第一部第七章
住蓮は信空の房に招き入れられると、信空から勧められる前に彼とあい向かいに座した。十二月の空気は肌を切るように冷たく、部屋は閉め切って、火鉢で暖をとってはいたものの、寒々として床からの強烈な底冷えのために足が痺れた。
信空は温和な表情をくずさない人であった。それは元来の人柄がそうだからという人が、殆どではあったが、いや誰に対しても良い表情を見せて善人ぶっているのだ、と言って陰口を言う者もいた。
どちらが事実かは、それは今は詮索するのは止めるとしよう。ただこれは言えた。即ち、彼は法然の教団内でのあらゆる種類の揉め事を解決するために奔走していたということである。
左様、法然の一番弟子として、彼が様々な問題の調整役として活躍していたことは、誰もが周知していたところの事実であった。そして実際、その調整能力、さらには色々な実務能力は誰からも高く評価されていた。無論法然からもである。
住蓮もそんな彼の人となりは熟知していたので、ことここにいたっては、今は何も隠さず、彼の質問にはすべて正直に答えようと覚悟を決めていた。
「もはや隠し通すことは出来ないし、隠すことでもない」住蓮はこうして腹をくくって、信空から問いを待っていたが、しかし、信空はというと、ただ目を瞑ったままで静かに座したままであった。
「……」
沈黙の時間が流れた……。住蓮は緊張感の高まりを感じた。自分の心臓の鼓動が部屋に響き渡るかのような思いにとらわれた。
「……」
しかし、信空は口を閉ざしたままだ。
「こちらから話しかけるべきか?」住蓮は、ついには緊張に耐え切れず、ここは自分から時子との事を語ろう、と思った、丁度その時だった。おもむろに信空が口を開くとこう切り出した。
「その女人とはいかなる関係であるか?真実を今日はしっかりと話してほしい」
短刀直入の切り込みであった。
「真実……」
あまりに短刀直入の問いに、住蓮は答えに窮した。
「左様、真実……。噂ばかりが耳に入ってくるのだ。あのおしゃべりの安楽ですら、あまりこの件についてはしゃべろうとはせん。だからそちの口から直接聞いてみないことにはのう……」
そう言うと、信空は少し間をおいて、さらに続けた。
「幸い、知っているのはごくわずかの者ゆえ、いまだ大きい問題にはなっておらぬが……」
彼はさらにこう言葉を続けた。
「仔細を話してはくれぬか。あらぬ噂が飛び交う前に。さっきも言ったが、六時礼賛の興行の件を巡って、天台は我々に厳しい目を向けておる。我ら一門には少しでも付け入られる隙があってはいかんのだ。私としては事の次第を掴んでおきたいのだ。一体どういう関わりあいがあって、そちはあろうことに犬神人の女子の元へ足繁く通わねばならぬというのか?安楽は、その者の病を少しでも良くするための薬を施しているだけだと言うが……。なぜその女子だけが特別なのだ」
きびしく詰問するのでもなく、穏やかな口調で問いかけてくる兄弟子の姿勢に、最初は高まっていた住蓮の緊張感も次第にほぐれてきた。
彼は大きく深呼吸をすると答えた。
「分かりました……」
住蓮はそう言うと、目を瞑った。そして素早く頭の中を整理した。「何から話すべきか…」そう真剣に思いを巡らす一方で、そもそも話したところで本当に理解してもらえるのかという思いや、過去の余りにも多くの思い出を、さてどこからどう話したものか、といろんな考えが錯綜して、ついには頭が混乱して、思案にくれてしまった。
「……」
沈黙したままの住蓮を、信空はじっと見守っている。
「とにかく最初からのことをすべて話そう」住蓮はありのままをそのまま述べればそれでいいのだ、と自分を納得させた。
すると突然、近江の国での、時子との楽しい懐かしい思い出が頭の中を駆け巡った。――どこまでも広がる近江の平野、美しい三上山、葦茂る琵琶湖の湖岸、かなたに見える比叡山に落ちる鮮やかな夕日。楽しい日々……。そして、突然沸き起こった悲しい出来事!
彼は頬を伝わる涙を感じた。
「すべてをありのままに話そう」住蓮は姿勢を正すと、しっかりした口調でこう語りだした。
「まずは私が法然様のもとで修行を始めるにいたったことの次第より、お話申し上げねばなりますまい……」
すべてを話すと決意した今、迷いもなくなり、かえって気持ちは軽くなった。
「ただすべてを語るとなりますと、かなり長きになろうかと思います…。ゆるりとお聞きいただきますようお願いします」
信空はこう語る住蓮の顔を見るとにこっと微笑んだ。
「分かった」
そう言って頷いた信空の和らいだ表情を見て住蓮は大きい安堵感を覚えた。「決して自分たちを嫌っているのではない」教団のことを案じればこそ、教団に関する雑多な問題を、法然を煩わせることなく解決する役割を彼は担っているのである。そのことを住蓮はよく承知していた。
「すべて真実を話すことにより、何かの知恵を授けてくださるかもしれない」住蓮は姿勢を正すと、信空の顔を直視した。そして言った。
「しかし全て真実を明らかにしようといたしますれば、私の生い立ちにまで遡って話をいたさねばならぬかと…。しばらくご辛抱いただけますか?」
住蓮は率直に思いの丈を信空にぶつけた。すると信空はゆっくりと頷いて、こう返事した。
「時間はいくらでもある。忌憚なく申してみるがいい」
住蓮はそれを聞くと徐に口を開いて語り出した。それは遠く奈良の興福寺での幼少時代にまでさかのぼる話である。
ある意味確かにそこがすべての原点であった。
そう…。どうしても乗り越えられなかった親子の葛藤
そこからすべてが始まったのだ!
「あれは確か……」
住蓮は遠い過去の記憶をたどりつつ、語り出した。---ゆっくりと、噛み締めるように。