第一部第三十八章
刑場の中心へと今まさに引き立てられんとするその姿は、見る者にある種の感服を抱かせた。堂々として落ちついており、表情は限りなく柔和に見えた。
そして、縄打たれた両手ではあるが、それらをしっかりと重ね、口元では、一心に何かを呟いているのが見える。
「見よ、一心不乱に南無阿弥陀仏と唱えておられる。我らもますます力強く唱和しようぞ!」
安楽が大きい声で周囲の群集に言い放った。起き上がったゆきも、安楽に同調して呼びかけを始めた。
しかし、彼らの、その提案を待つまでも無く、殆どの群集がすでに、口々に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と熱心に唱和を始めていた。
「護送使源頼兼殿の御計らいで、重衡様、今朝、奥方の輔子様との最後の別れを果たしてこられたそうじゃ」
住蓮の傍らの男が連れの者たちに語りかけていた。
「あの白の浄衣、輔子様が準備しておられたものらしい。さも辛い別れであったに違いあるまい」
そんな話が聞こえたからではあるまいが、ゆきの目から涙が伝わり落ちるのが住蓮には見えた。そのゆきは、安楽と共に手を合わせて不断に念仏を唱えている。
そんな一心なゆきの姿を見ているうち、さらには周囲の念仏の大合唱を聞いているうちに、住蓮の心の中である変化が起こってきていた。
ゆきを突き飛ばした僧兵への反感からでもあったが、これほどまでに死を惜しまれる人物の首を刎ねようとしているこの現状が、何かしら許せない、と思い始めたのである。
平重衡その人は、表情を変えることも無く、一心不乱に念仏を唱えている。――住蓮の目に、その顔は涼しげにさえ見えた。そしてその態度には何か余裕すら感じられた。
さらに驚くことには……。
体全体からは、満ち溢れる生命力すら感じるのである。
周囲の僧兵たちもそれを感じているのだろう。彼に対する態度、言葉こそ威圧的であるが、重衡の近くにはあえて近寄らないようなそぶりを見せている。---それほどに、何かしら近寄りがたい神々しさをも感じさせていたのである。
「俺が今まで、鴨の河原で見てきた罪人とは全く違う――これが平重衡なる人物の徳のなせるわざでもあるのか?」
住蓮の心に、彼への同情の気持ちが芽生えてきた。いや、同情といってはおこがましいのかもしれない。一種の、畏敬の念とでも言うべきか、彼は、心のうちに押し寄せる複雑な思いに、今や圧倒されていた。
一方群集の念仏唱和はますます熱狂し、住蓮はその南無阿弥陀仏の大合唱にも圧倒されてしまっていた。
実際のところ、彼は、ここまで多くの念仏信者たちが集まるとは思っていなかった。そして、その彼らは、死を前にした平重衡をして、何としても往生たらしめよう、と無心に念仏を唱えているのである。自分を助けるためではない、他人を助けるために……。
そして、平重衡も、迫り来る死を前に、阿弥陀仏と一対一になり、心を集中させて念仏を唱えている。
「まことに、これぞ見事な決定往生の念仏!」
住蓮は感服するよりほかに無かった。
興福寺の修行時代学んだ念仏の意義はあまりに観念的であった…。
「念仏とは人を生かすものなのだ……。自分のみならず、他人をも、そんなことに今はじめて気づくとは!なんと自分は愚かであったろうか!」
彼は、さらに、思いを深めた。
「平重衡をして、これほどに見事な念仏信者とならしめた法然上人とは、一体どんな人物であろう」
彼は法然の徳の大きさにも敬服するばかりであった。
彼は、阿弥陀信仰など貧しい民衆に対する一種のごまかしだ、と理解していた自分の偏見が、いかに間違っていたか、を今や悟った。---彼は、恥ずかしい気持ちでいたたまれなくなった。
こと、ここにいたると、住蓮は、何か大きい未知の力に動かされている自分を感じた。
気がつくと周囲の人々にあわせて、懸命に口を動かして念仏を唱えている自分がいた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」