事かと視線を上げると、彼は教室の入り口に目をやった。その先にいる人物を認め、俺は現状を把握した。立ち上がり、手招きに応じる。周囲の視線が痛い。

 向かった先には長い黒髪を揺らすカズがいた。奴はにこやかに、手の内にある弁当包みを掲げて見せる。

「やあやあ、えのっちもお昼かな? 一緒に食べないかい? 何なら1つ余計に作ってきたけど」

「……何なんだ、いきなり」

「何って、別におかしなことじゃないでしょ。恋人ならそういうことやってもおかしくない、って言うか超ベタベタな流れじゃない」

「……まあ、そうなんだが」

「ほら、おいでおいで。実は秘蔵の隠れスポットがあるんだ。風は吹かず、雨は降らず、人目はない。逢瀬にはもってこいだよ」

 何でそんな場所が、とは言わないでおく。広い学校のどこかにそんな場所が1箇所くらいあってもおかしくはない。問題はそれを見つける好奇心と行動力と洞察力を持ち合わせた人間がいるのかという話で、目の前の人物を見ればそんなのは愚問だと分かる。

「飲み物は無いだろ」

「うん、まあ。途中で買っていけばいいよ」

「なら俺が出すよ。奢られっぱなしも気分が悪い」

 俺はそう言って自分の席に財布を取りに戻る。そこには先ほどの某君。両手をわなわなと震わせ、割と本気で怒っている。

「お前……吉沢さんはただの友達だと」

「そう言ったな、確かに」

 淡々と答える。面倒だな。

「今後もその関係は変わることは無いと」

「言ったかもな」

「なのに何故! そんな桃色ラブラブ手つなぎデートみたいなことを! 不可侵条約を破棄するとは紳士の風上にも置けない奴め!」

「そんな条約を結んだ覚えはない。それから手もつないでない」

 あんな奴でも、憧れのような恋情を抱いている男性陣は――俺には全く理解できないが――少なくないらしい。彼にとって、俺の言葉は酷く辛辣に聞こえただろう。

「状況が変わったんだ、悪いな」


 今年の初め、雪の降りしきる公園で、俺は前の彼女に別れを告げた。そして春休みに入り、同じ場所で、何のつもりかカズは俺との交際をもちかけ、俺もそれを受け入れた。今まで悪友といって憚らなかったカズと付き合うようになったのは何てことは無い、単に辛かったからだ。同じ頃、俺は部長として文芸部の行く末を案じていた。高校3年生になり、受験勉強も意識に上ってくる頃だ。いくつもの問題を並行して処理できるほど、俺は器用じゃなかった。そんな時に、恋人の問題を、向こうからの提案でひとまず保留にしたに過ぎない。つまるところ、――こんなことを言えば例の同級生から盛大な不興を買うだろうが――誰でもよかったのだ。

 そして実際、カズとの関係がどう変わったのかというと、取り立てる点も無い。以前から月に数度は何かしら会話をしていたが、それが週に数度になったという程度。別に腕を組んで出歩くわけでもないし、ロマンチックな会話を繰り広げるわけでもない。恋人なんてのは形だけで、実際のところは大して変わっていない。

 そのはずだった。昨日までは。


 この校舎に学んで2年強、昨日まで物理準備室なんてものがあること自体、俺は知らなかった。狭いが器具が乱立しているわけでもなく、圧迫感は無い。特異だが食欲を落とすわけでもない匂いが漂い、白と黒のコントラストで作られた簡素な部屋はなるほど人の気配がしなかった。

「ね、穴場でしょ」

「というか、管理者が鍵かけるのサボってるだけだろ」

「同じ同じ。鍵がかかってないということはつまり、入ってもいいってことだよ」

「それは泥棒の理屈だ」

「何さ、別に盗みたいものがあるわけでもなし。ある程度の値はつきそうだけど」

 天秤や金属球、バネといった小道具に目を走らせカズは箸を動かした。俺も渡された弁当の中身を口に運ぶ。

 前の恋人は、やや不器用ながらも何かと手を焼いてくれる人だった。毎日見るからに手の込んだ料理を詰めてきており、俺は嬉しく思うと共に恐縮したものだ。それに比べてカズの弁当はというと。

「これ……冷凍食品か?」

「ん、やっぱ分かる?」

 自分で言っておきながら、俺はその事実に驚いていた。恋人への弁当に冷凍食品の詰め合わせを持ってくるカズの神経に、ではない。冷凍食品がいかに朝の女性たちの時間を省きつつ弁当に多様性をもたらしてくれるかについて、俺は中学3年間を以ってよく知っている。俺がその言葉を発したのは手作り感が見えなかったからであって、決して陳腐だとか雑多な印象を受けたわけではなかった。むしろ見た目はデパートで売っているような割と値の張る弁当に近く、洗練された彩りは食欲をそそる。料理とは何たるかについて頭の中で議論を戦わせるほどの熱意も知識も持ち合わせてはいないが、そういえば1年の時の家庭科でカズが班の主導的役割を担っていたことを思い出し、俺はカズの料理に関する力量についての結論を出した。どうやらこいつは人だけでなく道具の使い方も上手いらしい。

「随分気合入ってるじゃないか」

「まあそりゃね。気合入れるなって方が無理ってもんじゃないかい」

「このクオリティがいつまで維持されるのかが気がかりなんだが」

「ん、お望みとあらば毎日でも。ただ、レパートリーに不安はあるね。青魚とかネギとかはまだしも、酢が使えないとなるとちょっと献立が面倒かな」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。が、俺の食べ物の嗜好のことだと気づいてうんざりする。

「何で知ってるんだよ」

「知ってるよ。長い付き合いじゃないか」

「いや、まだ知り合って3年くらいしか経ってないだろ」

「3年もあればえのっちのことを知るには十分過ぎるよ」

 当たり前のようにそんなことを言われても、俺はカズの好き嫌いなんか把握していないし、長年の友人でも好物を1つ2つ知っていれば良い方だ。何だかお前は単純な人間だと言われているようで暗鬱としてくる。

「お前の弱点をそのうち暴いてやるからな。今の情報偏在は非常に不平等だ」

「何言ってんの。そんなのいくらでもあるよ。私だって全能の神じゃない」

「じゃあ教えろよ」

 そう言いながら俺は肉団子を口に入れた。これは母親の弁当にも入っていたことがあるが、チーズはかかっていなかった。ただ解凍しただけではなくて一手間加えているようだ。こういうところでソツが無い辺りが小憎らしい。と、そこで本人がポツリと呟く。

「……脇が弱い」

「ブッ」

 思わず噴き出した。食片が床に散らばる。

「あーあー、なにやってんの、汚いなー」

「いや、お前が、へんなこと、言うから」

 むせながら抗議する。俺の聞き違いだっただろうか。ティッシュで拭きながら隣を見やると、カズはいつもと変わらない様子でケラケラと笑っていた。「脇が甘い」と言ったのだろうか? だが、それほどコイツに似合わない言葉も珍しい。「脇が固い」? いや、それは文脈からしておかしい。色々考えたが結局、聞こえたとおりの言葉しか思いつかなかった。もう一度こっそりと様子を窺うと、古い本の棚を見ながら白米を口に運んでいた。

……

 試してみるか。


 数分後、俺は鮮やかに肘鉄カウンターを食らった顎をさすりながら、やはりさっきのは聞き違いもしくはミスリードだったのだと思い返していた。


 教室へ戻る途中、小柄な女子生徒とすれ違った。一瞬目が合ったが、すぐに逸れた。心がかすかに痛む。

「……今、えのっちが考えてること、当ててあげようか」

「やめろ」

 しばらく歩いたあとで不意にカズが口を開き、俺は条件反射的に声を上げた。しかしカズは意に介さず続ける。

「私じゃなくて榊野乃と付き合うべきだったんじゃないかって」

「やめろって言ってるだろ」

「分かってると思うけど、それはお互いに不幸だよ。よした方がいい」

「分かってるって分かってるなら分かれよ」

 言いながら、先ほど目を逸らしたのは向こうではなく自分の方だったのではないかと俺は考えていた。

 榊野乃。部活の「元」後輩。告白されたのはあの子が初めてだった。俺は恋人がいるからとそれを断り、榊は部活をやめた。交際を受け入れていれば、今の部活はもう少し賑やかになっていたのではないかと、時々思う。そして結局、俺は当時の恋人と別れた。

 榊は知っているのだろうか。俺が彼女と別れたことを。そして、俺とカズが付き合うことになったのを。もし知っているのなら、それは榊を傷つけただろうか。2番手にもなれなかったことを悲しむだろうか。それとも、そんなのは俺の思い上がりだろうか。

「思い上がらないほうがいい」

 心の内を読まれたかのような発言に俺はドキリとする。しかし、よく考えればそんなのは日常茶飯事だった。そろそろ俺はカズに見透かされるのに慣れたほうがいいのかもしれない。

「何のことだ」

「今より良い未来があったんじゃないかなんて、考えないことだ。本当ならもっとできたはずだなんて、思い上がりだよ。後悔も、回想も、現実からの逃避に過ぎない。未来に繋がらないのなら、ね。たとえ並行世界があろうとなかろうと、私たちが生きているのはこの世界なんだから」

「厳しいな」

「厳しいかな」

「厳しいさ。正論だけで生きていけるほど、強い人間ばかりじゃない」

「でもえのっちには、それを免罪符にしないで欲しい」

「……」

 次第に喧騒が広がり、すれ違う生徒が多くなる。

 教室が見えてきた。


 午後の授業中、俺は教師の話を聞き流しながらカズのことを考えていた。

 何故、あいつは突然弁当を作るなんてことをし出したのだろう。恋人なら普通のことと言っていたが、俺たちの関係は実質そんなものではなかったはずだし、どうして今になって急に距離を詰めてきたのか分からない。正直、俺は戸惑っていた。今後、カズとどうやって接していくべきなのか。

 1つ確かなのは、あいつが何らかの目的を持って行動しているということだ。ならばその目的を考えることは、今後の俺の立ち振る舞いを導き出すだろうか。

 誰かに見せつけるため? 例えばカズが誰かに言い寄られていて、それを断るために。だがそれなら、今までにも何度かあったはずだ。今になって俺をダシに使う理由があるだろうか。今度のやつが今までになくしつこいやつだったとか。しかしそれなら逆に、この程度で済むだろうか。カズが対応に困るようなやつが、「弁当を一緒に食べる」くらいで諦めるとも思えない。あるいは俺の方かもしれない。榊が俺に近づかないように。それならあり得る話だ。だが、ならばさっきすれ違った時に、もっと見せびらかすようなアクションを起こすはずだったのではないだろうか。例えば手をつなぐとか。

 授業が終わっても、俺はすっかり納得のいく仮説を創出できずにいた。出会った時からずっと、あいつの考えることは結果が出るまで分からない、それは最早仕方のないことだ。ただ、気にくわない。また俺の知らないところで問題が解決しようとしている。

 そんな風に思うのは、俺がちっぽけな人間だからだろうか?


 部活が終わる頃に、カズは部室にやってきた。一緒に帰ろうと言う。今までは、偶然帰路を共にすることはあっても、用事も無しに示し合わせることはなかった。

「最近百合花ちゃんとはどうなの?」

 そしてこれだ。前の彼女の話を振るなんて、まるでやきもちを焼く恋人のそれじゃないか。

「別に。会ってもないしメールも何もしてない」

「随分とあっさりしてるね。半年前はいつも一緒にいたのに」

「別れるっていうのはそういうものだろ」

「未練はないの?」

「無い。……と言ったら嘘になるかもしれないが」

 横目で様子を窺う。当然と言うべきか、カズには些かの動揺も見られなかった。

「まあなんだ、しばらくは寂しさとかあったけど、今はもう慣れた」

 それは強がりではなかった。前の彼女と別れ、当たり前が当たり前でなくなった日々は確かに辛かった。自分を責めもしたし、虚無感に襲われたりもした。だが、当たり前でない日常が続けば、それが当たり前になる。今はもう、失恋の傷は癒えつつあった。もっとも彼女には悪いと思っているし、構えなく出くわせば冷静でいられる自信はないが。

「冷たいね」

「俺もそう思う、我ながら」

 別れてから1つの季節が過ぎ去ろうとしている。それが1年の恋を冷ますのに長いと思うか短いと思うかは人によるだろう。

「そういうお前はどうなんだ。その……百合花さんと話してないのか」

「話してるよ、時々ね」

 なら訊くな、とでも言いたかったが、なかなか口から出てこない。そうこうしているうちにカズが二の句を次いだ。

「えのっちは知らないんだね」

「何を」

「何でもさ。例えば、初めてしゃべった時にえのっちが買ってくれたのが私の大好物だったってことも、きっと気づいてない」

「……それは確かに、知らなかったな」

 随分と美味しそうに飲むなとは思った気もしないでもないが。こいつはいつも楽しそうにしているから、言われなくちゃ分からない……なんていうのは、観察眼の無さを棚に上げての言い訳だろうか。

 だがしかし、知る者と知らない者との間に優劣があるだろうか。知る者は知らない者を哀れむのではなく、教えてやるべきだ。それが当人の利益になるものであれば尚更に。違うだろうか?

「なら、教えろよ」

 この話の流れは、今日の疑問を解消する機会だと思った。今日この台詞を発するのは2度目だ。テストの答えを見るような後ろめたさはあったが、それ以上に今の悶々とした状況を脱したかった。

「何をさ」

「何でもだ。例えば、突然弁当を作ってきた理由。こんな風に下校に誘った目的。そもそも、どうして俺と付き合おうなんて言い出したのか」

「別に、大したことじゃない」

「おい、ちゃんと答えろよ。こっちは真面目に――」

「理由が無くちゃ、駄目なのかい?」

 思わずカズの肩を掴み、顔を覗き込んだ俺は、逆に見つめられる格好になった。

「え?」

「他に目的が無くちゃ、えのっちと仲良くしちゃいけないのかい? ただ単にえのっちと楽しく過ごしたいからっていうのは無しなのかい?」

 俺の見間違いだっただろうか。カズは一瞬、寂しげな表情を浮かべた。こいつと出会ってから3年間、ついぞ見たことの無い顔だった。

「いや、だって、それならどうして今になって……」

「私だってさ、ずっと考えてたんだよ。えのっちが私のこと、異性として見ていないのは分かってるし、だからこそ気兼ねなく提案することができた。でも、本当にこれでいいのかって。このまま卒業したら、あんまり会うことも無くなりそうだし。それに……もう時効みたいだしね」

 誰の、何に対する時効なのか。俺は説明を待ったが、カズの口からそれが続くことはなかった。もしかすると最後の言葉は、俺に向けてではなかったのかもしれない。

 しばらく、俺たちは無言で歩き続けた。歩きながら、脳内で何度もカズの言葉を反芻していた。

 疑うことだってできる。この台詞自体が俺を動かすための方便なのだと考えることだってできる。嘘吐きの「本当だよ」を疑うことは容易だ。

 でも、俺はそれをやめた。こいつの言葉をそのまま受け取ることにした。

 恋人とは信頼関係だ。根本的なところを疑うようになってしまえば、別れるしかない。そして俺には傍にいる人間が必要だった。少なくとも、今はまだ。

「……手、つなごっか」

 そう提案されて、俺たちはぎこちなく手を絡めた。初めてしっかりと触れるカズの手は、思っていたより小さかった。





 バスに乗ると、ちょうど二人がけの席が空いていた。座ると同時にバスが動き出す。隣をちらりと見やると、カズは思案顔で窓の外を眺めていた。そこから視線を下げると、腕は無防備にもだらりと垂れ下がっている。

 俺はこっそりと、人差し指をカズの脇腹へ進ませた。


 ――その後の出来事については、当人の名誉のために口外しないでおこう――

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