第二部第二十二章
さて場所は再び、犬神人の里へと移る……。
夕暮れ時…。
ここ犬神人の里では井戸の傍らで、源太が一人座しながら、里人達の活気に溢れた生活の有り様を、ぼんやりと眺めていた。
彼はこの頃いつか思うのである。---「もう随分自分も年をとったものだ」と、
もう目は殆ど見えていなかった。見えないだけならまだ何とかなるのだが、周期的に痛みが襲う。
しかし、耐えるしかない。
死んでしまえば楽なのだが……。
そう思うこともある。しかし、仲間のことを思うとそれも無理だった。自分が長老として慕われているのは知っていた。仲間内ではよく諍いが起こる。この村をまとめるためにも自分はそう簡単に死ねない。後白河法皇という強力な後ろ盾の無い今、仲間の結束が無ければこの村の存続も危ういのは周知の事実であった。
犬神人の身分が、今はまがりなりにもあてがわれている。
無論、祇園社としては、自分たちを生かさず、殺さずという状況に置いておくつもりだろう。
良くも悪くも、この村は、自分達の終の棲家だ。ここが無くなれば、道端で野垂れ死にするしかない。
であれば……。
穢れた場所と言われようと、恐れられていようと、なんだろうとここが第二の故郷なのだ。
しかし……。やはり思うのである。
「出来ることなら、生まれた故郷へ帰りたい。そしてそこで死にたい!」
思い出す、故郷の川、山、そして肉親達、なかんずく母の笑顔……。
叶わぬ夢と知りながら、そんなことを思いながら毎日を過ごしている。いつ死ぬか、いつ死ぬるかと考えながら……。
そんな思いに耽りながら過ごしていた、ある日のことである。
「源太さん!」
遠くから呼びかける声に源太はふっと我に返った。
声の主はすぐにわかった。
「安楽殿か?」
そう言いながら、源太は立ち上がって周囲を見回した。
声のする方向を眺めはするが、当然のごとくぼんやりとしか見えない…。きょろきょろしていると、ぼんやりとではあるが、見慣れた顔が、既に目の前にあった。
「源太さん、持って来たよ。以前に話していた新しい薬だ!」
安楽は、この集落で定期的に説法をする傍ら、彼らのために何かいい薬草はないかと、探し求めながら、折につけ、様々な薬を持ち込んでいたのである。
「かたじけのうござる。安楽殿」
そういう源太ではあったが、実は心の中では、『どんな薬も効果はありはしない。新しい薬もどうせ効かないに決まっている』と思っているのだったが、安楽の優しい心尽くしが嬉しかったので、いつも感謝して薬を受け取っていた。
安楽は源太に問うた。
「痛むか?」
眼のことを聞いているのだとすぐに分かったので、源太は大きく頷いた。
すると安楽はたちまち暗い表情となり、大きく溜息をついて、こう言った。
「すまぬ。本当に力になりきれなくて」
それを聞くと、源太は声を大きくして答えた。
「安楽殿、何を仰るか!これほどまでに我ら犬神人のことを気にかけてくれて……。貴殿らの気遣い、我等、ここの集落の者、一同本当に感謝しておるのだから!」
それを聞いて幾分か安堵したのか、安楽は笑顔を取り戻した。
すると、彼は大事なことを思い出したと、言わんばかりの顔つきになり「ところで、源太さん、お願いがある」と、切り出した。
「お願い?」
源太は安楽が何を言おうとしているのか、すぐには理解できず困惑したが、安楽は構わず話を続けた。
「法然様の下へ新しく弟子入りしようという者がおる。貴殿は応水殿を知っておろう、あの方が一人の青年僧、名を範宴と申すが、を我らの下に連れて来られたのだが……。取り敢えずは、我らに預かって欲しいとな」
「ほお……」
源太はまだ話の要領が掴めないでいた。
「応水殿が、我らのここでの働きについて話されたところ、その若者はひどく、ここのことに関心を持ったようじゃ。是非、一度訪れてみたいと……」
安楽の説明に漸く納得した源太であったが、普通なら話をするだけでも疎まれる、この”穢れた”場所の存在に関心を持つその若者にひどく興味を抱いた。
「左様か。こんなわしらの朽ち果てた姿を見たいという変わり者が、お前さんら二人以外にいるのか……。よかろう、里の者にはわしが話をつけておく」
安楽の申し出を源太は快く受け入れた。無論次のように釘を刺すのも怠らなかったが。
「ただ、これだけは確認しておきたいが……。興味本位なら、来る必要なし、いや来てもらわんでいただきたいと、伝えて下され」
安楽は、苦笑しながらも、源太を安心させようと答えた。
「源太さん、そのような者を我らが連れて来ようか。安心召されい。とても純真で、心の真っ直ぐな青年だ」
源太もにこりと微笑むと応じた。
「ははは、まあ、貴殿らのすることに間違いはあるまい。その坊主連れてこられい。楽しみにしていようぞ」
この里の頭格である彼の了承を得たので、安楽も一安心であった。というのも、ここ、犬神人の里には、実は安楽、住蓮の定期的な来訪を快く思わない者もいたのである。
『あんな連中にわしらの真の苦しみが分かろう筈がない!』
『興味本位で来ているだけではないか!』
『説法などいくら聞いても、わしらの腫れ物が消えるわけではない!』
と、愚痴を言う者も多かったのである。
無論、それを”愚痴”と言ってしまうことにも問題がある。
安楽、住蓮は彼らの生活に深く入り込めば入り込むほど、毎日、確実に一歩一歩死に近づいている彼らの心の苦しみが、それはそれは想像を絶するものだということを頭では理解できていた。
しかし、所詮は頭の中だけであった。
――ではそもそも彼らと接するのに必要なのは同情なのか?それとも友情なのか?はたまた哀れみなのか?
答えは出ない……。
いや出せよう筈が無い!
『お前らに何が分かると言うのか!』という彼らの心の呻きを察するたび、所詮は彼らの心の中には入り込めないのだ、という敗北感に支配され、安楽、住蓮は溜息をつくばかりであった。
そんな彼らの生活の中に、また新たに一人の若者を、土足で足を踏み入れさせようとしている……。
慎重にことを運ばねばならない。
安楽は源太に話を続けた。
「よろしくお願い申す。いや実は、源太さんは承知するものと信じて、もう住蓮が彼を連れて、里の入り口まで来ておるのだ。源太さんだけにでも、会わせられればと思ってな。――源太さん、そこまで私と一緒に行ってはくれぬか?顔合わせだけでもしていただければありがたいのだが…」
源太に断る材料は無かった。
「良かろう、それ一つそこまで出向くか」
そう言って、早速、二人、入り口まで向かった。
すると住蓮がこちらへ向かってくるのが見えた。---一人である。彼は直ぐに源太と安楽の下に到着した。
住蓮は源太にまず挨拶をした。
「源太さん、元気か?」
住蓮の問いに源太は笑って答えた。
「ははは、元気なはずが無かろう。それより、この半ば死んだも同然の老いぼれに興味を持つ若者はそこまできているのであろう?案内致すが良い。さあ!」
すると住蓮は、申し訳なさそうに頭を掻くと、続いて地面に目を伏せたが、正直に事情を打ち明けようと意を決すると、源太に視線を向け、こう答えた。
「それが、実は……近くまで来たのですが……、里に近づくにつれ、つまり……、その、何と言うか、その、この里の独特の臭いが漂ってくると、吐き気を催してしまったようで……」
源太はそこまで聞くと、住蓮を遮った。
「ははは。まあ、だれでも最初はそうじゃ。最初はな。すぐに慣れよう。直に、口を塞がずとも、鼻も抓まずとも、平気でここに来られるようになるじゃろうて!何より、もう崩れかかったわしの顔を見ても目を背けることもなくなろう。ここの耐え難い臭いや、この化け物のような顔……。さてさて、その者、それでも、この里の入り口近くまで辿り着いただけでも立派なものじゃて。ははは!どれ、その面、見てみようか!」
そう言うと、源太は、里の入り口の方へ向かって歩き出した。目こそ不自由であるが、この里の中ならどこへでも、目を瞑って歩けたのである。---安楽、住蓮も彼の後に続いた。
三人は直ぐに里の入り口に達した。するとそこから少し離れた所に、一人の若者が口に手を当てて、座り込んでいる。吐物が足元に見える。憔悴した顔つきであった。恐らく何度も嘔吐したのであろう。
青年は完全に意気消沈したのか、座り込んで、地面に顔を落としたままであった。
三人は彼の元へ歩み寄った。
「範宴、大丈夫か?」
住蓮が声をかけた。慰めるつもりであった。
しかし、声に反応した範宴は、顔を上げたまではよかったが、住蓮の傍らに立っている源太の顔が視界に入った瞬間、顔を背けるや、再び、激しく嘔吐をし始めた。
「範宴!」
安楽が彼のもとに駆け寄った。
自分の容貌が、この青年の嘔吐の原因であることを源太はすぐに悟った。彼は、なかなか、青年の嘔吐が治まるような気配が無いのを見て取ると、こう言った。
「どうも、今日はわしは退散した方がよさそうじゃ。そして、この者は、――今日は連れて帰れ。ははは、気にするな。気にするな。安楽、住蓮、そちらも初めてのときはこうであったろう。――まあ、ここまでひどくは無かったかもしれんが……。それが、今や、ここでは大手を振って歩いておる。まるで、ここの住人のようにな!……考えてみれば、ここの匂いは確かに酷いもんじゃ。お前さんら含め、わしらは慣れてしもうて、すっかり忘れておったわ!ははは!」
そう言われても、安楽、住蓮は面目丸つぶれと言わんばかりの情けない顔で、範宴を見つめながら、何とも手の下しようも無く、呆然と立ち尽くしていた。
「源太さん、まことすまん!こら!範宴!失礼であろう!」
源太の心遣いに感謝しながらも、安楽と住蓮は源太に申し訳ない気持ちと、初めてとは言え、範宴の不甲斐無い反応に恥ずかしいやらで、穴があったら入りたい心境だった。
住蓮も源太の寛容さに感謝しつつも「源太さん。本当に申し訳ない。今日は、この者、いったん連れて帰ります」と、ひたすら頭を下げて謝罪した。
二人は、そう告げると、範宴を抱きかかえて、足早に里を後にした。
源太は、二人を見送ると、自分の小屋へ戻ろうと踵を返した。
歩きながら、彼は自分の顔を手で改めて撫でてみた。ごつごつとした結節、ぶよぶよした触感、針でも刺そうものなら腐った膿が吹き出てきそうだ。
「こんな顔を、気にもかけず、覆面もせず晒し者にしている自分の方がおかしいのだ」
源太には青年の反応を責める気持ちは毛頭無かった。
それでも、彼の意気消沈した様を見て、何とも、落ち込んだ気分になった。こんな気持ちは久しぶりだ。
「自分も随分と年取って、弱気になったものじゃ……」
誰に語りかけるというのでなく、ポツリとこう言うと、彼は小屋へ向かう足を速めた。
いつもの聞き慣れた、真葛ヶ原に生い茂る草木をすり抜ける風の音も、夕暮れの今、心なしか何とも寂しげにも悲しげに呻いているようにも聞こえてくるのであった。
自然の草木は、自分たちを何の分け隔てもなく受け入れて、共存していてくれる。いや、むしろ、自分たちを慰めてさえくれる。四季折々の美しさは万人に平等だ。
それなのに!
人間はどうして、こう区別しあうのだろう?
殺しあうのだろう?
憎しみ合うのだろう?
源太は答えの出ないこれらの問いに自らを縛られながら、夕暮れの真葛ヶ原の景色を一人いつまでも眺め続けた。