第二部第二章
この頃の時代背景は真に複雑であった。
建久九年(千百九十八年)兼実一派の追放により、勢力を増した源通親一派は、強力な摂関政治体制を目指した。そして、鎌倉幕府も少なくとも表面上は、頼朝と兼実との間の蜜月時代とは比べようも無いが、この公家政権との融和政策をとり続けた。
武家の時代が到来したとは、ある意味、まだまだ名ばかりであって、既存の支配体制が完全に崩壊したわけではなかったのである。したがって、既存の政治勢力との融和政策はどうしても必要だったのだ。
言わば、”飴と鞭”とでも言おうか。
ところが、正治元年一月(千百九十九年)源頼朝が死去し、鎌倉幕府の体制が揺らぎ始めるや、通親らの築いた摂関体制に待ったをかけるように、今度は後鳥羽天皇が密かに動き出した。――彼はこの混乱の間隙をついて、天皇親政体制の実現のための足がかりを築き始めたのである。
即ち、彼は突如、土御門天皇を強引に即位させるや、自らは上皇となり、院政を敷いたのである。こうして強力な院政政治を自ら司ることで、摂関を始め、天皇周辺の公家を政治から遠ざけようとしたのであった。
「後白河の後は、間違いなく後鳥羽の世……」
慈円はそんな後鳥羽院の政治への執着を、いち早く見抜いていた。
だからこそ、愛弟子の尊長を上皇の求めに応じ、祈祷僧として推挙もしたのだ。そこには、まだ若き上皇を、出来る限り、暴走させず、自分の管制下に置いておきたい、という彼の思いが根底にあったのである。
「すべては、この国家、日の本の国の護持のため……」
慈円は、決して自らの保身のみを考えて行動していたわけではない。――少なくとも彼は自身そう確信していた。彼の考えの根底にはいつもこの「国家護持」の考えがあったからである。その観点から見れば、後鳥羽院の昨今の動きは、危険な匂いを漂わせていた。
あまりにも奔放すぎたるのある。
性急すぎるというのか、彼の、よく言えば「先進的」、悪く言えば「急進的」な性格によるのだろうが、思いつきで行動、発言、命令することが多く、まさに朝令暮改、めまぐるしく言うことが変わるのである。そのため周囲の者も弱り果てているというのが実情らしい。
「まかり間違うと、また、この日の本の国を、混乱に落としかねない……」
慈円はかねがね、そんな危惧を抱き続けていたのである。
そんな折にこの度の尊長の訪問であった。
「後鳥羽院の昨今の動きを知る良い機会かも知れぬ…」
そんな思いを抱きつつ、彼は、尊長の待つ客間に向かった。
小さい庵である。---客間には直ぐに着いた。この襖の向こうに、その彼がいる。慈円は身ずまいを正すと、胸をはり、一気に襖を開けた。
「尊長、久しぶりであるな」
慈円は部屋に入るや、開口一番わざと大きい声で呼びかけた。――無論、彼があくまでも上皇からの使者という名目であれば、本来このような振る舞いは許されない。
しかし、取り次いだ弟子の話では、上皇からの使者として、正式な文書を携えて来たわけではないらしい。であれば、互いに天台の僧籍を離れていない以上、尊長は自分の弟子に過ぎない。
弟子が自分を訪ねてきたに過ぎないのであれば……。何も卑屈な態度を取らねばならぬ理由は無い。そこで、彼に先制攻撃を加えたのであった。
「慈円様もご機嫌麗しゅうようで……」
一喝されるかのような大きい声で先制攻撃を加えられた尊長は、少したじろいだ様子を見せつつも、落ち着いた声で返答した。
尊長――端正な顔つきではあったが、ぎょろぎょろと絶えず周囲を見回す目は、彼の神経質な性格を窺わせた。比叡山時代には、彼の碩学ぶりは一二を争うものであり、特に天体の動きから吉兆を判断する能力はずば抜けていて、そんな彼を当時、慈円は高く評価して引き立てていたのである。
慈円は彼に対して、優位に立つことに成功した、と見た。そこで「で、何用か」と、さらにこの弟子にたたみかけるように問いかけた。
尊長は、慈円の圧力に圧倒されまいと、居住まいを正した。そして次には、隣室に誰もいないのを確認するかのように、そちらを見遣った。そして、その確認が終わると、こう慈円に告げた。
「実は上皇様に置かれましては、慈円様に一つ頼みがあると……」
慈円は、上皇からの頼み、と聞いて少し緊張した。
「今度は、私に何をしろというお考えか?」
と、思いつつも、努めて平静を装うと、彼は返答した。
「ふむ。して、上皇様からの頼みとあれば、この慈円、出来る限りのことをせねばならんが。それはどのようなことか」
尊長は少しにじり寄ると、慈円との距離を縮めた。そしてやや声を潜めて、こう言った。
「先日、慈円様の使者として御所に遣わされた、佐々木盛高という武士でございますが、上皇様がその者をひどくお気に召されまして……」
と、そこまで言うと、話を中断して、慈円の反応を確かめるかのように、彼の顔を覗き込んだ。
慈円は少し戸惑いの表情を見せた。
「――佐々木盛高、確かに、あの者、先日御所に遣わしたが……」
慈円は記憶を呼び起こしてそう言った。確かに先日、歌会の件で、打ち合わせのため、彼を使者として上皇の御所へ派遣したのは間違いない。
そう、あの盛高である。---時子の兄のあの盛高である。
盛高は、慈円が叡山を降りた後も、彼と行動を共にし、この西山の里で慈円の護衛役を相変わらず務めていたのであった。
「ふむ。して……」
慈円は、思わぬ方向に話が展開したことに戸惑いを感じながらも、相変わらず平静を装うと、尊長を促した。
尊長は、もう一度周囲を見回すと、さらに声を潜めて、言った。
「上皇様は……。上皇様は、慈円様にさえ異存が無ければ、その者、院の北面の武士として召抱えたいと仰せなのです」
と言うと、元の場所ににじり戻り、襟を正した。
ここまで一気に言うと、尊長は、背筋を伸ばした。
そして「これは上皇様からのいいつけであり、私はその使者であるぞ!」と、言わんばかりに、威圧するかのように、そのぎょろっとした目で慈円を見据えた。
慈円は、この尊長の態度に不快感を隠せなかった。しかし、それ以上に、上皇の願いごとの内容を聞いてひどく驚いてしまった。
「最近、北面の武士を盛んに集めておられる、という噂は真であったか」
しかし、まさか、自分の護衛に目をつけて、わざわざそれを横取りせんばかりに、召抱えようとは……。
「一体、何を考えておられるのか?」
慈円の疑問は率直なものと言えた。
北面の武士は、元来は、ある意味形式的な武士集団である要素が強く、かっては、武芸に秀でた貴族の子弟が召抱えられることも多かった。そんなわけで、護衛をするとは名ばかりで、戦になれば役に立たない者も多くいた。――実際、後白河法皇が、その院所を木曽義仲に襲われ、幽閉されてしまった際も、法王直属の北面の武士達は全く無力であり、義仲の軍にいとも容易に蹂躙されてしまったのである。
慈円の心は騒いだ。
「後鳥羽院が、最近、本物の職業軍人を集めておられるという噂はまことであったか?」
慈円は、一部の公家たちがこの上皇の動きについて、噂にしていたのを耳にしたこともあったのである。
「一体何をお考えか?」
しかし詮索をいくらしたところで、”頼み”とは言ってるものの、これはほぼ”命令”である。---ことがことだけに、正式な書状も作らず、彼を使者としてよこしたのだろう。
とあらば止む終えない。---慈円は大きい力に動かされている自分を感じ、やや不快な思いもあったが、断れようはずもなかった。
「異存などあろうはずがない」
慈円はそう言うと、席を立った。そうしながらも、最後にはわざと尊長を見下ろしながら、こう言った。
「上皇様にはっきりと伝えられよ。承知しました、と」
そう伝えると、慈円は尊長に後姿を見せたまま、襖を開けると、そのまま部屋を出た。
尊長との面会はこうして呆気なく終わった。
何とか、慈円の優位なまま……。
しかし……。
尊長へはかろうじて優位感を保てたが、しかし……。
「上皇様、一体何をお考えか!」
噂は本当だった。そして、表面上は、この北面の武士の補強は、身辺警護強化のためであると称されていた。しかし、明らかなに職業軍人を多く集めている、盛高を召し抱えようというのであるから!---彼には歌の才能はない。根っからの職業軍人である。それも百戦錬磨の…。
「何に備えようとなされているのか?」
そんなことを自問自答しているうちに、慈円の心の不安感は次第に大きくなっていった。
彼は廊下から東の方、平安の都を遠くに見ながら思った。
「上皇様、最近、祈祷僧を多く集め、密かに鎌倉幕府の調伏を、朝に夕にさせておられるという、朝廷内でも専らの噂じゃと聞いてはいたが…」
慈円は天を仰いで呟いた。
「まさか、上皇様、まさか……」
しかし、そこまで言うと、あわてて口を噤んだ。そして思わず、辺りを見回した。慈円の心はいっそう騒いだ。
そして思った。
「上皇様、保元の乱、平治の乱の顛末を、まさかもうお忘れか?」
慈円はぶるぶるっと体を振るわせた。
「いや、しかし、いかに血気盛ん、天衣無縫の性格の上皇様といえど、まさかそんな無謀なことを考えてはおられまい!」
そう、自分に言い聞かせて、ようやく心の平静さを取り戻した慈円ではあった。---彼は、安堵のため息をつくと、急いで自分の部屋へ戻った。
その日の夜、慈円は、後鳥羽院の真意を測りかねて、心が騒ぎ、なかなか寝付けなかった。
漸く眠りに落ちたものの、今度は悪夢ににうなされた……。
夢の中で人々が争っている。殺し合いである。一群の人々は法然を頭として、口々に「南無阿弥陀仏」と唱えている。戦っている相手は南都北嶺の衆徒、堂衆、そして一部武装化した僧兵達である。そこへ駆けつけたのは東国の武士達であった。しかし彼らはそれを制止するどころか、そこへ加わって、一緒に殺しあいを始めた。そして、それを笑いながら見守る後鳥羽院がいる……。
そして、なんと、実は、彼らの背後には天狗がいて、そんな彼らの殺し合いを操っているのである!
「何としたことか!」
なんとかしなければ!と、慈円は天狗を相手に戦った。相手は手ごわかった。慈円の得意とする呪法も功を奏しない。
「ああ!
天狗に食われそうに」なった、そのところで、慈円ははっと目がさめた。
「夢か……」
しばらく慈円は金縛り状態であったが、それでも、ようやく床から身を起こすと、全身にびっしょり汗をかいていた。
彼は二度三度大きく息をすると、起き上がり外へ出た。漆黒の闇の中、遥かに都のともしびが散見された。
彼は思わず声に出して言った。都の方角を見遣りながら…。
「天狗の仕業か。ーーならば、それでよし。天狗何するものぞ!天台一門の力で、見事天狗を都から追い払って見せようとも!」
慈円は奮い立つ心を抑えつつ、汗を拭うと、その決意を胸に、再び床に就いた。