第三部第八章
さて、先述した、九条良経の供養法会の後に持たれた、慈円と信空の会合であるが、これは結局短時間で終わった。
――専修念仏の停止、これしか、今の危機を乗り切る方法は無い。両者の思惑は一致していた。
信空は法然の説得に、慈円は叡山の説得に……。
と、別れた二人であったが……。
しかし……。
「師は、信空様の助言を退けられたようだ」
「うむ、止むを得まい……」
弟子達は、以前に慈円と法然との直接対話が決裂していたことを既に経験しているので、今回はこの成り行きを冷静に受け止めていた。
もはや、誰にも止められない歴史のうねり……。
しかし、それは一方で、住蓮がかって安楽に言ったように、民衆が望むべくして望んだ当然の歴史の帰結でもあったのである。
一人、二人の高僧の話し合いで歴史は作られないのだ。
歴史を作るのは民衆である。貧困と病、圧政に苦しむ民衆の声なき声こそが、歴史を導いていくのだ。
そんな歴史のうねりの中にあって…。
紅葉を愛でるような心の余裕を、誰一人として持っていなかったろう、そんな秋がいつもにもまして、うら寂しく過ぎ……。
そして時は十二月……。
ここ、鹿ヶ谷にある精舎では、いつものように六時礼賛興行が行われていた。
しかし、安楽、住蓮はいつもと違った緊張した面持ちであった。
――無理は無い
ついに、今日、伊賀局様がやって来られることとなったのであった。
当然お忍びではある。後鳥羽院が熊野詣に旅立ったのである。その留守を狙って、かねてより所望されていた六時礼賛興行への参加を果たされたのだ。
お忍びで来られるので、いつ来るのか、いつ帰られるのかまったく検討がつかない。
「ともかく、いつものようにお勤めするのみだな」
ゆきから、今日、と聞かされても、二人は動揺することも無く興行に取り掛かった。――しかし、やはり緊張はする。いつもと違う固い表情の二人ではあったが、ゆき以外には誰も知らせていないので、周囲の者もそれとは気付かなかった。
それに、普段からもここには公家の奥方など、高貴な身分の女性がよくお忍びで訪れていた。だから、院の御所からお局様が来られるとしても、誰もそれとは気付かなかったであろう。
そして、その日の興行も、いつものように恙無く、ともかくも、終わった。
いらぬ心理的重圧を避けるため、この人がそうです、という報せは無用、と、ゆきにあらかじめ伝えておいたので、安楽、住蓮も、誰が伊賀局であったか結局のところ分からなかった。
「安楽」
「ん、何だ住蓮」
勤めが終わって、二人は短い休息を取っていた。
「お局様は満足して帰られたかな?」
「うむ……」
鹿ヶ谷の十二月は寒い。二人はぶるぶると震えながら、庭を歩いていた。
「我々は誰をも拒まぬ、その理屈を通しただけ。ただ、そうは言っても……」
と、安楽はそこまで言うと言葉を濁した。
院のお局様がお忍びで来られたということ、もし院の耳に入ったら、院はどのような反応を示されるだろうか?
まったく予想出来ないだけに不安がないと言えば嘘になったろう。
「安楽、心配無用、心配無用だ!心配は阿弥陀様がしてくださる。そうではないか?我らは我らのお勤めをまた、今から精一杯果たし、明日に希望を持てぬ多くの民の声を、阿弥陀様にお届けせねばならぬ、そうであろう…」
「確かに……」
二人はいつものように、がっちりと握手をした。力強い、希望に満ちた握手を……。
しかし、二人は知らなかった。
この局のお忍びのお参りを、鴨川の反対側で、まったく違った意味で喜んでいた人物がいることを……。
「してやったり、してやったりじゃ!」
そう言いつつ、にやりと笑う人物は、誰あろう、二位法印尊長……。
左様……。
院の御所で、あの二位法印尊長が、伊賀局の六時礼賛へのお忍びからの帰院を、じっと見守りながらほくそ笑んでいようとは、安楽も住蓮も、そして、あの善信も、知るすべがなかったのであった。




