第一部第三十二章
安楽の持ち込む薬と、ゆきの手厚い看病も手伝って、住蓮の怪我は順調に回復していった。しかし、そんな見た目の肉体的回復はともかく、彼の病んだ心の回復はとうていかなわなかった。彼は、固く心を閉ざしたままだった。無理もない。自分の心が癒されることなど死ぬまで叶うまい、と彼自身が信じて疑わなかったらである。
しかし……。
ゆきの献身的な看病はそんな頑なな彼の心を少しずつほぐしていった。
「ゆきさん」
ある時、住蓮は思い切って尋ねてみた。
ゆきが時折見せる、何とももの悲しげな表情を彼は見逃していなかった。ゆきの素朴、かつ無邪気でいて、しかも誠実な態度の裏に、実は自分と同様、悲しい過去が秘められているということを直感で感じて取っていたのである。
「こんなことを聞いてはいけないのかもしれないが……。ゆきさんにも、何か辛い思い出があるのであろうな」
突然の質問に驚いた表情を見せたゆきだが、彼女も、このことはいずれ質問されるだろうとは予測していたのであろう。彼女は答えて言った。
「いつかは、聞かれると思っていました。これも何かの縁です。お話するとしましょう」
語り始めたゆきの話は、やはり悲惨なものであった。
彼女の語るところによれば……。
彼女はもともと白拍子であった。後白河法皇のもとで舞ったこともあるという。――一時は華やかな時が続いた。
評判が広がり、平家の屋敷に呼ばれるようになった。彼女はたいへん重宝がられた。というのも彼女の歌と舞いの見事さは群を抜いていたからである。彼女はどこの屋敷からも引っ張りだこであった。
そしてある時、平家の一屋敷に呼ばれると、そこである武者に見初められ、側室に迎えられたのであったと。
「あの頃は幸せでございました」
順風満帆の日々……。
しかしそれは長くは続かなかった。
「その方が源氏との戦で命を落とされてしまわれたのです」
恋する人を失った悲しい毎日……。正室からは家を出るように命じられた。
さらに追い討ちをかけることが始まった。源氏が平氏を都から駆逐すると、平家に与した者たちの捕縛が始まったのである。
「それはついには私の身にも……」
ゆきはそこで言葉を止めたが、後は想像は容易についた。
当時は、平氏に組したものは容赦なく、責任を追及された。元の白拍子に身を転じることも叶わず、平氏の没落後は身を隠すため、場末の遊女に身を落とすしかなかった。
鴨の河原で身を売る毎日……。
「それを救って下さったのが安楽様でございます」
「あいつが……」
住蓮はすぐには合点がいかなかった。安楽は確かに唱こそ上手ではあり、説法もなかなかのものであったかもしれない。さらには、体格からは想像できぬ芯の強さもある。
それでも……。
彼の目には、一方で、暇さえあれば今様を吟じて、時には踊りだしさえする彼が、何かしらただのお調子者のようにも見えたからである。
ゆきは話を続けた。
「時実様と同じでございました。私はすべてに絶望してあとは飢え死にを待つのみ、と覚悟を決めておったのです」
「そうか……」
想像していた通りの悲しい物語の展開に住蓮も心を痛めながら聞いた。
「当時、法然様のもとに集まられていた多くの念仏聖の皆様が、説法所を鴨の河原に構え、説法をすると同時に、私のような境遇のものに食べ物を施していたのです。---それは時実様もご存じでしょう。しかし、私は絶望の余り、そんな聖様方の施しを拒否していたのです」
住蓮は回想した。
「俺もそうだった……」
彼は河原のここかしこで響き渡る念仏の唱和を思い出した。しかし、当時は、彼にはそれは耳障りな雑音以外の何者でもなかったのだ。
「すると、噂を聞いた安楽様がわざわざ私のもとまで粥を運んでくださったのです」
「あいつがか」
「左様でございます。訪ねてこられた安楽様は、私を知っていると言うのです。びっくりしました。しかしすぐに何故かが分かりました。というのも、私は一度、後白河法皇様の元へ招待されたことがございます。そのおり、私を迎えに来られた北面武者の一人だったのだそうです。私のことはよく覚えていると……。見事な舞を披露してくれたから、と」
「あいつは武者であったのか」
住蓮は、安楽に感じる芯の強さは、なるほど彼のそういう経歴から来るものか、とようやく合点がいった。ゆきは話を続けた。
「元気になったら、私の唱に合わせて見事な舞を舞ってくれと、安楽様は毎日励ましてくださったのです。最初はかたくなに拒否していた私でしたが……」
と、そこまで言うと、ゆきの表情に明るさが戻った。そしてこう力強く言うのであった。
「安楽様、またお供の次郎、三郎さんらの献身的な姿を見て、また生きてみよう、やり直してみよう、と言う気持ちになったのです!」
ゆきはこれらのことをすべて話し終わると、黙ってしまった。目には涙が浮かんでいた。
住蓮もこの悲しい話に、ただ「そうか……」と言うしかなかった。
このようにして、自分の心のうちを隠さず、正直に打ち明けてくれた彼女に対し、彼も少しずつ、自分の生い立ち、そして、近江での出来事などを打ち明け始めた。
思い出すことすら苦痛であったこれらの出来事……。
「人に話したところで何になろう」と思っていた。
だからこの京の鴨の河原に来て後も、誰にも語ることは無かった。
しかし、彼の物語る話に、ゆきは一生懸命に耳をそばだててくれた。時には一緒に涙も流した。彼はゆきへの信頼感を日毎に増していった。
そんなゆきは、朝夕の念仏を決して欠かさなかった。
彼女は、当初ほとんど住蓮のそばで付きっ切りで世話をしていたので、彼女が朝に夕に念仏を唱える姿を、住蓮はいやでも傍らで、毎日眺めることとなった。
ところが、彼女の念仏を聞いていると、なぜか心が安らぐ自分を見つけるのである。彼はそんな自分に最初は抵抗を覚えた。
そしてこう自分に言い聞かせるのであった。
「こんなもの、いくら熱心に唱えたところで、何の益があろうか!益などあろうはずもない」
それは、仏の力にいくら縋ったところで、時子の病を結局は癒せなかったではないか、という無力感から、固くそう心に信じていたからだった。
しかし、ゆきが一心不断に唱える念仏は、今までに聞いたことの無い美しい旋律で、まるで唄を吟じるようでもあり、彼の頑なな心をなぜか解きほぐすのであった。
少しずつ体力が回復して、歩けるようになると、住蓮は救護所の周辺を散歩してみた。おそらくは自分と同じような野垂れ死に寸前の者が、そこには多く運ばれていた。そして、それらの人を救うべく、その周りをぼろぼろの服を着た人々が忙しく立ち回っていた。
貧しいながらも、皆が協力し合って、お互いに足りないものを補い合い、助け合って、そして生きている不思議な共同体といえた。
ふと住蓮は長命寺の坂下者の集落を思い起こした。
良く似てはいる…。
ただ、長命寺と違った点は、一日中念仏が絶えないことだった。――そこかしこ、いたるところで、終日、念仏唱和が行われていた。
最初のうちは耳障りで不快なものとしてしか耳に入ってこなかった、そんな念仏であったが、最近になると、唱える者たちの独特な節回しの違いや、音程の違いが聞き分けれらてきて、もともと、笛をよくした彼には興味深く、ある種の唄として聞こえてくることもあった。
また、時にすばらしく美しい旋律として聞こえることもあった。――聞いているだけで涙することもあった。
すると、直ぐにそんな時には「いかん、いかん、俺はもうこんなものとは縁を切ったのだ」と、彼は心の中で叫ぶのだが、その抵抗も虚しく、美しい旋律に聞きほれている自分を発見するのであった。