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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第一部第五章

「失礼いたします」

 太い声が襖の向こうから室内へと響いた。続いて襖が開かれると一人の僧が中に入ってきた。

 この人こそが住蓮である。がっちりした体格と精悍な顔つき、また鋭い眼光は、もし僧衣を纏っていなければ武者と間違われたかもしれない。横笛の名手であり、また美声の持ち主で評判であるとは、この外見からだけでは想像出来なかったであろう。唄の才は天賦のものであったろうか、また、笛をこよなく愛し、誰もがその才能を認めていた。六時礼賛の興行に彼がかかわるようになったのはそんな彼の才能から考えると、至極当然のことでもあった。

 法然の前に座ると彼は一同に挨拶をした。

 弟子としては末席に位置する彼であった。しかし、六時礼賛興業の成功で、今や法然教団の中にあって彼の存在意義は大きく、安楽共々決して無視できない存在となっていることをこの場に居合わせた弟子たちはよく認識していた。

 住蓮は中に入ると座し、居住まいを正すと一同に深々と頭を下げた。つい先ほどまでの活発な議論が嘘のように場は静かになった。

 そんな中、口火を切ったのは法然自身であった。

「住蓮、丁度今、そちの勤めの件、皆で話していたところではある。ご苦労であるの」

 こう法然はまずねぎらいの言葉をかけた。

「はは、我ら若輩の取り組みに、さようなお気遣いまことにありがたく存じます」

 住蓮のずっしりした、しかし透き通るような声が部屋の中に響いた。

 法然は一呼吸置くと、そのまま話を続けた。

「住蓮、ところで六時礼賛の興行盛んなよし、まことに結構である。されど今も丁度、我ら話しておったのだが、---どうじゃ、何か困りごとというか、興行にあたって、---悩み事などありはしまいか、その辺りのこと、今日は忌憚なく話してもらいたいのだが…」 

「左様でございますか…。さて、されど困ったこと、と言われましても……」

 住蓮は唐突なこの質問にどう答えていいものか、返事に困ってしばし黙っていた。すると信空が法然の質問を補足するように、続いてこう切り出した。

「では、私から、率直に話させてもらおう。法然様お許し願えますね……」

 法然が頷いたので、信空は続けた。

「実は、そちらの興行に関してじゃが、よからぬ風評がわれらの耳に入るのだ…」

「よからぬ風評……ですか」

 住蓮は多少困惑した表情を浮かべたが、こういう質問はある程度予測していたのか、落ち着いた態度を崩すことなく、どう返答すべきか、しばし黙したまま考えていた。

 信空は住蓮がなかなか口を開かぬので、さらに質問で彼を誘導した。

「つまり…。興行にかこつけて、隠れたところで男女が淫らな振る舞いを行っている、などとな。真偽のほどはともかく、そういった風評は我等の一門の今後にも影響を与えかねん。そちらのあずかり知らぬところでのことかもしれぬが……。実際はどうなのか?」

 ここまで聞き終わると、住蓮は毅然とした顔つきとなり、とんでもない誤解、と言わんばかりに、強い口調で次のように答えた。

「そのような風評、どこから立ち上りましたものか、私には皆目見当がつきませぬ。寺の中では、何の問題もなく、六時礼賛つつがなく執り行われております。いたって平穏そのものであります」

 住蓮は表情を崩すことなく、他の兄弟子たちをもざっと見渡すと、さらにこう続けた。

「ただ、ここのところあまりに数多くの民衆が押しかけ、引導寺境内に入りきれない人もあまたおりまする。これら、あふれた人が寺の外でどのような振る舞いをしているのか、そこまでは我らもわかりかねまする……」

 そこまで彼が言い終えた時だった。

「住蓮」

 と、信空がさえぎった。厳しい口調であった。

「そこまではわかりかねまする、ではいかんのだ。我ら法然様の門下一団、どのような目で南都(注:興福寺)北嶺(注:比叡山)から見られているか、そこをよく理解すべきであろう。よいか、彼らの中には我らの動きを良きことと思わぬもの多数おる。いや多数では済むまい。ほぼ全員がそうであろう。今は九条兼実殿の後ろ盾もあり、声荒高に叫ぶもの少ないが、いずれ大きな我らに対する糾弾の動きになることも考えられる。事実、都では多くの似非念仏者が、法然様の教えとは無関係の似非念仏を行って、人をまやかしておる。南都北嶺から疑われるような振る舞い、われらは決して行ってはならんのだ」

 住蓮は法然の高弟からの叱責に返答もままならず、黙してうつむいているしかなかった。――場に重苦しい沈黙が走った。すると続いて、その沈黙を破るかのように法然が咳払いをした。そして住蓮に向かって語り始めた。

「住蓮……」

「はは」

 場を和ませようとの配慮から、いつもより、より穏やかなやさしい法然の語り口であった。

「六時礼賛、そもそも今は無き後白河法皇の追悼供養のため行ったもの。それを、そちたちが受け継ぎ、さらには今後はより多くの民が参加出来るようにと、新しい形で続けたいとの申し出があった」

「はは確かに」

「わしも驚いた。礼賛を今様(当時流行した、現代で言うところの歌謡曲のようなもの)の節に合わせて歌唱するというのだからのう……。さてどうしたものか、当初は悩んだものだ」

「はは」

 確かに突拍子もない考えだった。今様を愛した安楽ならではの発案であった。結果的には、後白河法皇の北面武士として使えた折にも法皇から愛されたという、彼の美声があって、この興行が成功しているのは間違いなかった。

 法然は続けた。

「苦難にあえぐ多くの民が救われるならと、その願いも許可し、そちらの思うような形で今まで興行をさせてきた」

「仰せのとおりで……」

 興行の発案者は安楽であった。が、相談を受けると住蓮もすぐに快諾した。安楽は歌、中でも、今様、さらに踊りを得意とし、自分は、笛、歌を得意とした。六時礼賛の儀式をより庶民に親しみやすく参加しやすいようにと、こうして今様と踊りを交えるという手法を試みたところ、彼らの思惑通り興行は大成功を収め、今や、連日多くの老若男女が押しかけてるようになったのであった。

 法然はさらに続けた。

「そちらの純粋な思い、一人でも多くの人が念仏の功徳により極楽往生かなうように、との切なる思い――それを大切にしようと思い、私はそちらの興行活動を自由にさせてきた。無論、最初は反対する者もいたが、私はよかろうと黙認した。まあ、あの安楽であるから……。それが多くの人々の心に、仏心を起こさせるものであれば、それも仏の御心と許したのだ。幸い、そちらの試み、大いに成功し、今や多くの人々が念仏三昧、心を一つにして極楽浄土への往生を願っておる。たいへん結構なことではある…」

 住蓮は、法然がこのように、弟子の中では末席に位置する自分のような者に、直々に労いの言葉をかけてくれたのを嬉しく思った。彼は法然に向かって改めて深々と頭を下げた。

「法然様、まことにありがたきお言葉」

「されど、住蓮」

 法然は、今度は幾分か厳しい口調で告げた。

「信空が申したように、我ら一門をとりまく気配、決して順風ばかりではない。南都北嶺の一部からは批判的な声が日々高まっておる。幸い後白河法皇、また関白兼実殿の篤い信心もあって、これら批判は表には出ないでおるのが実のところである。信空が申したように、我らの一門でもないものが念仏僧と称し、誤った阿弥陀仏信仰を唱えておるとも聞く」

 法然はここで一息つくと、今度は部屋にいる一同を見回して言った。決意に満ちた口調であった。

「だからこそ我ら順風の今の世にあって、ますます身を律し、念仏三昧の日を送らねばならぬ。住蓮!――安楽、また信空らとも良く相談し、今後は六時礼賛の興行、引導寺周囲にも目を光らせ、不逞の輩などおればこれを除き、安心して多くの人々が集えるようにしてまいれ」

「はは!」

 住蓮は法然に大きい声で返事をすると、頭を上げた。見ると、師である法然は厳しい表情ながらも、まなざしは暖かく、住蓮は自分の与えられた責任の大きさを痛感していた。

 引導寺には飢えた者、病の者、数多くの戦乱で家族を、あるいは愛する者を失った者、打ちひしがれた者、ぼろを纏った者、明日の希望を全く持てない人々が連日多く押しかけていた。彼らにも、いや彼らにこそ仏の救いが届くように、そんな思いで毎日続けているのがこの興行だ。――住蓮のそんな強い思いを察したのであろうか、法然は皆にさらに語り続けた。

「よいか、保元、平治の乱、源平の争乱と相続き、国は乱れ、荒廃の極みである。多くの民衆はいまだ不安の中で明日に希望を見出せぬまま暮らしておる。多くの者が戦乱で家族を失い、仕事を失い、家を失い、悲嘆にくれる毎日を過ごしておる。また飢えに苦しむものも数多い。飢饉は去ったとは言うものの、都にあふれるあのあまたの屍を見よ!疫病と飢えのため多くの者が毎日死んでおる。鴨川の河原も然り、屍が山高く積み上げれている。まことに生き地獄ではないか…。このような末法の世であるからこそ、阿弥陀仏様の本願に、あまねく多くの人が預かれるように、我ら、ますます念仏三昧、精進に励むと共に、念仏の功徳を多くの民に知らしめていく努力が必要であろう」

 こうして法然の説教が終わると、部屋の中の一同すべてが法然に向かって一礼をした。住蓮も、自分の思いを代弁してくれた偉大な師に改めて尊敬の念を抱いて、いつまでも頭を下げ続けた。

 信空が「では、これにて」と一同に解散をうながした。

 めいめいが席を立って自分の房へと向かった。住蓮は最後に席を立とうと思ったが、信空も席を立たず、座ったままでいたので、最後に二人は部屋に取り残される形となった。。住蓮は、これは兄弟子が何か自分に内々に話があるのだなと、すぐに察した。

 そこで座ったままいると、案の定であった。

「住蓮、もう少し話がある。ちょっとよいか」

 信空が語りかけてきた。

「はは、何でございましょうか」

 と、住蓮が答えると、信空は、彼の傍らに近づくと、少し声を落としてこう言った。

「実は一つそちに尋ねたいことがある……。そちに関して、もう一つよからぬ噂を耳にしてのう……。無論、このことはまだ法然様の耳にはいれておらんが……」

「はあ……」

 住蓮は、多分あのことだなと想像がついたがそのまま黙っていた。「いつかは明るみになることと承知はしていたが…」

 そうして黙ったままでいる住蓮を見て、信空はさらに言葉を続けた。

「単刀直入に聞く。そちと安楽の祇園舎での勤めに関わることなのだが……」

「……」

 祇園舎の裏、そこにある犬神人の里に暮らす一女性と自分との関わり……。それは話せば余りにも長すぎる話となろう…。彼は黙って俯いたままでいた。

 先程までとはうって変った困惑した表情を見せる住蓮の顔を見て、やはりそうか、と事の深刻さを察した信空はこう彼に言った。

「わしの房に参れ。そこで話そう。あそこなら奥まった所で、他の者に聞かれる心配もあるまい」

「はは」

 住蓮は信空に素直に従った。彼自身は他人に聞かれても決して不都合とは思わなかったが、声高に叫ぶような話でもなかった。

「そもそも時子とのことは簡単に人に説明できるものではない!」

 安楽ら、ごく親しい友人はすべてを知っている。彼らにはすべてを伝えた。それでも”知っている”に過ぎない。話を了解したに過ぎないのだ。

「誰があんな過酷な運命に真の理解と同情を示せようか!」

 だから、ごく大切な友人以外には時子との事は詳しくは話していなかったのだ。

 祇園舎で頻繁に出会う一僧と一女性、しかも女性は白癩を病んでいる……。よからぬ噂、怪しげな風評が生じるのも無理はなかろうというものであった。

 彼の思いは祇園舎へ飛んだ。先日は会えないと面会を断られた。いつもは安楽が処方してくれた薬を楽しみに待っているのに……。それがここ数日気がかりであった。

「時子は、元気でいるだろうか?」

 ここ吉水の地も寒さはひとしおである。日ごとに増し加わる廊下からの底冷えを足元に感じる。

「あの里の寒さはこれの比ではあるまい…、彼女はこの寒さの中十分な暖を取ているだろうか?」

 住蓮は時子の体の状態を気遣いつつも、今は信空に従って、彼の房へと向かうのであった。

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