第一部第四十四章
さて、ここ祇園社の犬神人の里でも、時子と源太の会話がそろそろ結末を迎えようとしていた。
「本当に、あの日、あの笛の音が聞こえてきたときは心臓が止まるかと思いました」
時子の言葉に源太はただ黙って頷いた。
「そして、その後、暫くしてからです。あの方の熱心さに、そして真摯な態度に、私も最後には会うことを決めたのです」
時子はこうして、すべてを源太に語り終えると、大きくため息をついた。
「まことに数奇な物語よな……」
源太は、すべて納得できた満足で、大きく頷いた。
「おときさん、よう聞かせてくれた」
彼はそう言って時子を労った。
「もうよいじゃろ、今日は早く休みなされ。明日もお勤めがある……。それにしても……」
と、そこまで言うと、源太は語気をここで強めた。
「その坊主の勇気にはまこと、頭が下がる。いかに吉水の上人の弟子とはいえ、周囲からは嫌がらせも受けておろう。何せ、我々は、仏さんの教えでは、最も重い仏罰に当たった身、『穢れ』のかたまりみたいなものじゃからのう……。ははは」
源太はひとしきり、からからと笑うと、再び真顔に戻った。そして続けて言った。
「しかし、今まで、わしらのために、これほど骨を折ってくれた坊さんをわしは知らん。もう一人、あの安楽とかいう坊さんもだが……。まあ、しかし、もう少し効く薬を持ってきて欲しいものじゃが……。そうすれば、あの下手糞な説法をもう少し聞いてやってもいいのだが……。ははは、まあ贅沢を言ってはいかんな。ともかく、今日はもう休みなされ」
そう言うと、時子ににこりと微笑んだ。
時子は今までは、たとえ頼りになる世話役であったとしても、ある一定の距離を感じていた源太の、やさしい言葉に思わず涙ぐんだ。それは久しく忘れていた父の温もりのようでもあった。彼女はそう感じると涙が止まらなかった。
「ありがとうございます」
と言うと、時子は彼に頭を下げた。
「なんで頭を下げなさる。いや、あんたのお陰で、あの坊さんらが薬を持ってきてくれるようになったともいえる。ははは、わしらが頭を下げねばならぬ方じゃ」
源太はそう言って、逆に時子に感謝の念を伝えた。
「おときさん。後白河法皇様が亡くなられて、わしらも大きい後ろ盾が無くなった。だからこそ、ますます、みんな力を併せて、頑張って生き抜いて行かねば」
「はい」
時子は源太から励ましの言葉をもらいながらも、今日図らずも目にしてしまった兄の姿を思い浮かべると、心の中では「兄上と会いたい!」という気持ちと「しかし、今の私は兄のお荷物でしかない……。そんな今の私に、兄との再会など叶えられるはずもない!」という気持ちが交錯してやりきれない思いだった。それでも、その日、胸の思いを全て源太にぶちまけたことで、幾分かは安らぎを得て、彼女はようやく床に就いた。
しかし、なかなか寝付けなかった。運命に翻弄された過去を思い起こすことで、心が昂ってしまったことも無論あった。
しかし、咳が、実はここ一、二ヶ月続いていたのである。それは軽い咳なので、風邪がなかなか治らないぐらいにしか思っていなかったが、今夜は、床についてから、しつこくその咳が続いた。
「何だろう」
咳に悩まされながら、また、兄に自分の消息を伝えられないもどかしさに悶々としながら、時子は、もう一つの不安材料をどうしたものか思案していた。---住蓮に兄の件を伝えるべきかどうか迷ったのである。
「しかし、やはりここは黙っているしかないわ!」
悲しいことではあったが、確かに他に今のところ方法はあるまい。そう言い聞かせると、彼女は兄と住蓮二人の行く末のことまでも心配しつつ、眠れぬ夜を過ごすのであった。