第一部第三章
西塔に赴いていた慈円の下に、「急ぎ」ということで書状が届けられた。
「ほう、法然からであるか!」
慈円は正直驚いた。今や比叡山の権威をも凌がんばかりに勢力を伸ばしている、あの念仏集団の頭である。その法然から手紙が届けられたのだ。
「さてさて中身はいかに……」
天台座主に就任してから1週間にもならない時だった。
「ふむふむ……」
手紙には、法然の弟子の証空をしばらく預かってほしい、そして天台三大部を学ばせてほしいと依頼があった。立派な書体は法然直筆であろう。それは彼の性格をそのまま伝えんばかりに、落ち着いて、穏やかで、かつ力強さにあふれたものだった。最後には証空の詳細な履歴書も添えられていた。
「これは、これは。さてどうしたものか」
慈円は戸惑いを覚えた。法然は確かにかって比叡山、叡空のもとで学んだ天台の僧であった。当時その博学さについてはかなうもの無しと言われた天台一の智者であった。
しかし……。
「のう、法然が叡山を去ったのはいつのことか」
慈円は傍に控えていた大律師の一人に尋ねた。昼食の後で、彼はここ西塔で数人の律師たちと談笑していたのである。
仏教修行では食事も修行の一つである。食事中には一切話せない。
実は慈円は座主就任後、延暦寺内の多くの僧と、修業以外の場で、ざっくばらん、くつろいだ雰囲気で語り合う機会を作ることに努力していた。昼食の後のわずかな時間も例外ではなかった。
これは彼なりの一つのおもんばかりの成せる業であった。
というのも…。
慈円自身は自らの仏法への帰依は何人にも劣らないという自負を持っていたし多くの者もそれを認めていた。だからこそ座主として選ばれもしたのである。しかし、彼は九条兼実の弟だから出世したのだ、というような風評も一部からは聞こえてきた。齢わずか37歳での出世である。無理も無い。慈円もそこは心得ていた。
左様、延暦寺内での彼の地位は揺ぎ無きものとは決して言えなかったのである。純粋な仏法修行の場所であるべき比叡山の中にも、権謀術数が渦巻いていたのが現実だった。いつ座主の座を追われても不思議ではない。野心に溢れるものが次の座主の座を虎視眈々と狙っている。姻戚関係、朝廷内への影響力、様々なことが比叡山の中での力関係、人間関係に影響していた。
慈円はその点、抜け目が無かったと言えよう。
彼は、自分の地位を確固としたものとするためには、山内の情報収集こそ肝要、との思いから、普段から広い比叡山の中を、ここかしこと巡っては、天台僧階位の上下関係なく、上は大律師から下は一介の修行僧に至るまで、多くの者と談笑をするように心がけたのである。
無論、彼の元来の話し好きな性格も手伝ってのことではあったに違いないが…。
「ここ西塔は念仏者らが多く集うところ。法然自信もここで多くを学んだ後、山を降りたのではないか。――ここの念仏者たちは法然をどう評価しているのであろうか?」
そんな好奇心もあって、彼はさりげない質問を糸口に、彼らの本音を聞きだそうとしたのである。
突然の問いにその大律師は一瞬戸惑ったが、すぐにこう答えた。
「法然がこの西塔黒谷を下りてから、おそらく十数年になるかと思います」
「そうか……」
比叡山を捨て専修念仏の道に入った法然が、急に自分にあててこのような手紙を送った真意を慈円はつかみかねていた。そこで慈円は彼にさらにこうたたみかけて問うた。
「昨今の法然の都での動き、そちはどう考えておる」
簡単には答えられない、いや答えてはいけないかもしれない重大な問いを差し向けられ、彼は戸惑いの表情を濃くした。そして、しばし考えを整理してから、ここは当たり障りの無い答えをするしかないと悟った。そしてこう答えた。
「はは、4年前に後白河法皇の如法経の儀式に先達を務めてからは、法皇様の覚え目出度く、昨年は法皇様に往生要集を講義されたこと、これにも驚きを覚えております」
と、慈円に返答した。
「そんなことは周知じゃ」
慈円は形式ばった返答しか出来ない弟子たちに物足りなさを感じた。見ると、傍らにもう一人別の律師がいた。何か言いたげな表情をしている。慈円は彼に問うてみようと思った。
「どうじゃ、そちは、――何か考えがあるか」
座主からの直々の問いに、彼は驚いた様子を見せたが、沈黙していた。律師と座主では地位に開きがありすぎる。考えがあっても即答出来るものでもない。そのことは慈円も承知していた。慈円はしかし、彼の表情から『本当はこの者何か言いたいことがあるに違いない』と見抜いていた。
そこでさらに言葉を続け、彼の返答を促した。
「かまわぬ。無礼講じゃ。仏法修行に議論は大いに必要なこと!思ったこと、正直に話してみい」
慈円から促されて、彼は、戸惑いの表情を見せながらも、最後には意を決して語り始めた。
「座主におかれましてはすでにご存知かとは思いますが……」
「なんじゃ、申してみい」
こうして慈円に促されると、この律師はそれまで伏目勝ちであった顔をきっと上に上げるや、慈円の目を直視すると勢い良く答えだした。
「はは、法然の唱える専修念仏の教えは、今や都におきましては上は、かっては法皇様、また法皇様亡き後は関白兼実様、ほか多くの公家、また洛中の庶民、はては河原者にいたるまで広まっております。その勢いは相当なものでございますし……」
隣にいた大律師の表情が一瞬凍りついた。誰もがそのことは知っていた。しかし、比叡山の中にあって、慈円の機嫌をとろうと躍起になっている者たちは、慈円の機嫌を損いかねない、都での法然人気の話など、彼に発言する勇気など持ち合わせてはいなかったのである。
「この者とんでもないことを!慈円様の逆鱗に触れるに違いない!
その場の誰もがそう思ったのは無理からぬことであった。
ところが……。
慈円は率直に語るこの律師に微笑みかけたのである。律師は慈円から叱責の言葉が飛んでくることやむなしと覚悟を決めていたので、いささか拍子抜けの感だったが、最後はこう言って、自分の意見を締めくくった。
「おそれいります。少し言葉が過ぎたようにございます……」
慈円は表情を普通に戻すと、改めて彼に問うた。
「その者、名は何と申すか」
律師は即座に答えた。
「はは、隆寛と申します」
年のころ四十半ばであろうか。精悍な顔つきは仏法への帰依への真剣さを物語っていた。一方で、慈円は彼の鋭い目つきの中に、何かしら天台仏教の現状に対する批判があるように見て取れた。彼は思った。「おもしろい、彼に語らせよう
と。
そこで慈円は隆寛に向かって言った。
「隆寛、確かにそちの言うとおり。今の我ら天台に欠けているものは、まさにその現認識の甘さじゃ」
座主自らの思い切った天台への批判に、場が静まりかえった。
慈円は構わず続けた。
「念仏は法然が自分で考えたものでもなければ、法然だけのものでもない。ここ天台でも大切な修行の一つとして位置づけられておろう。であるのに、何ゆえ、その念仏を天台に求めず、今や市中の一聖にしか過ぎぬ法然に求めるのじゃ。それも都中の誰もが」
自由な議論の場であることを改めて認識出来たのか、隆寛も意を決して発言を続けた。
「忌憚無く私目の考えを述べさせていただいてもよろしいでしょうか」
隆寛の言葉に、慈円は直ぐに反応した。
「ふむ、よろしい。何でも申してみよ」
その場にさらなる緊張が走った。なかなか座主に忌憚無く意見を述べるなど出来ることではない。
「座主の機嫌を損ねるようなことが無ければよいが」
誰もがそう考えた。しかし隆寛はそんな周りの心配をよそに、少し間を置くとゆっくりと自分の意見を語りだした。
「私目が思いますに、法然の唱える専修念仏は、法然なりに長年の仏法への求道から導き出された結論でございましょう。仏法を知らぬ一般衆生から見ますと、難しい教理、戒律が無く、非常に受け入れやすい、誰にでもすぐに理解できる、わかりやすい。聞いたその日から実践できる。したがって、世の乱れた今、極楽往生を願う人々が救いの手段として専修念仏へと安易に走るのも無理からぬものと言えるのではないか、左様に考える所存で……」
法然の都での活躍はこの比叡山にも当然あまねく知れ渡っていた。慈円も当然承知であった。
しかしいくら天台出身の僧であるとはいえ、今は比叡山から離れ独自に専修念仏を勧めている。しかも彼は念仏以外の行は余行であり極楽往生には役に立たないと言うのである。
天台にとって、当然慈円にとっても、この専修念仏の考えは受け入れられるものではなかった。一般民衆には受け入れられるかもしれないが、仏法を習得しようと志すものの修行の道としては邪道ではないか。
しかし一方で法然が、特に時の最高権力者、後白河法皇に重んじられた事実は重く受け入れざるを得なかった……。
「うむ……」
慈円は彼の発言を黙って聞いていた。
何かが今の天台仏教にかけているのであろうか。とすればそれが何なのか。年毎に勢力を増す法然の念仏集団は天台の権威を侵すものとして天台では内々批判の声が強かった。しかし先の後白河法皇、また関白九条兼実、と時の権力の中枢から絶大な信頼を受けていた法然を公然と批判することもまた出来ないのが現実であった。
そして皮肉なことに、兼実の弟こそが慈円なのである。法然を批判することは兼実、後白河法皇を批判することにもなりかねないし、慈円が天台座主となったことも兼実の影響力があるとすれば、慈円の座主の地位にもゆらぎが生じかねない。
何というジレンマであるか……。
天台の僧が法然を公然と弁護することは自己否定にほかならない。
この天台のかかえるジレンマを、慈円は、天台座主として十分理解していた。この問題の取り扱いを間違えると自らの地位をも揺るがせかねない。
慈円は自分から持ち出した議論であるものの、いったんこの問題はここで打ち切るのが賢明と考えた。
「わかった。忌憚無い意見受け止めておくこととしよう。有意義な席であった。これからも意見を聞きに参る。――真性、我々は帰るとしよう」
「はは」
一番弟子の真性を促すと、慈円は彼と共に席を立った。
二人は廊下に出た。十二月の比叡山は寒さもひとしおであった。足元の廊下は凍りつくように冷たい。その廊下を歩きながら慈円は真性に問うた。
「真性……」
「はは」
真性は長く慈円の下で修行を重ねており、慈円はその熱心さには一目置いて、多くの弟子の中でも特に目をかけて可愛がっていた。
「真性、あの隆寛というもの、なかなか率直で気骨がある。のう、そちもそう思わぬか」
慈円からの問いに、真性は一瞬戸惑いを見せたが、直ぐにこう答えた。
「はは、実に率直な意見でありますが、天台を守る立場としては、素直に頷けぬ面もあるかとは思いますが」
と、慈円に返答した。
「ははは、まことにそうじゃの……」
慈円は、真性の卒の無い返事を聞いて、自身高揚した気分を少し、落ち着かせた。
「ともかくも、たいへん結構な議論ではあった。――ところで、そち自身はどう考えておる。今の法然らの動き」
「はは……」
真性は少し黙して考えた後、慈円に返答した。
「私めが危惧しておりますのは、法然の弟子達の動きです。彼らは一部過ぎた行動に走っている者もいるようです。特に安楽房らの動きは注意が必要かと…。すでに座主におかれましても耳にされているとは思いますが……」
「六時礼賛の興行か」
「左様でございます」
慈円は自分の思いの内を言い当てた弟子を満足げに思った。
「真性」
「はは」
「少しそちと話がしたい。あとで私の部屋へこい。---六時礼賛興業、まさに、それよ。わしが今一番に気がかりなことは……」
慈円はそう言うと一人歩を早めた。足元に、さらに強く凍りつくような寒さが走った。空を見ると雪がちらつきだしていた。
「今年の冬もまた寒い冬となりそうじゃの……。この冬、都では多くの者が凍え死ぬに違いない」
慈円は雪が降るのを見ながら、美しき平安の都を取り戻すために自分が果たすべき役割の大きさに思いを廻らせていた。
「さて、どうしたものか……」
慈円は法然からの証空の留学の依頼と、一方での法然門下の弟子たちによる六時礼賛興行の動きと、錯綜する法然教団の複雑な動きに、どう対処すべきか思いをめぐらしつつ、西塔黒谷を後にした。
目には深まり行く晩秋の比叡の山景色が映える。
「人間世界と違って何と美しい景色であろうか!」
景色を眺めつつ、彼は本堂への道を急いだ。複雑な思いを胸に秘めながら……。