第一部第四十二章
信空も当時を思い出して懐かしそうに語った。
「まことに、あの折の師は堂々として、語る言葉に、周囲の者もただ頷かざるを得なかった……」
住蓮も頷いた。そして続けた。
「そこに応水様も来られていたのです」
「そうであったか……」
信空がそのまま黙してしまったのを見て、住蓮はそのまま話を続けた。
「近江の地を離れた後、念仏聖として諸国を行脚されていたのですが、大原にて、法然上人、諸宗の碩学たちを相手に談義をされると聞いて、はるばる東国の地より駆けつけられていたのです」
そう、当日その地に集った念仏聖たちは、すべてが法然門下の者であったわけではない。
噂を耳にした全国の念仏聖たちが終結したのである。
日中日夜、不断に念仏を唱えるその声は、まる三日大原の地に響き渡ったと言う。
応水もそんな念仏聖たちの中にあった。
住蓮が聞いた、応水のここに至るまでのあらましは次のようである…。
話は琵琶湖での時子と応水の出会いに遡る……。
あの時、湖で時子の身投げを思いとどまらせた後、彼は、早速、時子の両親に事情を説明しに、時子の屋敷に赴いた。両親の悲嘆は計り知れぬものがあったが、都での新しい生活をこの地から見守るしかないと納得したのを確認すると、そのまま時子の安否の確認のため、自らも都へ赴いたのである。
そして暫くは彼女の様子を伺うため都に滞在していた…。
「時子のことを気にかけ、毎日祇園社まで足を運んでいただいたそうです……」
そして、ようやく、時子がそこでの生活に何とか馴染んできたことを確認すると、かねてからの彼の希望を満たすべく、近江の地には戻らず、そのまま諸国行脚の旅に出たのであった。
彼の希望……。無論、目的は阿弥陀信仰の布教である。
こうして彼は旅に出た。
そんな行脚の最中に大原談義の噂を耳にしたのである。
「まずは都へ帰らねば……。自分が何が出来ると言うわけではなかろうが、せめて念仏唱和して偉大な念仏者の応援をしたい」
そう思ったのは当然であろう。
彼は、丁度関東を中心とした東国行脚が終わり、次は西国行脚の計画を立てていたおりでもあり、この大原談義を見守ろうと、京の都へ帰ることにしたのであった。
そして、ここ大原へやってきた彼は、偶然にも、不断に念仏を唱えている住蓮を目にしたわけである。
「本当に驚きました……」
住蓮の言葉に信空も同意した。
「であろうな」
それは応水も同じだった。彼も驚きのあまり、まずは自分の目を疑った。
先ず声をかけたのは応水であった。
「よもや時実ではあるまいか、貴殿は!」
「応水殿」
声をかけられた住蓮も突然のことに声が出なかった。久々に応水と再開した住蓮は駆け寄ると、思わず彼に抱きついてしまった。
「応水殿、懐かしゅうござる!」
まずは挨拶を交わすと、今度は畳み掛けるように質問した。
「どこにおいででしたか。父の看病に奈良へ赴く前にお会いしたのが最後でしたでしょうか。知らせを受け、近江の地に戻ってみたら、何もかもが失われていて……、さらには応水様まで行方が分からぬと……」
「何と!」
応水は住蓮のこの言葉に不吉な思いを抱き思わず絶句した。
「知らせを受け、とは?――失われてしまって、とは?一体どういうことじゃ」
「応水様は何もご存じなかったのですか!」
住蓮は、馬渕の里での惨劇の事情を、何も知らないらしい応水に、事の顛末を簡潔に述べた。
「奈良の地で父の看病をしていた私のもとに、馬渕の里より急な知らせが届いたのです。時子殿が湖に身を投げ、自ら命を絶ったと……。そこで急ぎ駆けつけてみると、馬渕の里には屋敷の焼け跡しかありませんでした。それを見た私は全てに絶望して、近江の地を離れ、鴨の河原で乞食生活をしていたのです。酒に溺れながら……」
「そんな、馬鹿な!」
応水は思わず大声をあげた。――何かとんでもない行き違いがあったに違いない!
応水は住蓮に自分の知る限りのことを話しだした。
「何を馬鹿なことを!時子殿は生きておるはずじゃ。この京の都まで連れてきたのじゃから!身投げを思いとどまらせたあとにな!」
「えっ!」
今度は住蓮が絶句した。――時子が生きている!それは本当なのか?
「本当でございますか!」
応水は大きく頷いた。
「本当も何も、とんでもない思い違いじゃ!病の進行がそれほど進んでおらんのであれば、じゃがの……。無論、今どのように過ごされておるか、そこまではわしも確認しておらんが……。しかし、元気でいれば、祇園社で犬神人としてお勤めをされておられるはずじゃ」
「本当ですか!」
驚く住蓮に、まずは気を落ち着かせるようにと言うと、応水はことのあらましを、今度はゆっくりと告げ始めた。
即ち、偶然、朝の釣りに出かけた折、入水自殺を図ろうとしていた時子に遭遇し、それを思いとどまらせたこと、さらには、都で犬神人として働くよう勧め、それを彼女が受け入れたこと、また……。
「時子殿は、会えばいっそう別れが辛くなるからと、両親のもとを訪れて別れの挨拶をするのは遠慮したいと申され……」
応水はさらに言葉を続けた。
「私が、一人で屋敷を訪ね、ご両親に事情をすべて説明したのじゃ。そしてご両親の了解を貰ったのじゃ」
応水はそこまで言うと、眼を瞑った。そして当時の記憶をさらに辿った。
「ご両親の落胆は無論大きかったが、運命には逆らえようはずもない。時子殿の病は、病として受け入れねばならない……」
「父上は、そのこと、ある程度覚悟はしておられた。彼は、佐々木家当主として、家の体面を保たねばならない役目がある。その意味で、娘のことを、表ざたにせず事が処理できるのであれば、むしろ、よい解決策であった、と思われたようじゃ。ただ、母上は……」
応水はそこで話を中断した。
「時子の母上が、私を責められたのですね 」
住蓮がぽつりと、そう言った。
予測は出来た。住蓮は、時子の発病について、彼女の母が住蓮を激しく責めていたことを忘れてはいなかったのである。――奈良へ旅立つ日の前にも一度激しく言い争いをして、時子が泣きながら止めに入ったこともよく覚えていた。
応水がそれに答えた。
「左様じゃ……。もっとも、母上は私をも責められた。時子が病に侵されたのは二人のせいであるとな……。この乞食坊主があちこちへ連れまわしたことを随分と責められておった…」
と、そこまで言うと、応水も言葉が続かず、沈黙するしかなかった。
たとえ、思い込みであるにせよ、娘を苦しみから何とか解き放ちたいと思う、そんな母の心情を察すると、そんな彼女を責めることなど無論出来ようはずもない……。
住蓮がその沈黙を破った。
「おそらくは、娘と永遠の離別をする悲しみに打ち負かされて、時子殿の母上に物の怪が取り付いたのでありましょう。それで屋敷に自ら火を放った……」
と、彼は自分を納得させるかのようにぽつりと語った。
応水も頷いた。
「左様であろうな……。あの母上の、私に対する冷たい視線は、今でも忘れられん…」
そう言うと、応水は深いため息をついた。そして続けた。
「何とも悲しい話ではある……」
そこまで言うと、応水は口をつぐんでしまった。住蓮も言葉を失ったままであった。
どれぐらい、二人の沈黙が続いただろう……。
突然住蓮は大きい声で応水に問いかけた。
「しかし、生きているのですね!どうすれば会えるのですか!」
突然の大声に、応水も我に返った。そうだ死んでしまったものはどうにもならないが、時子は生きているのだ。
「二人を会わせてあげねば。さてどうするか…」
と、思案する応水であったが、住蓮は一刻も我慢がならぬ様子で、構わず問い続けた。
「ここのお勤めも今日で終わります、われらは吉水へ夕刻には立ち戻ります。私は彼女に今晩にでも会いに行きます!時子殿は、祇園社にいるのですね!必ずそこにいるのですね!」
応水がこれに応じた。
「左様、おられるはずじゃ。しかし……」
と言うと、応水は腕を組んで、何やら思案げな表情となった。そして、住蓮の興奮を鎮めるかのように、ゆっくりと、しっかりした口調でさらに言葉を続けた。
「時実、いや今はもう住蓮と呼ぶべきか」
「はい!」
と答える住蓮は、ともかく時子に会いたい一心で、逸る心を抑えることが出来ないでいる。
応水はそんな住蓮を宥めた。
「まあ、落ち着け。貴殿の気持ちはわかる。しかし、考えてもみよ」
「考えるとは、何をですか!」
住蓮は、しかし、簡単に感情の高ぶりを抑えることなど出来る様子ではなかった。
「はやく会わなければ!」---彼の心は逸るばかりである。
そこで応水は、彼を何とか冷静にさせようと、一層ゆっくりと、宥めるように、言葉を続けた。
「よいか、相手の気持ちは考えなくてもよいのか……」
「相手の気持ち……」
住蓮はそう言われて、はっと我に返った。
応水は、ようやく平静さを取り戻しつつある住蓮を見て、少し安心したが、さらに彼に諭すようにこう告げた。
「今、時子殿に会っても、それは彼女にとって、むしろ苦痛ではあるまいか?」
応水から、このように諭されてみると、住蓮も返す言葉が無かった。
確かにその通りであった。
「彼女は病に苦しんでいる」---この白癩という病は進行性であり、よくなることなどありえないというのが当時の常識であった。
住蓮も当然そのことは知っていた。
また、たとえ、死期がまだ近くないとしても、それまでに体は崩れ、顔は醜く変形し、手足の指が落ちていく……。生きながら地獄を見るのである。
「あれから何年過ぎただろう……」
時子の病状も進んでいることは間違いなかった。
あの、忌まわしい、ごつごつした腫れ物が、体中に吹き出ているかもしれない。髪も抜け落ちているかもしれない。顔も獅子のごとく変形しているかもしれない――そんな姿をかっての恋人に見られたいと思うであろうか!
住蓮は大きくため息をついた。
「応水様の言われるとおりです……」
応水は、住蓮が現実を直視し、ようやく冷静に状況を判断出来たことに安堵した。
「ここは、わしに任せなさい。早速わしは、彼女のこと、元気でいるかどうか調べてみる。なあに容易いことじゃ。友がまだ清水の寺におる。彼に聞けばすぐ分かるじゃろう。それまで、時実、動きを起こすな。わしからの連絡を待て。――おそらくは、会えるときがあるとしても。まだ先のことになるじゃろう」
そう言って。応水は、住蓮の肩を叩いた。
「わかりました……」
「わしが、ひとまず、先に都へ帰るとしよう。早速、友と会ってみることにする。その後、今晩貴殿のもとを訪ねるとしよう。必ず、良いしらせを持って行くから……。とりあえず待っておれ。わかったな」
「はい!」
こうして二人は、吉水で再会する段取りを組んで、一先ず別れることとなった。
その別れ際に、応水は住蓮にもう一つ約束事をさせた。
「よいか、仮に会えることがいつかあったとしても、ご両親のことは絶対喋ってはならぬぞ」
「それは、十分承知しております」
住蓮は頷いた。もっともな話である。
「あまりに悲しい話、今の時子殿の境遇に追い討ちをかけるだけじゃ。このことはわしと貴殿との間の秘密にしておこう」
「もっともです」
と、賛同した住蓮であったが、今度は、彼の頭の中に、別の一つの不安が持ち上がった。
「もう一つ問題があります」
住蓮はこの問題も応水に相談しておかなければ、と考えた。
「何か、それは」
「はい」
早速、住蓮はありのままに語りだした。
即ち……。
時子の兄が、自分が勘違いをしたのと同じく、やはり妹を亡くしたと思い込んでいること、しかも、時子の自殺、ご両親の憤死、そのすべてが住蓮の責任であるとし、自分を敵として追っているらしい、ということである。
「もっとも、すでに彼は落ち武者狩りに会い、もう殺されてしまっているかもしれませんが……」
出家した後も、このことは住蓮の心に刺さったとげとして、彼を悩まし続けていた。
「左様であったか……」
応水も、このあらたな難題には頭を抱えた。――しばらく目を瞑って考えていたが、徐に口を開くとこう言った。
「それについては、おいおい考えるとしよう。また……、それも時子殿には伏せておいたほうがよかろう」
「承知しました」
答えがあろうはずはない。それは彼も分かっていた。しかし、応水に話を聞いてもらったことで、幾分か心の重荷が取れた感じであった。
「それでは、私は先に出発するとしよう」
こうして二人は分かれた。
住蓮は、時子が元気で過ごしている知らせを、応水から聞けることを心楽しみにしつつ、一方で事態が複雑に展開してしまったことへの不安も感じながら、都へ向かう応水の背中を見送った。