第三部第十七章
この犬神人達の決起の輪の外で、これを見守っていた人がいる。そう、ゆきである。
彼女は親鸞から、里での不穏な動きのことを聞いていて、親鸞が捕らわれた後は、彼の代わりに毎日のごとく源太のもとを訪れていたのであった。
その日は、里についてみると、すでに源太を中心に皆が集まっており、ただならぬ雰囲気である。しばらく見守っていたが、もはや決起寸前であることを知り、急ぎ、盛高に相談せんと、共に里を訪れていた次郎に、直ちに彼のもとへ走り消息を知らせるようにと頼んだのであった。
「源太さんたち、犬神人の皆が、獄舎へ押しかけようとしています!」
息を切らしながら、そう絶え絶えに話す次郎を落ち着かせると、盛高は早速馬を走らせた。
「早まったことを」と、内心では思うが、彼らの決意と行動力に頭が下がる思いでもあった。
無論、彼の下にも安楽らの死罪については消息が既にもたらされていた。
――とんでもないことになった
とは思う。そして「何とかせねば」とも思うが、名前ばかりは副長官であっても、すでに秀能からは疎まれ、自分の知らぬ間に物事がどんどんと決められ、進められていく有様であった。——加えて、今回の念仏禁止の宣旨に合わせるかのように、自身も秀能より、登庁をしばらく見合わせるようにと申し渡されていた。
何らなすすべがないままに、自宅で過ごす日々_。心は焦るばかりであった。そしてその焦る心に、今回の二人の死罪の知らせは最後の止めを刺すに等しいものだった。
――もはや、これまでか……
絶望のどん底に打ちひしがれていたところに、ゆきから知らせが入ったのであった。
「この事態をどうしたものか?」
馬を走らせながら、彼はこの数年の出来事を振り返っていた。自分の妹が過ごした村の人々が、今、命を賭して戦おうとしている……。
――時子が生きていれば、やはり立ち上がっていただろうか?
妹、時子のことに思いが至ると、なぜか、彼の心にはいつしか、絶望感に代わって、勇気、と呼ばれるべき感情が少しずつつ湧きあがってきた。
――そうだ!時子が生きていたなら、したであろうことを、俺が時子に代わってしてあげねば!
鴨川を越える頃には、彼の心はかなり晴れ晴れとしたものとなっていた。
「ほかに選択肢はあるまいて!」
四条の橋を渡りつつ、この時には、すでに彼の心の中にある重大な決意が湧き上がっていた。
見ると、橋の向こうにゆきが待っている。
「ゆきさん!」
馬を止めると、彼は馬から下りた。そして駆け寄るゆきと抱き合った。
「盛高様!」
ゆきは大粒の涙を流して泣いている。
「すべて私のせいです。私が、お局様を六時礼賛に是非にと、お願いさえしていなければ、このようなことには、このようなことには……」
そう言うゆきは、盛高にすがりながらも、自責の念で胸は張り裂けんばかりであった。
一方の盛高は慰める言葉を見出せず、ただ黙って彼女を抱いて慰めるしかなかった。
二人は暫く抱き合っていた……。
「ゆきさん……」
ゆきがようやく落ち着いたのを見て、盛高が声をかけた。
「ゆきさん、泣いてばかりでは駄目だ!」
「はい……」
でも、今、この有様で一体何が出来るというの?――不審そうに見つめるゆきの目をじっと見据えて、盛高は言葉を続けた。
「今こそ立ち上がらないと!」
彼のただならぬ気迫に押されて、ゆきは押し黙っていた。
――立ち上がるって、どういうこと?
ゆきは、盛高に源太らを、まずは何とか暴走を止めてもらおうと思って、彼を呼んだのあった。
「盛高様!」
ゆきはようやく声を出すと、盛高に尋ねた。
「立ち上がるって、一体どうなさるおつもりですか?」
不安に満ちた眼差しで、ゆきは盛高を見つめた。
盛高は徐に口を開いた。
「ゆきさん……。時子の受けた恩を私は今こそ返そうと思う」
「恩……」
「そうだ、安楽に住蓮、そして、源太さんたち犬神人の仲間から我が妹が受けた恩――人間として生きていく尊厳を奪われかけた我が妹に、再び生きる希望を与えてくれたその恩……」
ゆきは、ここに至って盛高の決意を知った。そこで彼の真意を測るようにこう尋ねた。
「つまり、安楽さん、住蓮さんを_」
しかし後は言葉にならなかった。やむなくゆきは黙っていた――それ以上言葉にするのがためらわれたからである。
――あの人たちを獄舎から奪い返そうなんて!そんな、御上に逆らうなんて!そんなことが、そんなことが!
「そうだ、ゆきさん。私は許されないことをしようとしているのだ!」
盛高が声高に叫んだ。
「たとえ、我がこの命、落としても彼らを救わねば!」
ゆきは、必死の決意の盛高を前にして、ただ泣くことしか出来なかった。
愛する人が命を失うかもしれない……。
しかも、かって愛した人を救うために……。
盛高はそんなゆきの思いを察して、再びゆきを強く抱きしめた。
そんな二人の背後から、突如威勢のいい声が響いた。
「盛高様!」
「ゆきさん!」
声の主は次郎、三郎であった。次郎は盛高の後を追って、また、三郎は知らせを聞いて駆けつけたのである。
「まあ、次郎さんに三郎さん……」
驚いたゆきが戸惑っていると、次郎が言葉を続けた。
「死ぬときはわしらも一緒でさ!」
すると、三郎が次郎をたしなめた。
「馬鹿者!盛高様を死なせるわけにはいかねえ。ゆきさんを泣かせるわけにはいかねえ!わしらが命を賭して、安楽様らを救うのじゃ!」
ゆきは二人の話を聞きながら、あまりの感激にさらに大粒の涙を流した。
「ありがとう、ありがとう!」
声を詰まらせながら返事をするゆきに、次郎がやはり涙声で応えた。
「ゆきさん、わしら河原者、人間以下の扱いを受けて、馬鹿にされて、ののしられ、時には石まで投げられ、――そんなわしらと寝食を共にして、苦楽を共にしてくれた方に、たとえ命を失っても、わしらは恩返しをする義務があろうというもの!そうでございましょう」
盛高も大きく頷いた。そして手を上げると叫んだ。
「次郎、三郎、ありがとう!共に戦おうぞ!」
次郎、三郎も応えて、威勢のいい声を上げた。
「えい、えい、おー!」
――しかし、どうやって?
ゆきは仲間が結束してくれるのを有難く思いながらも、不安に心を苛まれるのであった。
――それでも、私に出来るのは阿弥陀様に一心にお祈りすること
――阿弥陀様は決して私たちを見捨てたりはなさらないわ!
しかし、事の重大さに、そうは簡単に払拭できる不安ではなかった。
「まずは、源太さんのもとへ、とにもかくにも急ごう!」
盛高に促され、「おー!」という掛け声とともに、男三人は祇園社へと急ぎ走り出した。
「待って!」
ゆきも後を追った。追いながら、心の中で、一心不乱に念仏を唱えるのであった_。