第三部第二章
「盛高参上しました」
盛高は尊長の部屋の手前で立ち止まると、腰をかがめ、そう言って入室の許可を求めた。
「入れ」
尊長に促されると、盛高は立ち上がって、部屋に入った。そして尊長の前に座した。――部屋には尊長一人しかいなかった。
慈円に仕えていた頃から比較すると、大出世の彼であった。
盛高も叡山にいる頃、何度か顔を合わしたこともあるが、彼の知る限り、叡山では、祈祷に秀でいていること以外、特に目立った存在ではなかった。それが、慈円から後鳥羽院の加持祈祷僧として推挙されるや、めきめきと頭角を現し、今や二位法印である。
そんな思い にふけっていると、尊長が徐に口を開いた。
「実は頼みごとがある」
「頼みごとと申されますと?」
盛高の返答を聞くと、目をぎょろつかせながら、尊長はにやりと笑った。――威厳に欠ける……常日頃から盛高は、尊長のこの不快な笑顔を見るたび「この笑いも自らの威厳を保たんがためのものであろうが……」といつも思うのであった。そしてこの笑いが逆に威厳を貶めていることに、当の本人が気付いていないことが、この院の御所の不幸な問題でもあったろう、とそんなことを考えていると尊長が話を続けた。
「実はだな……」
「はい」
「このたび、ありがたいことに、御上より、荘園を賜ることとなった」
「は……」
盛高は話の要点が掴めず当惑した。――そのことと自分のことと何の関係があるのか?
しかし、次に尊長の口から出た言葉に、盛高は驚きのあまり声を失った。
「その荘園が、実は……、近江の地、馬渕の里なのだ」
――何ということか!
内心は驚きつつも、盛高は平静を装うと「左様でございますか?」と、落ち着いた口調で答えた。
尊重は、盛高の返答を受けて、またにやりと笑った。
「そうなのだ……」
盛高の脳裏を様々な思いが交錯した。彼は言葉を失ったままでいた。
「で、実は頼みと言うのは……」
尊重は言葉を続けた。
「はい」
ようやく心の冷静さを取り戻した盛高は返事をすると、居住まいを正した。
尊長は続けた。
「聞くところによると、かって馬渕の里の荘園管理をしていたのが、貴殿の父君であったらしい。つまり貴殿はそこで育ったということであろう?」
「まことにその通りでございます」
返答しながら、盛高は運命のいたずらを感じた。――何というめぐり合わせか!
そんな盛高の心の動揺を見透かすかのように、尊長はにやりと笑うとこう言葉を続けた。
「そこで、頼みたいのじゃ。馬渕の土地のことは誰よりもよう知っているであろう」
「はい、まことに」
「では、月に一度程度でよい。視察に赴いてくれんか。そうしてもらうとありがたい。実は現地で管理を任せるものはもう近しい者の中から選んでおる。そこでだーそれに加えて、土地勘のある貴殿の助言があれば、荘園管理は鬼に金棒ではあるまいか!――噂に聞けば、何でも、誠に良い土地らしいのう、馬渕の里は。収穫もたんと見込めるとのことじゃて……。あはは!」
自慢げに話す尊長の言葉を、盛高は平静を装って聞いていたが、内心は、懐かしさが込み上げてきて、思わず涙ぐみそうになるほどだった。また冷静に受け止めて鑑みれば、将来、故郷でゆきとの暮らしを夢見る彼にとって、これは千載一遇の好機、と言える話でもあった。
盛高は迷う事なく答えた。
「はい、まことに、良き所にございます」
そしてさらに続けて「この盛高、ご命令の通り、尊長様のお役に立てるのであれば、まことに幸せというもの。お勤めに精進させていただきます!」と力強く言って、言葉を締めくくった。
何であれ、故郷へ帰れる口実が出来て、盛高はともかくも嬉しく思った。
「いずれ、故郷で暮らす足掛かりにもなろうというもの…」
そう思うと、心も随分と軽くなってくるのを彼は感じた。
そんな盛高の様子を見て、尊重も満足に思ったのであろう。
「うむ、結構。では任せたぞ。ーさがってよろしい」
と、盛高に退室を促した。
「はは!」
そう返答し退室した盛高は、自分の部屋に戻りつつ、自分を襲う運命のいたずらを感じていた。
「ゆきを誘って早速一度故郷へ赴くとしよう!」
逸る心を抑えるのが精一杯の彼であった。
「馬淵の里か…」
彼の脳裏を懐かしい故郷の光景が埋め尽くしていた。
しかし、この運命のいたずらが、この先、さらに悲しい廻り合わせをもたらす序曲に過ぎないことを、盛高はまだ知る由もなかったのである……。