第一部第三十六章
「まったく師のお考えになられることは時に途方も無く、我らの知恵が及ばぬこと再々ではある……」
信空は当時のことを思い出しながら、あらためてこの若者を念仏の道に導いた法然の力を評価して止まないのでもあった。
「安楽が師の所に相談に行ったわけであるな……」
「はい、左様に聞いております……」
住蓮は答えた。
「私が、安楽と次郎の会話を盗み聞きして興奮した話、先ほどいたしましたが、それから暫くしてからと聞いております。---安楽は私の心が時子のことをめぐって、どうしようもなく深く傷ついてしまっていることを悟ると、そんな私を一体どうしたものか、師に相談しようと思い立ったのでした……」
住蓮の話は続いた。
「安楽は早速、師の元へ相談に赴いたようです。そして師からこう提案されたと。『安楽房、ほかでもない。そちが先日、相談にきた例の者の件であるが、その者に、平重衡公最期のお見送りをさせてみよ、そちらと共にな』と」
信空はここで住蓮の話を遮った。そして言った。
「住蓮、その時は私も同席しておった。覚えておる。---あの時の師の説教を。さすが聡明な師のお考えであると、皆、
感嘆したこと、今でも記憶に鮮やかじゃ」
信空は記憶を丁寧にたどりながら、話しを続けた。
「安楽は、自ら命を絶とうと考えているものに、そのような、人の最期を見届けさせるとは、逆効果ではありませぬか?と、さすがに師に疑問を呈した。それに対する師のお答えがこうじゃ。
以下は信空の記憶するところである。
法然は安楽にこう説教したと…。
しばらく法然自身にここでは語ってもらおうとしよう。
曰く…。
「御仏の救済とは何か……。その時実とか申す者、愛する人のため、その答えを真剣に求め続けたということであろう。真っ直ぐに、な。であればこそ、答えをなかなか見出せぬ自分に苛立ち、自らを問い詰め、追い詰め、今のような状況になった……。五濁溢れる今の世に、これほどまでに正直に生きようとする者がおるとは!素晴らしいことでないか。それほどに物事に真摯に取り組めるものであれば、あの平重衡公様が最期、見届ければ、必ずや感じることがあろうというもの。仏の救いとは何か?時子という女子は救われたのか?自分が彼女について祈ったすべてのことは無駄だったのか?おのれはこれからどう生きればいいのか?必ずやそれら答えを自ら探り出すであろうぞ。必ずや本来の自分を取り戻すであろうぞ。---平重衡公は死を覚悟されて後、弥陀に救いを求め私の元を訪ねられた。私は彼に戒を授け、弥陀の教えを説いた……。あの方は、弥陀の本願をまことによく理解され、そして熱心な念仏信者となられた。死を前にしても些かも動じることなく、今は静かに自らの運命を迎えられようとしている。それは何故か。弥陀の本願に預かる限り、必ず往生可能の理を悟られたからじゃ……。のう、安楽。往生とは何か?それは浄土へ往き、そして生きること、そして、輪廻を断ち切り、仏となることじゃ。弥陀の本願を信じ、ただひたすら念仏三昧する者にとっては、たとえこの世で死を迎えることがあっても、それは此岸を離れて、彼岸へといたるだけのこと。死んでもまた生きるということ……。死を乗り越えるということじゃ。死を恐れず、それを見事に乗り越えようとされている平重衡公の、その最期を見届けるもの、必ずやそれを得心するに違いない。かの時実という者……。生きる希望を失っているという、その者も必ず得心するであろう。今のままで死んでも、輪廻からは逃げ出せぬ、苦しみは果てしなく続く。そのこと、必ず得心いたすであろう。さらに聞けば、その者、興福寺の修行僧であったとのこと……。すれば、その苦しみから逃れるためには、死を選ぶのでなく、別の方法があるのだ、いや探すべきなのだということ必ずや見出すであろう。無論、弥陀の救いの手に頼ることが最も望ましいことではあろうが……」
と。
大説教であった。
「私もそう聞いております。さすが叡山第一の智者と言われただけのお方ではあると、一同の者全て感服したと」
住蓮も当時のことを回想しつつ言った。
「ゆきさんは反対したそうです。とんでもないことだと…。それも無理はありません。当時の私は。もうすっかり体の傷こそよくなっていましたが、依然、心の傷は全く癒えてはおりませんでした。まことに精神的に不安定な状態でした」
つまり以下のような状態である……。
即ち…。
ゆきらの念仏唱和を柔和な表情で聞いていることがあるかと思うと、
突然『俺はやはり、死ぬしかない!』と叫びだしたり、
慰めるゆきと、親しそうに話をしていたかと思うと、
誰とも交わらず一人寂しく笛を吹き続けている……。
というような日々が続いていたのである。
「そんな方に、人の処刑の光景を見せれば、自分も死のうとますます思うだけではありませぬか!と強くゆきさんは反対したそうです」
住蓮は続けた。
「心配するゆきさんに、安楽は師の言葉を伝えつつ説得したそうです。『今や弥陀の本願を信じ、善心に満ちた重衡様は、必ずや大往生を遂げられるであろう。それをあの者に見せることで、必ずや心に留まるものがあろう!』と師がおっしゃるのだと」
---ここからは暫し安楽とゆきの二人に語ってもらおう。
即ち…。
安楽の説得は続く。
「あの者の心に何か良い変化が起こるかも知れぬ。あの者は生きるにあまりに誠実、自分を責めすぎておる。そのような苦悩、苦痛、悲しみ、悲嘆から、必ずや阿弥陀様は救ってくださる」
ゆきは考えた。「言われてみればその通りである。反論の余地はない。何より、このままでも今にも首を吊って死ぬかもしれない」
黙って聞いているゆきに安楽はさらに説得を続けた。
「そのこと、あの者に何とか悟って欲しいのだ。彼とて仏法をかっては学んだ者だ、必ず再び生きることを考えてくれると信じておる」
安楽の説得にゆきも最期は全面的に納得した。
このままでは、河原へ帰しても、また自ら命を絶つか、そうでなくても、また酒に溺れるか、のどちらかであろう
ゆき自身も、実際、彼のことを心配するあまり、食事ものどを通らない日々が続いていた。
---ほかにいい解決法を思いつくわけでもない。
「わかりました」
ゆきの返事に安楽は安堵の吐息をついた。
「そうか、ゆきさんの協力がないとな、あの者なかなか”うん”とは応じるまい。それを案じておったからのう……。良かった。分かってくれて……。では後のことはわしに任せて……」
と、安楽がそこまで言うと、ゆきが言葉を遮った。
「ひとつ、条件がございます」
「条件?」
不審がる安楽に、ゆきはきっぱりとこう言った。
「私もお供します」
「ゆきさんも……」
安楽は、彼のことをここまで心配しているのか、とゆきの心情を察すると、否、とはとても言えなかった。
「よろしい、では三人で参るとしよう」
「はい、平重衡様、浄土へ往生していただけるよう、我らも念仏唱和しつつ、お見送りいたしましょう」
「では、早速時実に伝えに行くとするか」
「はいお供します」
安楽はゆきの説得に成功した安堵感を覚えつつ、はるか南の方を見やった。そして思った。
「それにしても南都の横暴振り、許すまじ!」
彼は平重衡公の置かれている理不尽な状況にも思いを馳せつつ、ゆきと共に時実のいる小屋へ向かった。