第一部第三十九章
この念仏の大合唱には、さしもの興福寺の僧兵達の「ええい、やめんか!」という脅しの声も完全にかき消されていた。
あまりの声の大きさに、僧兵達も、もはや念仏を止めさせようとするのは無理だと判断したようだ。このままでは暴動が起こる恐れもあるとも…。
「処刑を急げ!」
という、首領格の僧兵の号令が発せられるや、重衡を囲む僧兵たちの動きが活発になってきた。一人の僧兵がやおら書状を取り出して読み始めた。
「仏敵平重衡、先の南都焼き討ちにおける……」
大声で読み上げてはいるのだが、この肝心の罪状の申し渡しにしても、ますます大きくなる、観衆の「南無阿弥陀仏」の唱和にかき消されて、何を言っているのかはっきりとは聞こえない。
すると罪状を申し立てていた僧兵が、書状を読むのを一時中断した。彼は、苛立ちを抑えられないのか、抑えていた怒りをついに爆発させて群集に叫んだ。
「えーーい。騒がしい。静まれ、静まれ!騒がしいものは引き立てて同じ目に合わせるぞ!」
すさまじい怒声であった。
しかし、その怒声をもってすら、群集の念仏唱和を止めさせることは出来なかった。
罪状を読み上げていた僧兵も最後には諦めたようだ。彼は、苛立ちながらも、観衆を無視して、罪状を読み続けた。
住蓮は何か得体の知らない力に押されて自ら念仏を唱え始めたのではあったが、うねる様な「南無阿弥陀仏」の大唱和に圧倒され続けるうち、また、見事なまでな平重衡の潔しぶりを目の当たりにし、死に行く者から何か逆に力を与えられている自分に気がついて狼狽し始めた。――生まれて初めての経験であった。
この感覚はどうしたことか……。
この力は……。
住蓮が心に動揺を感じたその時であった。
「いよいよである。覚悟はよろしいか!」
僧兵の最後の宣告、死刑宣告の声であった。住蓮は思わず目を開けた。
そこには微動だにしない平重衡の姿があった。最後の宣告をされた彼は、念仏をしながらも、目を開けると、群集に向かって深々と一礼をした。
その時であった。一瞬、平重衡の視線が、住蓮を捉えた。
ーーいや、実際の所はどうだったかは分からない。
住蓮は、しかし、今でもそう信じている。彼の視線が自分を捕らえたのだと。そしてその瞬間、体に大きい衝撃が走るのを彼は感じた。稲妻にでも打たれたような、すさまじい、この世のものとは思えない、何か物凄い力が体に入ってくるのを感じた。
彼はそれに対して何ら抵抗出来なかった……。しかし決して苦痛を伴うようなものではなかった。それは何かしら、一方的に命の息吹を吹き込まれたような感覚だった。
「何だ、この感覚は?」
住蓮にとってはその時間がとても長く感じられた。
と、次の瞬間
「あとのことはよろしく頼む!」
と、はっきりした声が彼の耳に聞こえた。
その声に住蓮は我に返った。
見ると、三方に向かって、丁寧に一礼を終えた重衡が、最期、刑執行役の僧兵に向かって軽く頷いていた。そして目を閉じると、重衡は再び、一心に念仏を唱え出した。
「いよいよじゃ!」
誰かが叫んだ。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
観衆の大合唱と重衡の念仏とが渾然一体となって、その場を支配した。
――それからの時間は住蓮にはひどく長く感じられた。
「これがいつまでも続けばよいが……」
そう思ったその瞬間、刑執行の僧兵の刀が振り下ろされた。
「あっ!」
観衆のどよめきの声と共に、重衡の首は一瞬にして切って落とされた。
どさっと言う音と共に、彼の首は準備された穴の中に消えていった。
「……」
しばらく刑場は沈黙に支配された。
次には多くの人のすすり泣く声がし始めた。
しかしすすり泣きは、すぐに号泣と怒声へと変わった。
「この人でなしどもめ!」
という怒号と共に、刑場の柵の外から、誰かが石を投げ始めた。刑場は騒然とし始めた。
それに伴って、再び「南無阿弥陀仏」の大合唱が始まった。
苛立った僧兵が叫び声をあげる。
「えーい、止めんか、やめんか!」
しかしまるで効果は無かった。
投げ入れられる石は、その数を増した。僧兵たちは身の危険を感じたようだ。群集を制御するのをあきらめて、なすがままにさせた。
「くそ坊主ども、お前らこそ、地獄に落ちろ!」
「恥ずかしいと思え!」
という群集の怒声を浴びながらも、投げ入れられる石を巧みに避けて、彼らは重衡の首を持って引き上げの準備を始めた。
そんな喧騒の間中も「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」 という群集の念仏唱和はいつまでも止むことは無かった。
住蓮は事の成り行きをただ呆然と眺めていた。
やがて、ついには僧兵たちも引き上げ、刑場を取り巻いていたあれほど多くの群集も次第に三々五々、刑場から引き上げてしまった。
どれほど時間が経過したであろうか?
気がつくと、刑場には安楽、ゆき、住蓮の三人だけが残っていた…。