第二部第十章
六時礼賛は夜を徹して行われるので、住蓮、安楽らにとって、実際差し入れはありがたいものであった。
だからゆきも張り切って、これを日課のように行なっていたのでもある。
「どうしよう、小屋に忘れ物がある…」
次郎、三郎にからかわれて、少し時間が遅くなっていた。ー日が暮れるのは早い。家に立ち寄れば、引導寺へ向かう頃には暗くなっているに違いない。
ゆきは少し迷ったが、結局家へ立ち寄ることにした。住蓮にどうしても渡したいものがあったからである。
「慣れた道だから、大丈夫だわ…」
あたりの治安が、ここ最近悪化しているのは承知していた。しかし住蓮が懸命に頑張っている、それを支えてあげなければ、という思いが彼女を駆り立てたのであった。
しかし、これはまことにうかつな判断であった。
確かに治安は悪化していた……。
時子の家、と言っても掘建小屋であるが、その周辺の鴨の河原も、確かに死体の数こそ減りはしたが、かって死体が散乱していた以前の頃より、むしろ危険は増していた。かってはそれなりに秩序があったが、今は多くの者が流入しすぎて、秩序を失ってしまっていたのである。---日が暮れた後、一人で出歩くなど本来言語道断というべきであった。
ゆきが、忘れ物を手にし、小屋を出て、少し歩いたばかりの時であった。
気がつくと、ゆきは、河原の藪から姿を現した二三人の男に、すでに周囲を囲まれていた。皆、腰に刀を差している。ぼろぼろの服装ではあったが、野武士の風体である。落ち武者くずれであろうか。
「へへへ……」
不気味な男達の薄笑いに、ゆきは体が震え上がった。
「しまった!」
と、後悔してももう遅かった。
囲まれてしまって、身動きが取れなかった。男達は、ゆきにじりじりと近寄った。ゆきは思わず叫び声をあげた。
「近寄らないで!」
以前なら、そんな叫び声に反応して、見知った人たちが、駆けつけてくれたであろう。しかし、今は、叫びを聞いて駆けつける者もいない。ー皆、他人のことには無関心になってしまっていた。---皆、自分が生きることだけに手が一杯であり、周囲に困窮した人がいても見知らぬ振りをすることがむしろ普通の振る舞いであったのだ。
ついに、三人のうちの一人の男がゆきの手を掴んだ。
「きゃっ!」
ゆきは叫び声をあげた。
もはや、これまで……。
と、ゆきが観念したその時である。
「待て!」
という鋭い男の声がした。
ゆきが、声のする方を見ると、武者姿の男が刀を抜いて仁王立ちしている。立派な身なりである。彼は、一人の従者を従え、さらにその両側に放免の装束の男を二人従えていた。
「助けてください!」
という、ゆきの叫び声を聞くと、それに応えるかのように、刀を手にした武者は、さらに大きい声で、「その女子から手を離せ!」と、叫んだ。
武者の大声に一瞬、ゆきを囲んでいた男達は怯んだ。ゆきは、その隙に、掴まれていた手を振り解くと、声を上げて助けてくれた武者のほうへ駆け寄った。
ゆきに逃げられた男達は、一斉に刀を抜いた。
「なにを、こしゃくな!」
「やっつけてしまえ!」
と、口々に叫ぶや、野武士たちは、一斉に刀を振りかざして、武者に飛び掛った。
武者も刀を振り上げた。---壮絶な斬りあいが始まった。
ゆきは「きゃっ!」と叫ぶと身を屈めた。そして目を瞑ったまま、その場に座り込んだ。
あっという間の出来事だった。
---ばさっ!
---げっ!
と、振り下ろされた刀の音と、切られた野武士達の悲鳴が、交互に三度繰り返して河原に響き渡った。
そしてその後に訪れたのは静寂であった。
「------」
物音一つしない……。
するとそこに「かちっ……」と、刀を鞘に戻す音がその静寂の中に鳴り響いた。
さよう、一瞬にして勝負はついたのであった。---武者は一瞬に三人の野武士を切り捨てたのだ。
危険が去ったらしいのは。肌で感じることは出来た。しかし、ゆきは怖くてまだ目が開けられないでいた。
すると静寂を破って、凛々しい男の声が響いた。
「娘御、もう大丈夫であるぞ」
ゆきはまだ体の震えが止まらないでいたが、その声にようやく、目を開けた。---すると目の前には、自分を囲んでいた野武士たちが皆、斬られて血を流し、地面に横たわっていたのが見えた。---無論、三人とも虫の息であった。
ゆきを助けた武者の強さは相当なものであったようだ。彼は、衣服の乱れを直すと、ゆきに近づき、その手を取ると、優しく引っ張って立ち上がらせた。
恐怖と、安堵感が交錯して、ゆきは混乱していた。
「ありがとうございました!」
と、ゆきは、かろうじて震える声で、武者の顔を見上げると、そう言った。
改めて、そうして男の顔を見ると、声だけではない。顔立ちもとても凛々しく、気品が漂っているのを感じた。---しかし、笑顔を作ってこそいるが、その武者の目の奥に宿っている悲しみを、ゆきは見逃さなかった。社会の最底辺で暮らしてきたゆきの眼力である。
「何とも悲しそうな目をされている……」
武者は、そんなゆきの思いには無頓着に、ゆきの無事を確かめると、くるりとゆきに背を向け、放免たちに、死体の処理などを命じた。
ゆきは、そんな武者の顔を、改めてゆっくり眺めていたが、ふと「さて、どこかで見たことのあるような?」という思いにとらわれた。しかし、それはいつ、どこでであったか、思い出せなかった。---何よりも、恐怖感がまだ体を支配していて、落ち着いて物事を感がえられる状況ではなかった。
すると武者は、次に、再びゆきの方を振り向いて、こう言った。
「娘御、一人で、暗がりの中を歩くなどとは、何と無謀なことをされるか!」
武者は言葉を続けた。
「それがしが通りかかったからいいものの、でなければ危なかった」
そして、さらにこう問うた。
「こんな夜更けに、そもそも、一人でどこへ行こうとしていたのか?」
ゆきはまだ体が震えていたが、それでも漸く落ち着きを取り戻すと、事情を説明した。
「私は……」
ゆきは、自分が引導寺へ向かうつもりであったこと、また、その目的について、手短に説明した。
彼女の説明を受けると、男は大きく頷いた。そして、
「噂には聞いたことがある。たいへんなご利益があるとか……。あはは!もっともそれがしは、仏の教えには関心はないが……」
と、武者はそこまで言うと、少し考えていたが「では、そこまでお供いたすとしよう。まだ、どんな輩が潜んでいるとも限らぬ。そちを護衛せねばなるまい」と、ゆきに同行を申し出た。
ゆきは突然の申し出に動転した。
一見して分かる、身分高き武者姿の青年。それが、こんな河原者の女子の護衛をするなんて……。
ゆきは慌てて言った。
「とんでもございません。私のような身分の者を、あなた様のような高貴な方が……。私はそんな身分の者ではございません」
ゆきはそう言ってかたくなに拒否したが、男は改めてゆきを促した。
「何を言われる。か弱き女子を守るのに、身分の貴賎などあろうか!」
こう逆にたしなめられて、ゆきも、男の好意に身を委ねることにした。
「それでは、お言葉に甘えて……」
そう言うと、緊張していた武者の顔が少し緩むのがゆきには分かった。武者は再び笑顔になると尋ねた。
「では、道はどちらかな?」
「はい…」
ゆきの返事に合わせて、青年武者は再び馬上の人となった。
「六郎、付いてまいれ。放免二人は後の処理をいたせ!」
と、彼が命じると、「はは」と言って、放免たちはそばを離れた。六郎と呼ばれた従者も、命じられるままに、馬の傍らに付いた。
「こちらです」
ゆきは武者の横について、道を教えながら、ときどき顔を見上げては、命の恩人の、この武者の顔を覗き込んでいた。すると自然と「素敵な方……」と心にそんなことを感じている自分に気がつくと、顔を赤らめるのであった。
そうして、しばらく歩いた…。引導寺にはすぐに到着した。既に大変な賑わいである。
青年武者はゆきに告げた。
「ここであるな……。それでは拙者は帰るとしよう。娘御、これからは夜、一人で出歩くなどということの決してないようにな!」
そう言って、立ち去ろうとした彼に、ゆきが慌てて声をかけた。
「ありがとうございました。このご恩は決して忘れません。つきましては、せめて、お名前をお聞かせ願えませんか」
ゆきは男に感謝しながら、こう問うた。すると男は笑顔で答えた。
「拙者か。拙者の名前は佐々木盛高と申す」
「佐々木様……」――無論、この名前は、時子の兄の名前として、かって住蓮から聞いていたはずだが、ゆきは、もうそんなことなど忘れてしまっていた。彼女は、何て素敵な名前だろう、と、今はただそう思うだけであった。
「素敵なお方…」
そうして立ち尽くすゆきに向かって、青年武者はさらに続けた。
「昨日より、防鴨河使長官三浦秀能様のもと、都の警備に当たっておる。本日は鴨の河原に視察に来たところ、たまたま、……」
とそこまで言うと、盛高はゆきに近寄って、にこりと微笑むと、彼女の肩を優しく叩いた。
「まあ難しいことはよかろう!娘御。それよりも今後はくれぐれも気をつけられよ!まこと、都の治安は思ったよりも悪いようじゃ。落ち武者、野武士どもが乱暴の限りを尽くしておる。夜は絶対に一人で出歩かぬようにな!」
そう重ねて注意すると、盛高は馬の踵を返した。
「ではさらばじゃ!---
行くぞ、六郎!」
「はい承知でございます!」
こうして、六郎と呼ばれた従者を引き連れ、その場から立ち去る盛高の後姿を見送りながら、ゆきはなぜか自分の頬がさらに火照ってくるのを感じた。
「本当に何と素敵なお方だろう」
そんなことを考えながら、その青年武者の後ろ姿を見送りつつ、彼女は寺の門の前で茫然と、立ったままでいた。
するとそこへ「ゆきさん!」と、彼女を呼ぶ声がした。
安楽であった。しかし、呼びかけるその安楽の声にも気がつかず、ゆきは、そのまま立ち尽くしていた。
「ゆきさん、一人で来たのか?何と、無謀な!」
重ねて問いかける安楽の声にも、ゆきはそれに答えることなく、いつしか頬の火照りが体の火照り全体に広がっていくのを感じていた。
「佐々木盛高様……。本当に素敵なお方」と、ゆきはますます感傷に浸っていたが、するとそこへ今度は住蓮の声が聞こえて来た。
「ゆきさん!」
はっと、ゆきは我に返った…。すると彼女の目の前には住蓮がいた。
「ゆきさん、どうした!」
住蓮の心配そうな眼差しを見ると、ゆきは、思わず恥ずかしくなって、その視線から逃れようと顔を背けた。
「どうしたの私ったら!気持ちを切り替えなくっちゃ!」
そう、ゆきは自分に言い聞かせると、続いてつとめて明るい笑顔を作ると、いつもの元気な声で住蓮に答えた。
「はい、これ、いつもの差し入れよ!」
ゆきは、持っている差し入れを住蓮と安楽に手渡すと、彼らと共に、寺の奥へと進んで行った。