第一部第三十五章
話を少し前に戻そう…。
時実の怪我が順調に回復しつつあった、そんなある日のことである。
場所はもちろん住蓮が療養していた救護所…。
一刻も早くその救護所を離れようと、日々不遜な態度を取り続ける住蓮であったが、そんな彼の元に安楽が突然現れた。そしてこう言うのであった。
「時実殿、このたびの平重衡公の処刑の儀であるが、聞いておろう。実はこの安楽、法然様より、その立会いを命じられた。ついては、我らに同行してはくれんか……」
突然の提案に、住蓮は安楽の真意を測りかねて、戸惑った。
「自分に、そんな処刑の現場を見せて、一体どうしようというつもりか?」不審な思いでそのまま黙っていると、安楽が話しを続けた。
「処刑は木津川で執り行われるとの由、一日、付き合ってさえくれればよい。それさえしてくれれば、あとはご自身の思うままになされよ……。そちがどこへ行こうが、何をしようが誰も止めはせんから」
住蓮は、最初この提案を断った。
平重衡ーー彼も名前と評判だけは聞いていた。
平清盛の五男である。――文武両道に秀で、一の谷合戦までは戦において負け知らず。武者としての評価もあることながら、その人望ぶりは、都人からも、奢る平家の中にあって彼に対してだけは悪口を言う者は少なかった。
心ある都人の間では、彼の指図によるとされている南都の焼き討ちですら、実は、南都の荒くれ法師たちが自らの負け戦を知って、自暴自棄になって自ら火を放ったのが事の真相だ、という噂が専らであった。
そんな彼は、一の谷の合戦で源氏側に囚われの身となった。都へ護送されると、彼は自らの死を覚悟し、鎌倉へ送られる前に、法然上人に、受戒、教導を求めたのであった。
そして彼は、結局法然の勧めを受け入れて熱心な念仏信者になった……。
鎌倉へ送られて後も、その堂々たる落ち着きはらった態度物腰に、源頼朝ですら敬服してしまったというのは有名な話である。頼朝は彼を丁重に扱った。実際その話は都にまで噂が流れてきたし、彼にならって多くの鎌倉武士が念仏に帰依したとも聞こえてきた。
「まこと、かくも立派はお方を……」安楽も処刑の消息を聞くと、興福寺の僧に対する憤りが収まらなかった。
住蓮は、しかし覚めた目で、一連の話を疑問を持ってとらえていた。そもそも法然からの「受戒」があったいうことからして彼は不審でならなかった。――大仏殿を焼いた仏敵に授戒とはどういうことか。悔い改めてすむ問題ではなかろう。授戒とはそんな安易なものか。念仏信仰とは、どんな大罪人であっても、一言「阿弥陀仏」と唱えれば受戒を授けて貰える、そんな単純な信仰であるということか?
住蓮が知る限り、興福寺で、かって罪人への授戒が行われたなどと言う話は聞いたこともない。
「しかし…」と彼は考えた。そして思い直した。
「そんな大罪人の断末魔を見るのも、今の俺にはふさわしいことなのかもしれん!」
彼は決心した。
「ひとつ、貴殿らと共にお伺い致すとしよう」
彼は安楽にそう告げた。
「おお、そうか……」
と、表情を和らげた安楽に、彼はさらにこう問うた。
「ところで、そちらの師であるという法然上人は、相手がたとえ極悪の罪人であったとしても、戒を授けるなどということを普通にやっておるのか?」
実は、彼の頭には、所詮、法然といえど、結局金が目当てではないか、という疑問があったのである。
実際、興福寺ではそういうことがまかり通っていた。貴族たちへの授戒は報酬が多い、というのがもっぱらの噂であったのである。
「金さえもらえれば、どんな罪人でも戒を授けるというのか?」
腐敗した興福寺の一部高僧たちの振る舞いを見てきた彼にとって、法然の、重衡への授戒も同じように感じられたのだ。
「まあ、時実様、それはあんまりな言い方でございます」
時実のこの皮肉に満ちた物言いに、同席していたゆきが反論した。
「重衡様は、自らの大罪を深く悔やまれ、鎌倉へ護送される前に、法然様にお願いされたのでございます。――かかる悪人の助かりぬべき方法候わば示し給え、と」
「左様……」
と、安楽がこれに続いた。
「罪深ければと卑下し給うべからず。十悪五逆の者も廻心すれば往生を遂ぐ……、こう法然上人が言われたのは尤もではないか。阿弥陀様は万人を平等に救われることを誓われたのだ」
二人から理路整然と反撃を受けた住蓮は「うう……」とうめきはしたが、黙らざるを得なかった。
実際は、安楽には一言、言い返したやりたい気持ちもあった。しかし、ゆきらの全心全霊を込めた、献身的な看病が、まさに万人を救おうという阿弥陀信仰に基づいていることを自らの身を持って知ってしまった以上、ゆきを目の前にして、これ以上の反論は適うはずもなかった。
安楽はそんな彼の心を見透かしてか、こう続けた。
「上人様はいつもこう仰っておられる。我、黒谷より降り、ここ吉水の地にて念仏三昧の日を送るは、これただ、凡夫の往生を占めさんがためなり、とな」
そしてこう締めくくった。
「また、こうも仰っておられる。――善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、とな。阿弥陀様の前では誰でもが平等なのだ。上人様が重衡様に戒をお授けになったのはかくのごとくの理由からだ」
住蓮は黙ったままでいた。そんな彼が何に思いを馳せているのかゆきにはすぐにわかった。そこで彼女は、優しく、彼の心を解きほぐそうと、ゆっくりとこう語りかけた。
「時実様、心中お察しします。本当に、……本当に、時子様のことは残念です。しかし、時子様を思う時実様のお気持ち、まことに阿弥陀様にも届いておりましょう。そのお気持ちこそが、時子様が往生なさったことの何よりの証でございます。今は、時子様、何の差別もなかろう極楽の蓮の上で、病に苦しむこともなく楽しい日々を送られていることは間違いありませぬ」
彼の目に涙があふれた。
「時子は本当に極楽往生叶ったのであろうか?そんな夢のような話を信じろと言うのか!---いや信じられるものか!」
そう否定しながらも、しかし、ゆきが語るとなぜか本当のように信じられて、心が慰められるのも事実であった。
「ゆきさん。ありがとう。今は、とりあえず、その心遣い、感謝する……」
彼はそれだけ言うと、沈黙した。---安楽の楽天的な態度は鼻につくこともあるが、ゆきの心遣いは本当に心に染みたのである。
そして思った。
「まあ、あとの人生はやり直せるものかどうか、いややり直せるはずはない。また、鴨の河原に逆戻りだ。そして、今度こそは、あの鳥辺野の山で烏のえさとなってみせよう!あるいは盛高の刀の餌食となればよかろう!」
そう自分を納得させると、改めてこう二人に告げた。
「ともかくもその申し出受けるとしよう。木津川であるな?――奈良へ向かう途上の川か、ああ、懐かしい。あの道を再び歩くとは!また、これも皮肉なこと……。何かの因縁か……」
南都北嶺の目は厳しい。重衡殿の最後、念仏にてお送り申せ、の命は既に法然より安楽にひそかに伝えられていた。そんな折、苦悩に満ちた、かっての青年修行僧の話を安楽から聞かされた法然は、この処刑の一部始終を彼に見届けさせてはいかが?と、安楽に提案したのであった。
「それ見届ければ、その若者の心に何かの変化が起こるやもしれん」
法然の提案を、安楽は、さすが上人様のお考えは凡人とは違う、と感心しつつ、さっそく住蓮に伝えたというわけであった。
そして、かくして、住蓮も彼らの勧めに従うことになったというわけである。