第一部第四十一章
そして、今、住蓮は、法然の弟子として、信空に相対し座っているのであった。
信空も当時のことを回想し、感慨深げであった。
「まこと、重衡殿の頭は地に落ちたが、それが種となり、そちと言う実となったわけだ。まさしく、人を生かす念仏とはこのことか……」
「左様で……」
二人は、共に当時のことを回想して目を瞑った。
「しかし……」
と、沈黙を破ったのは信空であった。
「まだ解せぬことがある」
信空は住蓮に尋ねた。
「あの祇園社の女人とはどういう経緯で再会出来たのであるか。そもそも、もう死んだものと思っていたのであろう」
住蓮は答えた。
「まことに……。私も彼女はもう死んだものと信じて疑いを持っておりませんでした」
「であろう、とすれば、いったいどのようにして……」
という、信空の問いを遮って、住蓮はこう答えた。
「話は大原談義の時に遡ります」
「大原談義……」
「左様です、私はそこで応水律師と再会し、ことの真相をすべて知らされたのです」
「応水律師が、大原談義に来られていたのか!」
「はい」
そう答える住蓮の記憶は、今度は、大原談義の頃、即ち、平重衡処刑の年の二年後、文治二年(千百八十六年)の秋に遡った。
大原談義とは…。
法然教団――とここでは便宜上そう述べるが、無論、当時法然が意図的に教団を組織していたわけではない。吉水の里に多くの念仏聖たちが法然を慕って集結していたのである――即ち、法然を頂点とする、念仏聖たちの群れは、この頃になると都の中では、もはや誰であっても無視できない存在となっていた。千百七十五年、比叡山黒谷を降りて十一年、着実にその専修念仏の思想は多くの人を虜にして、信者を増やしていた。
後に天台座主となる顕真はこの頃、大原勝林院にいたが、ある時法然を招き、彼より浄土経典について講話を聞くと、彼の専修念仏思想に共鳴した。こうして、彼は、大原に、仏教各宗の碩学を招き、さらにこの点について議論を深めることを提唱したのである。
これが後に言われる大原談義の由縁である。
――千百八十六年のことであった。
大原勝林院におけるこの談義の場で、法然は、顕真の要請でその場に集まった聖道門諸宗の碩学たちを相手に、念仏に勝る極楽往生への道は無し、と様々な仏典を引用し理路整然と彼らを見事論破したのであった。
同行した住蓮は堂々と自らの説を述べるし師の姿にまことに感動した。見た目にはひ弱にさえ見える師が、説法の折にはまことに堂々として見えたのが驚きであったのを覚えている。
そしてさらには十二年後、千百九十八年、建久九年に選択本願念仏集を著すことで法然の考えは確固とした専修念仏の思想として定着するわけであるが……。
それはさておき……。
住蓮がこの大原談義に同行したのは、無論彼が、この時には法然の弟子であったからにほかならない。
平重衡公処刑の後、彼は都へ帰ると、安楽の勧めに従って再出家し、法然の下へすぐに弟子入りしたことは先に述べたとおりである。
こうして彼は、仏教への情熱を再び燃やすこととなった。
この時、名も時実から住蓮へと変えた。
「一度は死んだ私の魂を、阿弥陀様は平重衡様の死に様を私に見せることで、私を生き返らせてくださったのだから」
ことあるごとに住蓮は周囲の者へそう語った。
「これからは、私が、再び得た命の尽きるまで、絶望と不安、飢え、病、死への恐怖に苦しむ多くの人々に弥陀の本願、弥陀の救いの心を伝えていかなければならない」
そう彼は決意し、法然のもとで修行に励んだのである。
それまで住蓮は、阿弥陀信仰というものは、実際のところは、教養の無い庶民に分かりやすく教えんがために、仏教の正道から多少外れた、幾分か歪曲された信仰にしかすぎぬと理解していた。
だが法然の教えを間近に聞くようになってからは住蓮は驚きの毎日を迎えることとなった。なぜならその阿弥陀仏信仰を、ここ吉水の里で、法然は多くの仏典を引用しながら、すばらしく体系的に解説し、凡夫が往生に至る道はただ阿弥陀仏の本願に頼るしかない、ということを弟子たちに理路整然と説いて見せていたからである。
住蓮のように興福寺の伝統的かつ国家守護的仏教を学んだ僧にとっては、それは驚きそのものであった。法然によれば、詰まるところ、念仏以外の行はさして重要なものでないというのであるから……。
このような師のもとで、住蓮は毎日学問に励み、いつしか法然の門下生たちもその存在を決して無視できないほどになっていた。もともとが興福寺で修行を積んだ素養があったので修養の速度もずばぬけて早かったのである。
こうして頭角を現した彼は、安楽ともども鴨川の六条河原を基点に、大衆を教化するための辻説法を行う役目を自らかってでた。彼はそこでの生活が長かったし、河原者の知り合いも多かったからである。
そして弟子入りから一年……。
新進気鋭の住蓮は、大原談義のその場へ、安楽と共に同行を許されたというわけである。
大原三千院に着いた住蓮は、何よりもそこに集まった人の数に驚いた。その数、数百にも上ろうかという念仏聖の群れであった。
無論、彼らは談義に参加するのではない。――ただ、法然を支持するがゆえに、談義のほどを見守ろうと集まったのである。
いわば応援団、圧力団体のようなものである。
住蓮、安楽も、師が他宗の碩学を相手に、談義を重ねている間中、他の念仏聖たちと共に念仏を唱えていたのであった。