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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第一部第三十章

 吉水――それは、今の京都、円山公園の東北端あたりの地をさす。

 平安時代、現在の円山公園およびその周辺は、真葛ケ原の地名で呼ばれ、現在の円山公園を中心とし、北は知恩院三門前より南は双林寺に及ぶ、東山山麓一帯に広がる閑寂幽静の原野であった。そこには真葛や薄、茅などが一面に生い茂っていたが、また萩の名所としても知られ、都人の歌にも読まれていた。

 しかし、そんなある意味風流な場所からでも、少し南へ向かえば、住蓮が自らの死に場所として赴いた、平安京の庶民たちの一大葬送場であった鳥辺野が、清水寺周辺の東山山麓に広がっていたわけである。――いずれにせよ、今の京都の東山の風情とは程遠い、心寂しい殺伐とした地であったのである。

 比叡山を降りた法然が最終的に居を構えたのがこの地であった。

 無論、彼の教団はこの頃、特定の宗派として独立したものではなかった。したがって、吉水に彼が構えた庵は、彼と志を同じくする念仏者達が寝食を共にする場に過ぎず、『浄土宗の聖地で本山』というような性格のものでは毛頭なかった。

 しかし、彼の念仏信仰が都人の多くの心を捉えるようになると、この吉水の地には多くの人々が集まるようになった。

 法然らとは別に、かねてより市中で説法していた諸々の念仏聖たちも、法然を慕って、ここに集まるようになってきたのは自然の流れであったろう。その数は日毎に膨れ上がり、二百人とも三百人とも、あるいはそれ以上とも言われた。

 一人の念仏聖が仮に二、三百人の信者を持っていたとすれば、総数、十万人に届く念仏者が、この都に勢力を張っていたことになる。一大勢力である。――南都北嶺の既存仏教教団がこの新興勢力に恐れを抱いたのも当然のことといえた。

 ましてやそこに、当時比叡山で智慧第一と持て囃された学識高い僧が下山して庵を持ち、そこを訪れるもの皆に、気軽に平易な言葉で、南無阿弥陀仏、と唱えれば誰でも極楽往生可能と説きはじめたのである。

 その噂はあっという間に都中に広まった。

 そしてその教えが、源平騒乱で身も心も疲弊しきった都の人々の心を捉えたのは、当然の成り行きと言えた。この世の地獄を味わっていた人々誰もが、せめて死後の極楽往生を願うことは至極当たり前のことであった。

「法然上人の説法を何としてでも聞きたいものだ」

 その思いは、上は朝廷貴族から下は盗人、乞食に至るまで同じであった。――様々な人々が、中には怪しげな物売り、似非僧まで混じっていたが、多くの人々が、ひたすらこの高僧の話を聞こうと、阿弥陀仏の本願に頼ろうと、連日押し寄せていたのである。 

 そして中にはそのまま周辺に住み着いてしまうものもいた。彼らは法然およびその弟子、さらには法然を慕って周辺に居を構えた念仏聖たちの雑用をこなした。---今で言うボランティアのようなものである。

 すると、その一角に病人や貧者のための救護施設とでもいうべき性格の庵が出来たのも必然の成り行きであった。本来、これらの役目は朝廷がすべきものであったが、源平争乱と、あい続く飢饉のただなか、市中、あるいは寺院にある官立の救護所はまったく機能していなかったのである。

 代わって、庶民達が自らの手で救済事業に乗り出したのである…。

 ここ吉水の里の周辺には、こうして市井の念仏聖たちを中心にして、そんな救護所がいつともなく作られ、病で倒れた人、餓死寸前の人などが運びこまれては、前述の”ボランティア”の人々が救護に当たったのである。

 そして、これら多くの吉水の里の救護所をまとめ、その運営の中心になっていたのが、今まさに、重い傷を負った住蓮をそこへ運び込もうとしている、法然の弟子、安楽その人であった。

「安楽様に見てもらえば助かるに違いない」

 そんな噂が広まるのにも訳があった。彼には薬の知識が豊富にあったのである。もともと興味から始まったものだが、今では一流の薬師として、ここではもっぱらの評判であったのだ。

 さて…。

 住蓮を戸板に乗せた安楽たちの一行は、そうこうするうちに、祇園舎の東、長楽寺の前までたどり着いていた。ここまで来れば、その吉水の救護所はもうそこである。

「もうあと少しだ。頑張れ!」

 次郎と三郎を励ますその安楽の目に、今まさにその長楽寺から出て来ようとする、数名の武者と僧兵の集団の姿が飛び込んできた。

「これはまずい!」

 安楽は緊張した。当然それには理由がある。---長楽寺は比叡山延暦寺に属する天台宗の寺であった。だから件の僧兵は無論比叡山の者たちであることは言うまでもない。彼らが安楽の風体を見れば、吉水を拠点とする念仏僧であるとすぐに見抜くであろう。叡山と吉水は強い緊張関係にあり、中でも堂衆僧兵達は吉水を公然と敵対視している。

「これは、何とか穏便にやりすぎさねば…」

 と安楽が思った時には、もう遅かったようだ。

「待たれよ、そこの者」

 呼び止められてしまったのである。

 安楽は自分の不安が的中したので、心穏やかでなかった。

 実は以前にも、この長楽寺に出入りする叡山の僧兵達と念仏僧達の間で小競り合いが起こっていたのである。

 安楽は妙な言いがかりをつけられたりしないようにと、随行する、次郎、三郎らにも軽く目配せして、注意を促した。彼らに腰を降ろし頭を下げておくよう伝えると、自身も道に腰を下ろし、続いて穏やかな口調で僧兵からの呼びかけに答えた。

「はい、いかなる御用でございましょうか?」

 僧兵の一人が案の定である、さっそく安楽のこの返答に絡んできた。

「ほう、これが今、世間を騒がしておる念仏聖とは見かけばかりの破戒僧であるか」

 別の一人がそこへ加わった。

「げに、見よ、この風体、乞食を従えての辻説法からの帰りであるか。ははは。その乞食が、行き倒れを運んでおるとは!ははは、こっけいな光景よ」

 乞食呼ばわりされた、次郎、三郎が「こやつ!」と、今にも飛び掛らんとしようとするのを、安楽は必死に手で抑えた。――腕っ節の強い次郎、三郎らが本気を出せば、彼らと血を流す争いになりかねない。

「ここは何とかこの場を収めなければ」内心、そう思うや、安楽はすぐに冷静に、嘆願するような口調で彼らに答えた。

「申し訳ございませぬ。我ら見てのとおり、病人を運んでいる途中でございます。決して怪しいものではござらぬゆえ……」

 そう言って、何とかその場をやり過ごそうとした。

 しかし、この安楽の返事に一人の僧兵が、さらに絡んできた。

「口の利き方にもっと気をつけい!我ら叡山の僧衆であるぞ。貴様がごときわけの分からぬ破戒僧が身の程を知れ!」

 この僧兵の一喝を契機に、緊張が高まった。---安楽はともかく、次郎三郎は放免である。元々は犯罪者だ。気も荒いし、喧嘩も強い、武術の心得もある。騒動が持ち上がれば、大変な事態となろう。

「ここは、ともかく、謝るしかない」

 と、安楽がやむを得ずその場に、それこそ最悪の場合は土下座でもして謝ろうか、としたそのときである。

「何の諍いであるか?」

 という声と同時に、僧兵の背後から一人の武者が馬に乗って姿を現した。

「盛高様」

 僧兵達は彼に一礼をすると、後ずさりをして背後に控えた。彼らの動作から判断して、この武者が彼らの頭であることは間違いなかった。---実際、威風堂々、鋭い目つきと周辺に漂う威圧感はこの武者の百戦錬磨ぶりを物語っていた。

「この者、只者ではない」

 安楽はその彼の、あまりの目つきの鋭さに一瞬たじろいだ。---実は安楽自身もかって後白河法皇のもとで北面の武士として奉公していた武者であったが、所詮は警備、警護ぐらいが仕事の、そんな名前ばかりの武士とは違うことは明らかであった。

 盛高と呼ばれた武者は、安楽らの前に進み出ると、外見の威圧感からは想像できないような、物静かな口調で語った。

「見ると病人を運んでいるようだ。それを呼び止めるとは……。これはすまぬことをした」

 この突然の謝罪の言葉に、安楽らも当惑して黙っていた。そんな彼らに、武者は言葉を続けた。

「我ら、本日、隆寛律師殿、急用にて叡山より下山し、長楽寺に入るにあたり、道中警護せよとの命を座主より賜り、つい先ほどお供をして、ここに到着したばかり。しかるに、到着するや、使いのものより叡山に急ぎ戻れ、とのお達しがあった。それで、休む間もなく叡山へ帰る所…。そのためこれら僧衆の者ども、疲れで気が立っておる。ご無礼があったとすれば謝ろう。勘弁されい」

 と、そこまで言うと、彼は安楽らに向かって頭を下げた。

「隆寛律師……」安楽は心の中でその名を呟いていた。---最近、長楽寺に、叡山より定期的に勤めのため赴いている天台の律師がいることは聞いていたが、どうもその人物の話らしい。

 噂によれば、叡山の慈円座主の命令で、ここ吉水の里の、法然上人をはじめとした念仏僧たちの動きを監視しているのだとも言われていたが……。

 安楽は、盛高と呼ばれた武者から逆に謝罪を受け、戸惑いを覚えたが、こちらも低姿勢に今は徹するしかないと思った。

「お名前存じ上げております。隆寛律師のような立派な方が長楽寺におられるかと思うと、私ども身の引き締まる思いであります」

 そう相手の機嫌を損ねぬようにと、丁重な物言いでその武者に答えた。

 すると盛高は笑顔を見せた。

「ははは、私には仏の教えの難しいことは分からぬ。しかし、いずれにせよその者、早く運んでやれ。かなりの重傷のようじゃ。早う、その者、運んでやるがよい」

 と言うと、列の中に戻っていった。

「はい、ありがたきお言葉」

 安楽は次郎、三郎を促すと、足早に盛高ら一行のもとを離れた。僧兵らももう手出しはしなかった。

 彼らの姿が見えなくなったところまで来ると、安楽は立ち止まって、次郎、三郎に注意した。

「ああ、よかった。あの武者がおらねば一騒動が持ち上がるところだった。全く……次郎、三郎、その気短な性格何とかならぬか!」

 次郎はしょぼんとして答えた。

「わしら、安楽様にめぐり合えて、何とか信心を持つようにはなりましたが、まだまだ安楽様のように悟りの境地には至れませぬ」

 この思わぬ次郎の反撃に、安楽は笑いながらこう返した。

「わしとて凡夫、所詮は阿弥陀様の本願におすがりせねば極楽往生叶わぬ身、何の悟りの境地があろうものか……」

 そう言うと、安楽は表情をきっと引き締めてさらにこう続けた。

「それにしても、あの武者、あの目つき、――いや、あの者に切りつけられたらもうこれまで、であったな」

 次郎が続いた。

「いや、あの武者が出てきたときは、わしもほんに肝を冷やしました。あの僧兵共だけなら三郎と二人、たちまち一ひねりでございましたが……。まあ比叡山も相当物騒なんでございましょうな。僧兵だけでは警護の手が足らんということですか」

 安楽はその問いかけには答えず、一人盛高の鋭い目つきを思い出していた。

 この時代だ。多くの人の目は怒り、悲しみ、憎しみの輝きを増すばかりだ。落ち着いた口調とは裏腹に、盛高の目つきも例外ではなかった。顔を会わせた瞬間の目つきは、底知れぬ憎悪、そして怒りに満ちていた。

「あんな目は久しぶりに見た……」

 妙に落ち着いた口調は、爆発寸前の、彼の精神の緊張を解すためのものなのか……。そう考えると、背筋が寒くなった。

「今の時代の象徴よな……」

 安楽はそう自分に言い聞かせると、皆を促して住蓮、時実を救護所へと急ぎ運ばせた。

 一方、長楽寺の前では……。

 件の盛高は安楽らが立ち去るのを見届けると、そばの僧衆の一人にこう問いかけていた。

「聞けば、南無阿弥陀仏と唱えれば、誰もが極楽往生可能という教えは、あの者たちのものか」

 僧衆の一人が答えた。

「いかにも、さようでございます。怪しの邪教でありますが…」

「そうか……」

 盛高は答えると何故か馬から降りた。そして、「仮にそれが本当だとしても……」と言うと、突然太刀を抜き、振り向きざま、全身の力を込めて傍らの竹藪の、その一本に切りつけた。

「あっ!」

 と僧兵らが声を出す間もなく、竹は一刀両断、切り倒されて「ずさっ」という鈍い音と共に地面に落ちた。

 周囲の僧兵達は、彼のあまりの気迫に押されて、身動きも出来ないでいた。

 ――暫し、辺りを恐ろしいほどの静寂が支配した。次に「かちっ」という音が響いた。太刀が盛高の刀の鞘に戻された音であった。

 誰も身動き一つしなかった。

 いや、出来なかった、というべきか。

 そんな静寂の中、盛高は大きく息を弾ませ、また全身をぶるぶるっと震わせていたが、二三度深呼吸をして呼吸を整えると、突然、真葛が原の茂みに向かって大声で叫び始めた。

「仮にそれが本当だとしても、あの男だけは例外だ!――あの時実だけは地獄へ落ちろ。いや俺があいつを見つけて、地獄へ突き落としてやる。俺のこの手で地獄へ突き落としてやる。父、母、妹の敵、憎きあの男、必ず、必ず!」

 叫びつつ、盛高の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「この復讐はいつはたせるのか」---彼の心の苦悩は、真葛ケ原の竹に切りつけたところで、当然晴れようはずも無かった。

「時実、貴様はいったい、どこに……、どこにおるのだ!隠れておらず出て来い!そして決着を付けよう。俺が貴様をこの太刀で、あの竹のように一刀両断のもと、切り捨ててやる!」

 心の中でこう叫ぶ、盛高の気迫に押されて、周囲の僧兵達はただ押し黙っていた。

 しかし…。

 まさか、つい今しがた目の前を、実はその時実、住蓮が運ばれて行ったのだということを、知る由も無い盛高であった……。

 運命の皮肉……。

 彼は、住蓮、時実の行方をいまだ掴めないでいる自分が腹立たしく、また不甲斐なく、こみ上げて来る怒りの感情に、心は熱く燃え滾った。

 そこへ、突然、一陣の風が吹き抜けた。と、真葛が原の雑草がざわざわと風にうごめいた。火照った盛高の体にその風は心地よかった。――苦悩に満ちた心をも冷やしてくれるようだった。

 次第に強まる風の音は、しかし、一方で、あたかも盛高の心の苦悩を代弁するかのように、悲しげに、真葛が原の草原に響き渡るのでもあった。

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