第一部第三十七章
「そして今日か……」
歩きながら安楽は、そのような今までのいきさつをあれこれ思い出していた。
すると横から
「重衡様が法然上人様のもとで戒をお受けになったのが昨日のことのようでございます。」
と、ゆきが語りかけてきた。ゆきもその頃のことを思い起こしていたのである。
安楽はその言葉に現実に戻されると、
「本当に、あのような立派な方を仏敵として処刑するなどとは、興福寺の荒法師たちも困ったものだ。仏の慈悲の心のかけらも持っては居らん。まこと嘆かわしいことよ……」
と答えた。すると、ゆきもそれに同意せんと話し出した。
「鎌倉へ囚われの身として連れられた折も、他の平家の武者が鎌倉殿に命乞いをした中、独り平重衡殿だけは命乞いをなさらず、一刻も早くわが首切られよ、と鎌倉殿に申し上げたとのこと。鎌倉殿もその態度に感服し、斬るには惜しい武士、と手厚くもてなして居られた、とお聞きしておりましたのに……」
言い終わると、ゆきは悲しげな表情を見せた。
「いや、興福寺からの圧力に鎌倉殿も抗し切れなかったのよ。平家を滅ぼした鎌倉殿をもってしても、南都の荒法師にはかなわぬということじゃ」
安楽も沈痛な面持ちでそう締めくくった。
住蓮はそんな彼らの会話を黙って聞いていたが、内心「この者たち、わしに罪人の首切りを見せて、一体どうするつもりか。まったく不可解、謎じゃ」と、相変わらず、安楽、ゆきらの真意を図りかねていた。
「まあ、いい。いずれにしろ、俺も盛高に首を刎ねられる運命だ。その運命に身を任せよう。わしにとって、今日の処刑は自分の最後をどう締めくくるか、いい勉強になろうというもの。しかと見届けて帰ろう !」
住蓮のそんな心を見透かしてか、ゆきが悲しそうな顔をして彼を見つめた。彼はそれにすぐ気がついたが、彼女の目が一瞬涙ぐんで見えたのを見て、すぐに顔を背けた。そして思った。
「涙、涙、−−ああ一体どれだけ多くの涙を流しあったことだろう。俺と時子。俺の涙は枯れ果てた。もう、流す涙の一滴もありはしない!」
すると、突然であった。そんな住蓮の感慨をかき消すように、安楽が大きい声をあげた。
「あそこに見える!」
安楽が指差す彼方、そう遠くないところに木津川が見渡せた。そしてその河原には、はっきりと処刑場と見て取れる場所があった。竹竿で円形に囲まれているので、はっきりそれと分かる。そしてその周囲にはすでに多くの人が集まっている。
「急ごう!」
安楽は二人を促した。
「法然上人様より、平重衡様が往生、念仏唱えつつ、しかと見届けて来い、との命を受けた。この安楽、重衡様のその時を、南無阿弥陀仏、一心に唱えながら見届けねばならない」
処刑場へはすぐに辿り着いた。
興福寺の僧兵が、柵の周りを何重にも厳重に番をしている。多くの人を掻き分け、掻き分け、3人は柵で囲われた最前列へ進んだ。
刑場は柵でしっかりと囲われていた。多くの僧兵が中でも忙しく立ち回っている。
それは、この時代頻繁に行われた、ある意味見慣れた処刑の光景ではあった。が、一方でやはり異様な光景と言えた。
なぜなら……。
これから処刑が行われる。
そして……。
それを執行するのが、少なくとも、見た目には僧形をした者たちである。
――殺すなかれ、とはそもそも誰の教えなのか?
――かりそめにも、僧形をした者が、多くの人の前で、平然と人を殺すなどということが許されるのか?
群集の一部の者は単に興味本位で来ていた者たちであったが、そんな彼らですら、こうした矛盾を感じて、僧兵達に対する反感を募らせていた。
ましてや今日ここに集った多くの群集は念仏信者であった。彼らは、今や念仏者となった平重衡公の往生を、念仏唱和しつつ見送ろうと、誰に指示されるわけでもなくやってきたのである。彼らは念仏信仰を良しとしない興福寺の荒くれ僧兵に対する反感の情をあからさまにしていた。
僧兵らもそれを知ってであろう。一心に念仏を唱えているこれらの念仏者たちに対して、彼らは威嚇を続けていた。
「ええい、騒がしいぞ!」
とか
「その耳障りな念仏、止めんと貴様らも、この仏敵と同じ運命であるぞ!」
とか、脅しの文句を並べて、彼らの念仏唱和を止めさせようとしていた。
安楽は、その光景を見て、怒りの念を感じずにはいられなかった。
「何とも、皆の心からの念仏を、止めさせようとは、あの者達こそ、仏敵ではないか」
と、呟いた。ゆきも同意するように大きく頷いた。
それを聞いていた住蓮は、この時、しかし、違う次元の感想を抱いていた。
即ち……。
鴨の川原で、多くの犯罪人が処刑されていくのを、日常茶飯的に見ていた彼ではあった。しかしそんな彼の目にも、僧形をした者が、処刑場の中で忙しく立ち回っている、今目の前のこの光景には、何とも言えない違和感を感じたのである。
「俺が、もし奈良にとどまって、父の仕事を継いでいたら、ひょっとして、今日、この柵の中にいたかもしれない」
そう思うと背筋がぞっとした。彼の父親、また祖父は僧兵であった。それも、興福寺では知る人ぞ知る、相当の荒くれで、平家の武者もその名前を恐れたという。彼自身も、そんな血筋を受け継いでいた。---体格もがっしりとしていたし、実際喧嘩も強かった。奈良にとどまっていれば、当然、彼が、父の仕事を継いで僧兵になっていた可能性もあったわけである。
そんなことを考えると、何故か一瞬身震いがしたのである。
妙な感覚であった。
「俺も一歩間違えば、人殺しになっていたのだろうか」
実は、小さいころ、彼は、父親の勇猛果敢ぶりやその武勇伝を耳にすると、子供心に、何とはなしに嬉しくて、友達に自慢したりしたものであった。
いやそれどころか……。
父のように強い僧兵、荒法師になりたい、と無邪気な心で思ったりしたこともあったのだ。
だとすれば……。
「父が、自分に、学問を修めさせようとしたのは、息子を自慢したい虚栄心からではなくて、ひょっとすると、息子を、このような血なまぐさい修羅場から遠ざけるためのものであったかもしれない」
彼は病床の父を置いて、奈良を離れた時のことを思い出した。意識がはっきりしない父であったが、自分に何か言いたそうで、とても寂しい顔をしていたのが忘れられない……。
あれは、何を語ろうとしていたのであろう。
「父はもう、生きてはいまい」
なぜか、あれほど敵対し、憎みもしていた父に対して、今は別の感情が頭をもたげてきた。
「もし、まだ生きているのであれば、俺は父に謝罪をすべきなのかもしれない。――父は俺を、こんな修羅場から遠ざけんと、俺を救ってくれたのかもしれない」
彼は、今となってはもう、そんな父への謝罪も叶うまい、と思うと悲しい気持ちに満たされ、思わず涙ぐんでしまった。
そんな三人三様の思いを無視するかのように、刑場の中の僧兵たちは、着々と処刑の準備を進めていた。
刑場の中心に穴が掘られているところであった。――勿論、切られた首を落とすところである。その傍らに筵が敷かれている。――ここに今日の主人公が座らされるのだ。
と、三人の傍らで、やはり、その様子を眺めていた見物人が、突然住蓮に話しかけてきた。
「お前さん!わしも、賀茂の河原で多くの罪人の処刑を見てきたが、皆、最期は同じじゃ。助けてくれ、と大声でわめいてみたり、泣き叫んだり、がたがたふるえて動けなかったり。何かわけのわからぬことを口走ったり、気が狂うたふりをしてみたりな……。今日の者もいくら立派な武者であったかしれんが、結局はご慈悲をお願いしますと泣き叫ぶことであろうよ!」
住蓮ははっと我に返った。
「そうだ、いらぬ感傷は無用。――早く終わってくれぬか、そうすれば、俺は自由の身になれる」
と、また、そんな思いに駆られた彼は、口を開くと傍らの安楽に、投げやりな口調で言
「何をみせるつもりでここまで引っ張ってきたか知らぬが、もうこんな光景は見飽きておる。どんな偉い人物かは知らんが、結局最後は命乞いで終わるのだ。そんな罪人の浅ましい姿など見とうもないわ!」
しかし、彼のこの言葉も聴いているのか、聴こえていないのか、安楽もゆきも一心不乱に念仏を唱えているばかりであった。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
気がつくと周囲はすでに念仏の大合唱が始まっていた。
すると、一人の僧兵が柵の向こうから三人の方へ向かって歩いてきた。
「ええい、その忌まわしい念仏、止めんか!」
と、突然叫んだかと思うと、持っている薙刀の柄を、柵の間の隙間から差し込み、それでもってゆきを突き飛ばした。
「あっ!」
と言う声とともに、ゆきはその場に倒された。
「何をする!」
思わず、住蓮は叫んで、その僧兵を睨み付けた。
睨み付けられた僧兵は、逆に住蓮をこの世のものとは思えぬばかりの恐ろしい形相で睨み返した。
「やかましいわ!仏敵のために念仏唱える者、中にしょっ引いて、共に首刎ねるぞ!」
彼はこう叫ぶとその場を離れた。
「ゆきさん、大丈夫か?」
と、住蓮がゆきに声をかけたその時であった。
周囲が大きくざわめいた。いや、どよめいたと言うべきか。
「重衡様じゃ!」
群集のどよめきの中、刑場に一人の男が縄をかけられたままの姿で連れてこられた。
白い浄衣を身に纏い、手には数珠を持って、刑場の中心へと進んでいく。僧兵に導かれているが、足取りはしっかりとして、死を前にした人間の弱弱しさなど微塵も感じない。
――そう、この方こそ、従三位平重衡公その人であった。




