第二部第三十五章
その後……。
ゆきの盛高への献身的な看病はここではとても全てを描写できない。
――まったくそれは不眠不休であった。そしてその甲斐あって、盛高の病状は日に日に良くなった。
そして、ゆきは、看病をしながら、盛高にすべての経緯を説明した。住蓮が鳥辺野で倒れていたのを救ったこと、平重衡処刑の際の彼の堂々たる念仏者としての振る舞いに感動して、自らも念仏者となることを決めたこと、法然の下へ弟子入りしたこと、そして、時子との思いもかけぬ再会、さらには彼女の死……。
ゆきは住蓮から聞いたこと、また自分が傍にいて見たことをありのままに彼に伝えた。何を省略することなく、何の誇張も無く、何も付け足すことなく……。
「信じられぬ!」
盛高は、当初は、ゆきから聞いたそんな話を受け入れられないでいた。それは無理も無い。馬渕の里で、そこの住民から聞いた話とは全く違う内容であったから……。
盛高は、当初彼女が住蓮を救うために嘘をついているのだと考えた。
しかし、彼女の献身的な看病を受けながら、次第に、ひょっとすると自分の思い違いなのかもしれないという思いを持つようになった。---しかしその思いは長続きしない。
「いや違う!」
と、盛高の思いは行きつ戻りつし、困惑の日々を過ごすばかりであった。
「何とかしなくては……」
盛高の誤解を解くにはどうすればいいか?---ゆきは一つの手を思いついた。あの応水である。ゆきは彼を呼び寄せた。
「応水様、すぐに来てください」
京極六角獄舎まで訪ねてきたゆきの呼びかけに、彼は直ぐに応じた。
「何と、あの佐々木家のご子息が……。それはすぐに参らねば」
応水はすぐさま、吉水へ駆けつけ、盛高に面会した。
「何と、なつかしい。佐々木家の御子息か……」
こうして、時子の身投げを現場で阻止した件の人物が登場し、その時の状況、事情をつぶさに語るにいたった。
「すべてゆきさんの言う通りじゃ。わしに不手際があったのがすべての誤解の本、時子殿の身投げにいたるまでの心の苦悩を思うと、一刻も早く、諸国の行脚に出向いて、同じように悩む病の人々に阿弥陀様の功徳を説こうと、気が焦ったのじゃな…。ご両親の苦しい心中を考えると、近江の地に一度は舞い戻るべきであった。わしの責任とも言える……」
こう涙ながらに語る、彼の姿を目の前にすると、盛高はもはや反論の余地を持てなくなった。
「すべては、間違った住民の話、噂を真に受けた私の思い込みによるもの……。皆を混乱させて、まことに遺憾、としか言いようが無い。許して欲しい」
盛高は、最後にはゆきに深々と頭を下げた。
「時実、いや今は住蓮と名前を変えたのであったな、彼には何の非もなかったということか……」
すべてが明らかになった今、彼の心は清清しく、晴れやかだった。
無論、家族を失った悲しみは消えるものではなかったが、今まで思いつめていたあの心の緊張感は和らぎ、未だに苦しまされる体の痛みと、ふらつきにも拘らず、それからの夜はぐっすりと眠れるようになった。
応水は、安楽と共にそんな彼の治療に当たっていた。
「何とも、人の噂、思い込み、そして怒りと憎しみの感情とは本当に怖いものよ。一人の青年をここまで追い込んだのじゃから」
応水の言葉にゆきも賛同した。ただ盛高をかばうことは忘れなかった。
「無理もございません。頼りと思って帰った故郷が凄惨な有様だったのですから……」
盛高はそんなゆきの心遣いが嬉しく、この吉水の救護所での静養の日々も苦痛とはならなかった。
ゆきが傍らで唱える朝夕の念仏も、心に心地よく響いた。
特にゆきの念仏には独特の旋律があった。かって白拍子として、歌を吟じた彼女らしい、まことに優雅な節回しであった。
誰かがそれにあわせて踊れば、まこと優雅な舞となるであろう、そんな上品さがあった。
ある日、盛高は思い切って聞いてみることにした。
「ゆきさん。なぜ、ゆきさんは念仏信者となったのかね」
「はい?」
「いや、一度聞いてみたかったのだ。そちの念仏があまりに美しく、心を打つものだから……」
「では、うまく言えるかどうか分かりませんが、お話してみましょう」
ゆきは少し間をおくと、ゆっくりと語り始めた。
「私は、今のこの瞬間をとても大切に生きていたいのです。そして、念仏はそれを実現させてくれるのです」
「今を……」
「はい、今が大事なのです。今を大切に生きれない人が、果たして極楽往生など出きるものでしょうか」
「確かに、そう言われれば……」
由緒ある近江源氏の血を引く佐々木家の御曹司も、ゆきの説法の前にたじたじだった。
「そもそも、往生とて、往きて生きん!という意味ではありませぬか。私は、安楽様や、住蓮様からそのように学びました。私達の念仏は、死ぬための念仏ではありませぬ。生きるための念仏です。こんな時代だからこそ、絶望することなく、今を一日一日しかっり人間らしく生きて生きたい、そのために阿弥陀様におすがりするのです!」
ゆきの堂々とした説法の前に、盛高は自分が恥ずかしくなった。
いつも鴨川の右岸、東山から念仏が聞こえてくるたび、その調べを美しいと思う反面、それは彼の耳には、何かしら、この社会の敗者のうめき声のようにも聞こえて、念仏者に対して哀れみの心を持つことも多かったからである。
それが今覆された。
「生きるためか……」
盛高は、この社会の底辺で辛酸を極めている人々が、せめて来世での救いを、と念仏を唱えているのだ、と思っていた自分の考えが、実は未熟であったことを思い知らされることになった。
――人間らしく生きるための念仏
確かに、ここ吉水に集う念仏者の集団は、貧しい人も、病気の人も、皆晴れ晴れとした表情をしていて、自分が想像していたような、今を生きることに絶望した人々の集団ではなかった。
であるからこそ、――あの時、あの鴨の河原巡視の際、東山から聞こえてくる念仏の読経に心を動かされたのではないか……。思わず涙したのではないか…。
であれば、それは絶望の念仏でなく、希望の念仏ではないか……。
盛高はここにいたってすべてを理解した。
「ゆきさん、よいか?」
「はい?」
突然の盛高の問いかけにゆきは戸惑った。
「どうされましたか?私の話、少しお説教みたいに感じられたのでしょうか。そうであれば謝ります。決してそんなつもりで……」
「違う、違う、ゆきさん」
盛高はゆきの話を遮ると、体を起こした。体はもうかなり回復していた。めまいもほとんどしなくなっていた。
「実はお願いがある」
「お願い?」
ゆきは不審そうな目で盛高を見つめた。盛高の真剣な眼差しを見て、何かひどく思いつめているように感じたからである。
「何でしょう?」
盛高はここで二、三度大きく息を吸った。そしてゆきの手を取ると、こうゆきに告げた。
「時実に会わせてくれ!」
「えっ?」
戸惑うゆきに、彼はもう一度、力強く、ゆっくりと告げた。
「時実に会わねばならぬ…。会わせてほしい」
盛高の真意を測りかねて、ゆきはただ茫然とするのみであった。---まだ彼女は気付いていなかったのである。盛高の魂の救済が彼女の弁舌で、いや彼女を導く阿弥陀如来の力で成し遂げられた事に…。




