第一部第三十三章
そんなある日のことである。救護所にいる安楽のもとを次郎が訪ねた。安楽に折り入って話があると言う。
「どうした、次郎、あらたまって。何でも話してみい」
安楽に促され次郎は語りだした。
「安楽様、我らが鳥辺野より助け出したあの者についてですが、いやな話を耳にしたのでございます」
「ほー、それは何か?」
次郎は少し躊躇した。すぐ隣の小屋では当人が休んでいる。普通に話していても耳を澄ませば聞こえるかもしれない。聞こえてはまずいと言わんばかりに、ぐっと声を落とすと、安楽の耳元に近寄り、
「さて、あの者ですが、人を殺したために身を隠しているのだとの噂が、河原者たちの間で囁かれておるのです」
「何と!」
安楽は絶句したが、しかし「人を殺めた」と聞いても、いつもの飄々とした表情は変わることは無かった。
「それで、そちはどうしようと考えておる?」
安楽に逆にそう尋ねられた次郎は、 困った表情で、答えた。
「いや、安楽様、それで、どうしたらいいものか、安楽様に尋ねに来たのでございますよ」
するといつもの飄々とした表情から一変、笑顔を作ると、次には「ははは!」と、突然、安楽は笑い出した。
次郎は憮然とした表情で、言った。
「安楽様、笑い事ではありませぬ!」
そう安楽に抗議したが、安楽の笑いは止まらなかった。
ひとしきり笑い終わると、安楽は真面目な顔つきで次郎に語った。
「いや、許せ。しかし、次郎、考えてもみよ」
飄々とした言い回しから、今度は一転して真剣な口調に、次郎も「はい……」と神妙に答えると、黙って安楽の話に耳を傾けた。
「河原者たちのなかに、そもそも何か暗い過去を持たぬものが一体全体一人でもおるか?」
痛いところを突かれた次郎であった。
「そう言われてしまいますと……」
と、言うと黙ってしまった。
そんな次郎を尻目に、安楽は続けた。
「よいか、次郎、たとえ、過去に人を殺めた、大罪を犯した者であったとしても、救いの手を差し伸べてくださるのが阿弥陀様なのだ。そうではなかったか、いつもわしがそちらに教えているであろう……」
「確かに……」
次郎は理路整然と、こう言われてしまうと、もうそれ以上反論できず黙ってるしかなかった。
「経典にこうある……。『仏、弥勒に告げたもう、この世界において六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。十一の菩薩、すでにかって、無数の諸仏を供養せること、弥勒に次ぐ者なり。もろもろの小行の菩薩、および少功徳を修習する者、称計すべからず。みな、まさに往生すべし』とな……」
「はあ、聞いたことがありますような……」
次郎が当惑しているので、安楽は言葉を休めた。「いかん、いかん、分かりやすい言葉で語らねばならないと!」と、自らに言い聞かせると、今度は分かりやすいようにと、言葉を選んで話を続けた。
「その意味についても何度も教えたはずじゃ。忘れてしまったか?その意味するところは、阿弥陀様の無量のありがたい功徳におすがりすれば、たとえ悪人と呼ばれる者でも、わずかの善根を植えさえすれば極楽国に往生させていただけるというものじゃ」
と、ここまで言うと、安楽は次郎を見ながら、にこっと微笑んだ。
「この者の過去の詮索は重要でない。大切なのは彼がどう生きていくか、どう我らが支えられるかじゃ」
そう言われた次郎が、「確かにわれらそのように安楽様から教えられておりますが……」と、しぶしぶながらも、安楽に返答するのと殆ど同時であった。
ががっ、という音と共に、二人のいる小屋の入り口の戸板が突然開かれた。
二人が驚いてそちらを見ると、そこに件の人物、住蓮、時実が立ちすくんでいる……。
「まずい!話を聞かれてしまったか?」
気まずい空気が場を支配した。――沈黙の時間がしばらく続いた。
と、その沈黙を破って、やおら住蓮は大きい声で笑い出した。
「あははははは……」
突然のことと、事態の思わぬ展開に、安楽も次郎も、なすすべがなく、ただ黙って事の成り行きを見守るしかなかった。
ひとしきり笑い終わると、住蓮が興奮気味に話し出した。
「今の話、聞かせていただいた!」
安楽は平静を装って「そうか……」と返事を返すと、続けてこう言って、時実を安心させようとした。
「心配はいらぬ。われらが仕事は救護をすることのみ。おぬしの過去のことをいちいち詮索はせぬ」
しかし住蓮の興奮は収まらず、声をさらに荒げると安楽に食って掛かった。
「気に入らぬ、おぬしの言い分!」
安楽は何のことか分からず、黙っているしかなかった。
そんな安楽の反応には無頓着に、住蓮はますます大きい声で叫びだした。
「気に入らぬわ!阿弥陀様がすべての人を救ってくれるとかなんとか……。それなら何ゆえわしは救われんかったのじゃ。毎日願掛けを怠らず、祈りを欠かさず、仏に祈ったわしを、仏は見放したではないか!すべてのものを失ったではないか!このわしの今の有様、これが仏の仕打ちじゃ、仏の前にすべてを投げ打った結末じゃ!」
と、そこまで一気に言い尽くすと、彼は「わっ」という声をあげて、そこに座り込んでしまうと、大粒の涙を流して泣き始めた。
この住蓮の有様には、さしもの安楽らも、どうしたものか対処の仕方がわからずおろおろするばかりであった。
と、そこへゆきが現れた。
「まあ、びっくりしました。床に居られないので」
ゆきは泣いている彼を見つけると、言った。
「さあ、まだ無理が出来る体ではありませぬ。床に入って休みましょう」
そうして住蓮を促した。促されると、彼は素直にそれに従いゆきと共に隣の小屋へ赴いた。
二人が去ると、部屋に残された安楽と次郎は互いの顔を見つめると、ほっと安堵のため息をどちらからということなく漏らした。
「いやはや驚きました。安楽様……」
次郎はこう呟くと、
「それにしても、毎日仏に願掛けをしていた、とはどういうことでしょうか?」
と安楽に問いかけた。しかし、安楽もそれは分からなかった。
「さあ、わしにも何のことやら、さっぱり合点がいかぬ……」
と、思案顔で答えるしかなかった。
すると、突然後ろから声がした。
「それには私がお答えしましょう」
背後からの声に、安楽、次郎の二人は、振り返ると、そこにはゆきが佇んでいた。今、住蓮を隣の小屋へ連れて行ったあと、すぐにこちらへ戻ってきたのである。
「ゆきさん」と言うと、安楽はさらに続けて「ゆきさんは、あの者から、何か事の仔細を聞いておるのか?」と、ゆきに尋ねた。
「はい」
そう答えたゆきの目にも涙が溢れてきた。
「それはそれはとても悲しい出来事でございます……」
ゆきはそう言って説明を始めた。
「あの方の苦悩はまこと、阿弥陀様のお力を持ってしても取り除くことはかなわぬのではないか、ふと、そう考えてしまうほど、それはそれは辛い過去でございます……」
安楽も住蓮の過去のことについてはこれまで詳しくは聞いていなかったので、「左様か。それはぜひ聞かせてほしものじゃ」と、ゆきを促した。安楽はゆきに座るように勧めた。
ゆきは安楽、次郎と合い向かいに座ると、重い口を開き始めた。
「最初は、固く心を閉ざして何も話しては下さりませんでした……」
ゆきは住蓮をここへ運び入れ、看病を始めた頃のことを思い出しながら語り始めた。
「しかし、少しずつ私への信頼感が出てきたのか、次第にいろんなことを話してくれるようになりました」
こうして、ゆきは彼から聞いたことをすべて安楽、次郎に語った…。
まずは、奈良での幼少時代、興福寺での修行、還俗後、近江の国、馬渕の里での充実した一時、そして、一転、暗く重苦しい日々の始まり、恋人である時子の癩発病、自殺、絶望、そして……。
続いては、時子の兄、盛高の復讐の始まり。逃亡、潜伏、さらなる絶望、そして……。
「最後に、あの方は、自ら命を絶とうと、鳥辺野へ赴いたのでございます」
これら全てを語り終えると、ゆきは堰きとめていた感情の爆発に、再び涙を流すと、ただただ泣くばかりであった。
あまりの悲劇的な話に、安楽、次郎も言葉を失い、ただただ深い悲しみに包まれるばかりであった。
安楽は、しかし、暫しの沈黙の後、すくっと立ち上がると、泣き続けるゆきの肩にそっと手を置き、慰めるように、優しい口調でこう告げた。
「ゆきさん、大丈夫、大丈夫じゃ。阿弥陀様の救いの手が届かぬところはない。阿弥陀様の力は無限無量……。わしはあの者にも必ず阿弥陀様の救いの手が差し伸べられると信じておる。――だから、今もう少し、あの者の世話を頼む」
「はい……」
安楽の力強い声に勇気付けられて、ゆきも漸く泣くのをやめた。
安楽は、ゆきが落ち着きを取り戻したのを見て、安心すると、「大丈夫じゃ、必ず阿弥陀様が救ってくださる」と再度、彼女を励した。そして、言った。
「あの者、必ず救われるように、我等一身に阿弥陀様にお願いすることじゃ……。念仏三昧、念仏三昧……。次郎、ゆきさんのこと、あとは頼む」
そう言うと、安楽は立ち上がり、ゆきと次郎に背を向けた。
「急にどこへ行かれるので?」
と、怪訝そうに次郎は尋ねた。
「うむ、わしは法然様の下を訪れ、あの者のこと、一度相談してみようかと思う。何かよい知恵を授けてくださるかもしれん」
と、安楽は答えると、戸口へ進んだ。
「わかりました……。が、法然様のもとへは、どうして、こうもややこしい人間ばかりが集まるのでしょう。あの怪しげな陰陽師の阿波之介といい、はたまた大泥棒の河内の耳四郎といい……。また、それを嫌がるどころか、にこにこと笑みを絶やさず、一人一人相手にされる法然様もまこと、人が良すぎる、というか……」
と、愚痴をこぼす次郎に、安楽は、再び顔を向けると、言った。
「それが、法然様のお人柄じゃ。次郎のおりもそうであったろう!」---こう微笑みながら次郎を諭した。
「まったくその通りでございますが……」
次郎はばつが悪そうに、頭を掻きながら返答した。
安楽は重ねて言った。
「では、ゆきさん、あの者、かなり興奮しておったことでもあるし……。暫く目を離さぬようにな!」
こうして次郎とゆきを後にして、彼は小屋を出た。
小屋を出ると、多くの呻き声が周辺から聞こえてき――いつものことではあった。
安楽の目の前を、また一人、病人の者が今まさに運び込まれんとしていた。――これもまた、いつものことである。
それを助けるものは、しかし皆明るく振舞っている。---これもまたいつものことである……。
「しかし!」
安楽は心の昂ぶりを覚えると、そこに立ちすくんでしまった。
「一体いつまで、この『いつものこと』が続くのか、いつになったら終わるのか!――この民の苦痛に満ちた叫び、これは一体いつになったら無くなるのか!――われらの念仏唱和、まだまだ足りぬということか!」
彼は、いつもの見慣れた光景に、今日は別の感慨を覚えた。心の昂ぶりはしばらく続いた。---気持ちを落ち着かせようと、安楽は目を瞑ったが、その昂ぶりはなかなか止まなかった。
「今は……。とりあえずは、あの者の心の苦悩を何とかせねば」
安楽は、そう自分に言い聞かすと、ようやく気持ちを落ち着かせた。そして、さらに一度大きく息をつくと、法然上人のいる庵へと向かうべく、その歩を早めた。