第二部第十三章
慈円が新たな出発に胸膨らませていた西山の対極、ここ鴨川の河原では、ゆきの様子が最近、どうもいつもと違うことに、安楽をはじめ、周囲のものが心配し始めていた。
呼びかけても、返事をしなかったり、突然、天を見上げてため息をついたり、大事な約束を忘れたり……。
数え上げれば枚挙が無かった。
住蓮だけは、そんなゆきの変化には無頓着であった。---少なくとも、表面上はそう見えた。
安楽が最近のそんなゆきの態度の変化について住蓮に話題を投げかけても、「さあ、そうなのか……」と、表情を変えることもなかった。
しかし……。
実際のところは、住蓮も心配はしていたのである。それでも、ゆきの自分への好意を知っていたので、ゆきの話題はなるべく避けたい、という思いから、わざとこのような無頓着な態度を取らざるをえなかったのだ。
そんな、ある日の引導寺の境内……。
安楽、住蓮、次郎、そして三郎の四人が六時礼賛の合間に僅かの休みを取っていた。
次郎、三郎らは、最近は放免の勤めで忙しい時を過ごしていた。---都の治安の悪化のためである。そんな彼らと一時ではあっても、話をする機会が出来たのも、これは良い機会とばかり、安楽は、普段ゆきと接触の多い彼らに一度、彼女のことを聞いてみようと、ゆきの話題を持ち出した。
「次郎、三郎はゆきさんのこと、近頃、何か変だとは思っていないか?」
ゆき、という名前を聞いて、住蓮はすぐに俯いた。安楽が見ると、彼は所在なさそうに下をずっと眺めている……。
「許せ友よ!」
安楽は、住蓮には悪いと思いながらも、ゆきのことを心から心配していたので、構わずこの話題を続けた。
「それがしが、何か心配事があるのか、と心配して尋ねても、大丈夫です、と言うばかりで、まことのこと、まったく何も答えてくれぬ。すべてが上の空のようで……」
と、ここまで安楽が言ったところで、住蓮は急に立ち上がった。
住蓮は、この場にいるべきではないと判断したのであろう。そこで、努めて平静を装いながら、笑顔を作ると、安楽、次郎、そして三郎に向かって、
「すまぬ、安楽、私は次の準備があるので……。次郎、三郎も放免のお勤めご苦労。そちたちの働きがあってこそ、この引導寺界隈も安全に歩けるのであるからな。それでも、常々、上人様が仰っておられること、忘れぬようにな。『念仏しつつ、俗業に励め』と……。わかっておるな?」
と、そう言い残すと、自分の部屋へと、足早に立ち去った。
安楽は、そんな住蓮の心の内を察して、内心『やはり、彼の前では、この話題は避けるべきであったか?』と思いはしたが、「気をつけることとしよう。住蓮の前では今後この件について触れるまい」と、心の整理をつけると、疑問の矛先を次郎と、三郎に向けた。
「次郎、三郎、そちたちは近頃のゆきさんの様子、心配には思わぬのか?」
問い掛けられた次郎と三郎は、思わず、困惑した面持ちで互いに顔を見合わせた。安楽は、彼らの表情から、彼らが、ゆきのことについて何か知っているに違いないと確信したので、
「何か知っているなら、教えてほしい。我々は御仏の教えの前に結ばれた同じ仲間ではないか。ゆきさんのことが心配でならないのだ」
と、彼らを促した。
安楽の、ゆきを気遣う真剣な眼差しに圧倒されて、次郎が先にその重い口を開いた。
「安楽様、実は先日のことですが……」
と前置きをすると、彼は話を続けた。
「三郎といっしょに、鴨の河原にあるゆきさんの小屋を訪ねると、ゆきさんがいなかったものですから、周囲を探しに出たのです……」
「すると、ゆきさんが、三条の橋のたもとで、ずっと遠くを見ているのです」
「左様です」
そこから、三郎が言葉を継いだ。
「なんだろうと思って、ゆきさんの、その視線の先を見ると、そこには、ある一人の武者がおりまして、ゆきさんはその武者様を遠めで眺めては、顔を赤らめながら、ため息をついているのです」
安楽は驚いた。
「武者……」
次郎が続いた。
「左様です。しかも、その武者とは、実は、わしらの、ある意味新しい頭にあたる人で……」
「頭?」
安楽はさっぱり事情が掴めず、困惑した表情であった。
次郎がさらに説明を続けた。
「左様です。そのお方の名は、佐々木盛高と言いまして、新しく、都の内、また京極より外、鴨の河原の治安にあたることになった、防鴨河使、三浦秀能様の部下でございます。わしら放免の者は、今まではすべて検非違使様の配下で働いておりましたが、このたび後鳥羽上皇様の御命令で、一部の者が、院の御所に移動し、防鴨河使様のもとで働くことになったのでございます」
「なるほど」
都の治安は悪化の一方を辿っている……。中でも鴨の河原周辺の治安が悪化しているのは、安楽自身、辻説法をそこで行っていることから、実際それをよく肌で感じていた。
しかし、その武者とゆきさんの関係は全くわからない……。
「で、ゆきさんから、そのことについて何か聞いたりしたのか」
三郎が答えた。
「いや、それで、少しからかってしまったところが、それから、わしには口を聞いてくれんのです」
次郎が続いた。
「まこと、わしも、囃してしまったもんですから、実は、それ以後、わしにも口を聞いてくれませぬ。でも、あのゆきさんの態度から見て、彼女がその武者様に惚れてしまっているのは間違いありますまい!」
三郎も大きく頷いた。
「しかも、ぞっこん、というところですかね!」
安楽はようやく納得した。
「なるほど、そういうことだったか……」
ゆきが、ある武者に恋心を抱いているらしい……。
「それなら、それで、よいことではないか」
安楽は、次郎らに笑顔で同意を求めたが、次郎は反論した。
「それが、安楽様、そんな簡単なことではございませぬ」
「何ゆえか?」
安楽のこの問いに、三郎がそれに答えた。
「安楽様、身分があまりに違いまする!」
「身分とは?」
「三浦様の配下の武者と言えば、身分は、立派な北面の武士でございます!そんなお方に、われら河原者の女子が恋心を抱いたところで、その恋成就するとは思えませぬ!」
まったく、言われて見れば、なるほど次郎、三郎の言うとおりであった。
「真剣に思ったところで、所詮は叶わぬ恋である、といういことか……」
安楽は、ゆきの悲しみがいかばかりなものか、と想像すると、自分も気分が落ち込んでしまった。
「まったく、わしら、かっては悪事の限りをつくしたものが、河原者として、軽蔑されても、これはもう自らが蒔いた種ですからどうしようもないですが……」
と、次郎が言うと、三郎がこれに続いた。
「ほんに、ゆきさんのような、純情可憐な女子が、悲しい運命のいたずらで、やむなく河原者として、ここで生きていかざるを得ないだけなのに……」
と、言うと、三郎は、目に涙を浮かべて、さらに続けた。
「あわれ穢土ほど口惜しき所はあらじ。ほんに、極楽浄土にはかかる差別のあるまじきものを!」
と、大声で言うと、そこで泣き出してしまった。
安楽は、これほどに純情な彼らの心を、目の当たりにして、
「次郎、三郎、ようわかった。ゆきさんのこと、私が何とかしようぞ、出来る限りのことを!」
と、三郎を慰めた。
しかし……。そうは言ったものの、安楽の頭に、何かいい考えが本当にあったわけではないのは言うまでもない。
三人の何れにとっても、辛い話であるのは間違いなかった。
それでも、三郎がようやく泣き止むと、次郎は、いつものおどけた調子で、沈んだその場の雰囲気を明るくしようと、こう三郎に質問して、彼を揶揄した。
「しかし、三郎、今のおまえの言葉、まことに立派ではあったが……。しかしそれって、あの坂東の荒武者熊谷直実様の言葉そのままの受け売りであろう?確か、関白九条兼実様を相手に、玄関で大声で喚き散らしたという……」
次郎の発言に三郎は大いに照れながら、「まことに、……やはりばれたか!ははは、申し訳ない」と、頭を掻きながらも、涙顔のままで、にこりと微笑んだ。
「であろうな、おまえの口から、かような立派な言葉が飛び出してくるとは、まったく仰天して、腰が抜けるかと思ったわい」
次郎のさらなる追い討ちに、一同は大いに笑った。
「この者たちの底抜けな明るさがせめてもの救い」
安楽は、内心そう感じて安堵感を覚える反面「彼ら河原者たちが、この穢土においてでも差別されないようになることこそ本当の姿ではないか」と、憤りも感じるのであった。
「そのためには、しかし、……何をなすべきなのか?何が出来るのか?――いや、やらねばならぬのだ!往生とは生きて往くことなり、されば、この世でも差別があって良かろうはずが無い!」
安楽は彼らと共に笑いながらも、胸のうちで、自分に課せられた使命の重さを自覚し、ますます、これからの念仏布教に情熱を燃やすのであった。
---それはある意味、社会の変革をも目指す一大事業である。
「よし、やってやろう!」
安楽は諸国行脚実現の夢を膨らませつつ、また、彼らが主催する六時礼賛興行が、大きいうねりとなって、この窒息した社会の変革に寄与していくのかもしれないと思うと、ますます気を引き締めて、次の興行の準備にとりかかった。