第一部第四十五章
吉水の里でも、信空と住蓮の会話は、いよいよ終焉を迎えようとしていた。
「そうであったか。応水殿が、大原に来られていたのであったか……」
静寂の中、信空の部屋に彼の声が響いた。それに対して住蓮が答えた。
「左様でございます」
「それにしても、みずくさい。法然様に何の挨拶もせずとは」
信空が、半ば呆れ顔に言った。住蓮がそれに応えた。
「応水様は、元来そのような方でございますから……」
「確かにな……」
信空は、常に民を向いて行動する、かっての叡山での同門僧に心の中で応援を送った。
「それにしても、住蓮」
「はい」
「よう、わかった。祇園舎の女人の件……」
「はい」
ようやく、時子との今までの経緯を理解してもらえた、という安堵感で、住蓮は大きくここで大きくため息をついた。
しかし、その和やかな雰囲気に逆らうかのように、信空が再び厳しい表情を見せた。そして、言った。
「しかし最後に一つ、私から頼みがある」
そう言うと、住蓮の顔を覗き込んだ。
「はい?」
住蓮は、厳しい表情の信空から、頼みと言われて緊張した。少し間をおくと、信空は厳しい口調で語り始めた。
「今、われらが一門をとりまく状況を考えて欲しい」
「はい」
「後白河法皇崩御されて後、今、われらが後ろ盾となっいただけるのは関白、九条兼実公のみじゃ」
「まことに」
住蓮は信空の言いたいことをよく理解していた。後白河法皇の後ろ盾無くして、ここまでの専修念仏の広がりはありえなかったという捉え方を、信空は周囲のものによく漏らしていたからである。
「われらが専修念仏の布教、もともと南都北嶺は快く思っておらん。したがって、後白河法皇亡き後、これから、ますます様々な嫌がらせをしてこよう。だから、くれぐれも行いを戒めて欲しい。結果的に法然様の迷惑になるようなことのないように、くれぐれも自戒してほしい、よいな!」
「はい」
住蓮は、そう答えながらも、信空が後ろ盾を後白河法皇や九条兼実のみに置いていることにはやや違和感を持った。
「われらが真の後ろ盾は、往生を求める無数のわれらが民の声!――いや、それよりも何よりも、弥陀の本願そのものではないか!」
しかし、敢えて今、目の前に座る法然一門の高弟と言い争う気もなかった。
「ともかくも、この方は、われら一門の行く末を心から案じておられるのだから」
そんな思いに捉われていると、信空が咳払いをした。そして言った。
「では、夜も更けた……。ここまでとしよう」
「はい」
こうして、住蓮はようやく信空の部屋を後にした。
住蓮は自分の部屋に戻ると、床に就いた。胸に痞えていたものが取れた感じもあって、『今日は眠れるだろうか?』と幾分か期待もした。しかしいざ床に就くと、特に、今日時子から面会を断わられたことも気になって、心が昂ってなかなか眠れなかった。
結局いつものように眠れない夜を過ごした……。
その次の日、住蓮はいつものように目覚めると、昨日のことを思い出しつつも、朝の勤めの準備にかかった。
「気持ちを切り替えねば」
そう思いつつも、しかし、今朝は目覚めが悪く、また体も依然としてだるさが残り、疲労感が取り切れていなかった。
昨日、信空と遅くまで話をしていたことが、疲労のもっぱらの原因であったのは無論だが、時子と面会を拒否されたことが、心に大きい棘となって、心に刺さっていたからでもある。それは自分でもよく分かっていた。
「体の具合は大丈夫だろうか…」
そんなことを思っていると、部屋の外で安楽の声がした。
「住蓮、朝の勤めだ。本堂へ行こう」
「わかった。少し待ってくれ」
そう答えると、住蓮は疲れた体に鞭を打って、何とか身支度を整えると、部屋の外へ出た。安楽は笑顔で彼を迎えた。
「さあ、今日も頑張るとするか。すべては御仏のために……」
と、彼は軽妙な口調で話しかけてくる。
「安楽、そちはいつも、楽しそうにしている。その楽天的な性格が本当に羨ましい」
と、住蓮はとりあえず受け答えると、続けて言った。
「ところで昨日の件だが、……」
と、安楽に昨日の信空との会話のやり取りについて報告を始めた。
本堂へと連れ立って歩いてく途中、神妙な顔つきで、黙って一部始終を聞いていた安楽であったが、本堂まで来ると、こう言った。
「また、その件は朝の勤めの後に……」
と、住蓮に告げると、先に本堂へ入った。住蓮も続いた。
皆が集まってきた。昨日とほぼ同じ面々である。
念仏が修行の中心であるとはいえ、朝の勤めはそれなりに厳しいものだ。ましてや住蓮には、連日の六時礼賛興行の疲れの蓄積も重なっていたので、今日の勤めはいつもより一層体に堪えて感じられた。
さて、その朝の勤めが漸く終わって……。
早速安楽が話しかけてきた。
「昨日の話、詳しく聞かせてくれ」
「分かった」
住蓮は安楽と共に庭へ出た。人目につかないところへ来ると、住蓮は昨日の会合でいろいろと質問されたことを安楽に語って聞かせた。
「そうか……」
安楽は黙って聞いていたが、住蓮が語り終えると、
「相当、風当たりが強くなってきたな」
と、厳しい表情で、独り言ともつかず言葉を発した。しかし生来、楽天的な性格の彼は、すぐに表情を和らげると、こう言った。
「なーに、我らは、仏の教えに導かれるままに、我らに与えられた勤めを果たすだけじゃ。のう、住蓮」
そしてにこりと微笑んだ。
安楽をよく知る住蓮であったが、身内からも厳しい目で見られているという現実でさえ、さらりと流してしまうことの出来る、この楽天的性格にはただただ脱帽するばかりであった。
「いやはや、安楽」
「どうした」
「貴殿のその楽天的性格、まことに感嘆に値するな」
「楽天的、そうか、自分では考えたことも無い。貴殿こそくよくよ考えすぎなのじゃ」
「そうだろうか」
安楽にそう言われると少し気分が軽くなったような気がしてきた。しかし、時子のことは……。
時子のことに思いが馳せると、住蓮は再び心が沈んだ。そんな住蓮の憂鬱な表情を安楽は見逃さなかった。
「何か、ほかに悩み事があるか」
「うむ」
住蓮は昨日、時子に面会を断られたことを安楽に語って聞かせた。面会が断られたのは再会後は初めてのことでもあったので、住蓮も戸惑ったのであった。
「そうか」
安楽は聞き終わると、しばらく目を瞑っていたが、徐に口を開くとこう諭すように言った。
「二三日はそっとしておいてあげるのがよかろう。病の具合が悪いのやもしれんが……。ただの風邪かもしれん。それに誰でも気分が塞ぐこともあろう。あせらず様子を見るのがよかろうと思うが」
「そうだな」
気分が塞ぐ――住蓮も、友人にそう言われて一先ずは納得したが、すぐに別の不安が頭を過ぎった。
「しかし、病の具合が悪いのであれば、……安楽、その時は、よい薬があるのか?」
こう問われると安楽は少し戸惑った表情を見せた。
沈黙が続いた。
よい薬、……そんなものがあろうはずも無い。そのことはお互いによく承知しているはずだ。それは住蓮も承知の上で尋ねているのである。
安楽がその沈黙を破って言った。
「努力はする。知り合いの薬師にまた当たってみるとしよう…。住蓮、貴殿と時子殿のためだ、わしは出来る限りの努力をする。だから、諦めるな。気をしっかり持て。わかったな。貴殿が弱気になれば時子殿まで弱気になってしまう。病と闘うのに最も大切なことは、気を強く持つことだ。無論、御仏のお力にも縋らねばならないのは言うまでも無いが……」
「わかった」
信頼する友人に励まされて、住蓮は幾分か心のもやもやが晴れるのを感じた。
「では、今日も参るとするか。――大和入道が引導寺で首を長くして待っておろう」
安楽は住蓮を促した。先に歩き始めると、やおら体を少し揺らしながら、同時に即興で歌を謡い始めた。
「いざいかんー、引導寺へ我ら、ただ御仏のー、願いに縋る、南無阿弥ー陀仏」
謡い終わると、振り向いて住蓮ににこりと微笑んだ。そして言った。
「今日も、多くの民が待っておる。頑張ろう」
「まことに」
住蓮は体に力が沸いてくるのを感じた。
「我らを待ってくれている多くの民がいる、まことにその通りだ。弥陀の本願の有難さを、いよいよもっと多くの人に伝えねばならぬ。個人的な感傷に浸ってはおられぬ!」
そう、自分に言い聞かせると、住蓮は安楽の後に続いた。
そうして、救護所のところまで来ると、先をゆく安楽が振り向いて言った。
「救護所に忘れ物があるゆえ立ち寄る。貴殿は先に行っててくれ」
そして、そこで住蓮と別れた。
「わかった」
と言うと、住蓮は引導寺へと向かい、その歩みを速めた。祇園社の横を通り過ぎ、いつもの道を歩く。
ところが、ようやく引導寺が向こうに見え始めた頃である……。
後ろから、突如、安楽の大声がした。
「住蓮、たいへんだ!」
安楽の大声に振り向くと、彼のただならぬ様子に、住蓮も、急いで、安楽のもとへ駆け寄った。
「どうした?」
安楽の蒼ざめた顔から、大変なことが何か起こったことは間違いないと、容易に想像できた。
「大変じゃ、時子殿が、時子殿が……。祇園社から急ぎの文が来た!」
時子、という名前を聞いて、今度は住蓮の顔が蒼ざめた。思わず彼は叫んだ。
「時子がどうしたというのだ!」
安楽が声を振り絞って、手に持った手紙の内容を伝えた。
「時子殿が、血を吐いて倒れたというのだ!」
「何と!」
住蓮は、あまりのショックに倒れそうになった。
安楽はそんな住蓮を支えながら、彼を励まして言った。
「住蓮、とにもかくにも急いで行ってみよう!」
二人は急いで走り出した。
急げ、祇園社へ!
二人は全力で駆けた。
建久三年、千百九十二年、時子と再会を果たしてから六年が経過していた。その年の師走の今日、この日、住蓮に大きい運命の転換点が訪れようとしていた。(第一部終わり)