第二部第四章
慈円から、後鳥羽上皇の下で働くよう申し渡された日から、一週間後……。
盛高は朝早く西山を発った。目指すは後鳥羽院の御所である。
「お勤めをしっかりと果たすように」
と、慈円より餞の言葉をもらうと、さすがの盛高も少し涙ぐんでしまった。
どこまでも続く竹薮……。最初来た時は、とんでもない所だと思ったものだ。猪を相手に弓矢の練習に明け暮れた。それも、いつか「仇をこの手で!」と思い続けてのことだった。
しかし、それも、昨日の慈円の叱責で幾分か思いなおせるようにはなった。
「近江佐々木家の再興……」
その言葉を噛み締めながら、彼は東へ進んだ。
ようやく竹やぶを抜けると、目の前に川の景色が広がった。
桂川である…。鴨川とは打って変わって、のどかな河川の景色が広がる。
「また、あの喧騒の中へ戻るわけか…」
盛高は妙な感傷に浸りながら、桂川を渡った。ー西の京極までもうわずかである。
「いよいよでございますな」
従者の六郎の声が元気よく響いた。ー従者の六郎も院のお勤めに駆り出されたのである。いや、より正確に言えば、盛高が随伴を願い出て、それが聞き入れられたのであった。
少し、浮き足だった気分で、少しずつ進んでいくと、ようやく西の京極に至った。ーと言っても、羅生門のような門があったわけではない。
ここから右京の里である。ーもっとも華やいだ都の様相とは程遠い、荒れ果てた街並みが見渡されるだけである。ー戦乱、大火、地震で荒れ果てた都はようやく少しずつ活力を取り戻しつつあったが、この西側、右京に関しては完全に立ち遅れていた。
もともと、平安の中期から右京は寂れ始めたのだが、この頃には、すっかりこれが帝のおわす都の一部であるか、と思わせるほどの荒廃ぶりであった。
後ろを振り返ってみれば、愛宕の山の方角にも、また、南へ向けると久世のあたりからも火葬の煙がもくもくと立ち昇っている。ー死体を荼毘に付しているのである。
「何も変わってはいない……」
そんな鑑賞に浸りながら、馬に揺られること小一時間、ようやく院の御所に着いた盛高は、あらたにあてがわれた部屋へ通されると、早速必要なものを一通り支給されるや、命じられるまま北面の武士の装束に着替えた。そして、さらに「そのまま待つように」と命じられると、部屋でそのまま待機させられた。
「ーー」
ようやく落ち着いて、この御所の有様を見てみると、おそらくは元はどこぞの貴人の所有物であったのであろう、豪華な寝殿造の邸宅である。しかし想像していたような煌びやかさはなかった。ー特に武者の勤める武者所は、無骨な雰囲気そのままで、むしろ気の引き締まる思いにもかられるのでもあった。
複雑な気持ちであった。
そんな思いで佇んでいると、次には過去の思い出が、心の中を、走馬灯のように駆け巡った。
本来なら、木曽義仲都落ちの際に、落ち武者として命を失っていても不思議ではなかった。
慈円がそれを救ってくれたとも言える。
そして、今……。
後鳥羽院から北面の武士として召抱えられようとしている。――ある意味、人も羨む栄達振りと言えた。
すると慈円からの別れの言葉が再び脳裏に木霊した。
「佐々木家の再興こそが、御身に課せられた重大な使命ではないか」
――確かにそうだ!
思わず武者震いした。
「何としても佐々木家の再興を成し遂げねば!」
心で再三、こう自らに言い聞かせながら、気を引き締めて、待つこと暫く……。
突然の声に、盛高は我に帰った。
「防鴨河使長官、三浦秀能殿お目通りであるぞ!」
一瞬、防鴨河使長官、と聞かされても、盛高はそれがさっぱり何のことか分からなかった。
後日聞いたところでは、天皇直属の元、検非違使の下で鴨川の治水、河原者の統制などを仕事として本来働くものであると。---後鳥羽院は、これを上皇の院内に置いて、都全体の治安を司る者とし、自らの直属として、命令を授けるようになったのだという。
今日で言えば、検非違使との二重行政であるが、朝廷の支配権が、ここの院に統合されていく過程での成り行きと考えればわかりやすいかもしれない。
朝廷の権威も失墜しつつあったということである。
「長官殿、ただいま参られました!」
襖の開く音がした。盛高は反射的に、「はは!」と言うと、深く頭を下げた。
長官殿と呼ばれた人物が合い向かいに座るのが感じとれた。
「どんな、精悍な顔つきの、強者の武士であろうか」
盛高は逸る鼓動を抑えられなかった。しかし命ぜられるまでは頭を起こすことは出来ない……。
しばらく沈黙が続いた。「相手も初対面で緊張しているのだろうか?」そんなことを考えていると、突然相手の声で沈黙が破られた。
「よろしい、頭を上げよ!」
思ったより若く、また線の細い長官の声に、盛高は内心驚きつつも、失礼の無いようにと、顔をそろりと上げた。
その瞬間、盛高は自分の目を疑った。
というのも……。
目の前にいたのは、まだ二十歳そこそこの紅顔の美青年であったからである。
「何という若輩者が!まだ、少年と言ってもいいではないか!」
そう、思って、周囲を見回すと、部下の者達であろうか。彼の周りに揃った、部下と思われる武士達も、同じ位の歳の青年ばかりであった。
「これはひょっとして、皆、貴族上がりの者たちか?」
盛高は呆れてしまった。
「これでは戦にならぬ!」
どの武者も、本物の戦になればまず役に立ちそうに無いことは、盛高で無くても、誰の目にも明らかであったろう。
ここに至って、彼は自分が召抱えられた理由がようやく分かった気がした。
「後鳥羽院は本物の職業軍人を探しておられるのだ、と聞いていたが…まさにこういうことであったか…」
合点がいった。先日、慈円の用事で、自分がここへ来た折、後鳥羽院がたまたま自分を目にして、「あの者、是非とも近くに置いておきたい」と、側近の尊長に命じたのだという。
「自分なら役にたつと思われたのか?――しかし、そもそも、近々、戦でもあるのか?もしそうだとして、一体、誰と?」
そこまで考えると、しかし、盛高はそれ以上の詮索は止めた。それが、職業軍人として生き残る道なのだ、ということを、彼は身をもって体験してきていたからである。
武士は与えられた命令をただひたすら遂行するのみなのだ!
そんな盛高の心の動揺、そして高揚とはお構いなしに、秀能はやや言葉を和らげてこう切り出した。
「噂には聞いておる。そちのかっての叡山での活躍ぶりは……。ともかくも今日より、私の部下として働いてもらう」
盛高は
「はは!」
と、大きい声で返事をすると、この若輩の長官に最大限の敬意を表すべく、深く頭を下げると、そのまま頭を上げなかった。
この盛高の態度に、秀能はいたく感動して、さらにねぎらいの言葉を続けた。
「頼もしいかぎりだ……。そうだ、早速だが本日、洛中、および洛外の現状視察に参る。無論、放免どもも連れてな。上皇様は、昨今の都の治安の悪化にひどく心を痛められておる。特に東京極の向こう、鴨の河原者達が屯するところ、一部は悪人どもの巣窟となっておる。どうだ?早速同行してもらうこととしようか」
そう、命じると、 秀能は立ち上がった。
「行動力はあるらしい」
盛高はこの若い武者の熱血振りを早くも感じ取っていた。
「いやいや、これも、上皇様に気に入られんがためか」
盛高はそう思いはしたが、頭をぶるぶると振るわせると、そこで思考を止めた。
「余計な詮索はすまい!」
そう心を引き締めると、盛高は元気よく返答した。
「承知仕りました」
そして立ち上がった。
「それでは参ろう」
秀能の号令一下、周囲の武士達も立ち上がった。
若い、名ばかりの武士集団の最後尾に付いて歩きながら、盛高は自分の行く末に漠然とした不安を抱きつつも、
「上皇様のために、己が出来ること、今は、ただ身命を賭して全てしなければなるまい!」
と、決意を新たにするのであった。