第一部第二十九章
「本当にあの時の私はまさに死の淵をさ迷っていたということでございます……」
住蓮は、人間としてどん底の営みを送らざるを得なかった当時の記憶を、一つ一つ確かめながら信空に語り続けた。それは、今の自分を思えばたいへん恥ずかしいことあったが、同時にまた妙に懐かしくもあった。底辺に暮らす人々と生活を共有していた……。皆でいろんなものを分け合ったりもした。左様、貧しいながらも気持ちは豊かな人々が多かったのだ。しかし、飢えや絶望はそんな彼らの良心までも最後には奪ってしまったのではあったが…。
ため息を一つつくと、彼はさらに語り続けた。
「安楽たちに私はこの命救われたのです……」
「安楽と河原者の仲間達であるな?」
信空が問い返した。
「左様でございます」
住蓮は目を瞑った。そしてまた当時の記憶をたどり始めた……。
暫くして彼は鋭い痛みに目を覚ました。最初の瞬間には、自分が何処にいるのか、自分に何が起こったか分からなかった。記憶がまだ完全には回復していなかったのである。
頭ががんがんとして、相変わらず目は霞のようなものに覆われていた。
それでも暫くすると、徐々に意識がはっきりしてきて、目の霞みもかなり取れてきた。すると自分の顔を屈みこんで見ている三人の男が目に入った。やはり一人は僧衣姿、あとの二人はぼろを纏っている。先程来の三人に間違いはないと思われた。
「この者たち、先ほどの……」
住蓮は直近の記憶を取り戻した。そして続いて推察した。
「そうだ、自分をここまで運んできたのだな…」
周囲を見ると、どうやら粗末な小屋の中に寝かされているようだった。今にも崩れそうな体である。
その三人とは別に一人の女性が傍らで自分の左腕を撫でていることに気が付いた。女性はぬれた布でどうやら傷口を洗っているようであった。というのも撫でられるたびにひどい激痛が走ったからである。
住蓮はその激痛に耐えられず、撫でるのをやめてくれ、と言おうとするのだが、それが声に出ない。
「……」
やめてくれ、そう叫ぼうとしているのだが、しかし口が思うように動かない。
「まるで拷問だ……」内心そう思いはするものの、声にならない。
「やはり俺はこの生き地獄へ帰ってきたのだ」
、と自分に納得させると、その痛みも自分に与えられる罰として受け入れるしかなかった。
「いっそのこと殺してくれ!」
痛みに耐えかねて、必死にそう叫んでいるつもりなのだが、その声も、実際は声とはならず、四人の耳には届かぬようだ。おそらく苦しみのうめきぐらいにしか聞こえぬのだろう。
僧衣姿の男が右に立つ男に尋ねた。例の二人の男のうちの一人である。
「次郎、この者、見つけた時の有様、いかようであったのか」
次郎と呼ばれた男は答えた。
「はい、それが、わしらが、いつものお勤の時のことでございます。例によって、鳥辺野周辺の見回りに出かけたのですが……」
というと、もう一人の男が口を挟んだ。
「安楽様、ほんに、末法の世とは今の世のこと、間違いありませぬ。鳥辺野には仏の服を剥ぎ取ったり、髪を抜き取ったりする輩が、まこと、増えておりまして、我ら、検非違使様の命により、厳しい取締りをいたしましても焼け石に水でございます!まこと仏の髪を抜き取り、鬘にするとは!――しかも残念なことに、そんなものを捕らえてみたら、その者は、普段よくわしらが知っておる河原者の仲間であったりするのです……」
「まことじゃ、三郎」
と、次郎と呼ばれた男が、三郎の言を受けて、話を続けた。
「わしら、放免の者に、この鳥辺野に群がる悪党、取りしまれとの命、ああ、もったいない、恐れ多くも検非違使様より仰せつかったはものの、そもそも多勢に無勢、出来ようはずもありませぬ…」
三郎が再び割って入った。
「さようじゃ次郎、一度判官様自らここへ赴いて取締りをなさるとよいのじゃ。あの匂い、ーー群がる烏、野犬、そして盗人ども……」
すると次郎が話しを受けて続けた。
「ほんに、わしら、検非違使様に使われる身と言えば聞こえは良いが、結局のところは屍のお守り役、まったく損な役回りを押し付けられたものじゃ。貴人様方が出来ない仕事を押し付けられているだけのことじゃ!」
安楽と呼ばれた男が二人を諌めた。
「まあ、まあ、そうい言うでない。おぬしらも、そもそも盗人ではなかったのか。放免された恩、もう忘れたか」
にやりと笑って、安楽はそう諫めると、言われた二人も、さもありなん、とばかり頷くと、からからと笑い始めた。
「ははは!安楽様、昔のことは言いっこなしでさ」
盗人っと呼ばれても、次郎、三郎は意に介する様子はなかった。住蓮は不思議に思った。
「この者達は何者か?」
傍らで、これらの会話を聞いていた住蓮であったが、まだ自分の身の上に何が起こったのか、整理が出来ないでいた。
それでも、とりあえず男達の名前は三人の会話から分かった。僧衣姿の男は安楽、細い体の線に似合った小ぶりの丸顔である。他の者は次郎、三郎、−−話の中身から推理して、彼らは放免らしい。なるほど確かに、この二人は、見るからに筋骨たくましい屈強な体格をしている。安楽と呼ばれる男の華奢な体格とはまことに対照的と言えた。
「するとこの放免たちとは同じ河原で生活していたかもしれないと言うことか…」
そう考えると、なるほど河原のどこかで見たような顔でもあった。
そんなことを思案している住蓮を横目に、それまで笑っていた次郎が、突然真面目な表情に戻ると、住蓮を発見した時の様子の経緯について、再度、安楽に話し出した。
「安楽様、この者、発見しました折、あまりに様子がおかしいので、鳥辺野に出没する例の盗賊ではないかと思って立ち去るよう命じたのです」
三郎がこれに続いた。
「左様です、日の暮れ時、あんなところをうろうろするものは盗賊しかおりませぬ。わしらそろそろ見回りを終えて帰ろうと思った時に、死骸の周りをうろつくこの者を見つけたのです」
次郎が続けた。
「ところが、立ち去れ、という声をかけるが早いか、男の姿が忽然と見えなくなりました」
三郎が最後を締めくくった。
「左様でさ、それで急いでそばへ近づくと、この者、足元の崖に気づかず、まっさかさまに下に落ちてしまっていた、というしだいでさ」
「なるほど」
ことの顛末を聞くと、安楽は合点がいった、とばかりに大きく顔を上下に振った。
「であれば、しかし、そもそもこのもの、やはり盗賊であったということか?」
と、安楽は周囲に疑問をぶつけた。すると傍らで傷の手当てをしていた女性がこれに答えた。
「このかたは、盗賊などではありませぬ!」
強い口調であった。また非難するようでもあった。その女性の口調がかなりの真剣さを帯びたものであったために、場の雰囲気が一瞬緊張した。
「ゆきさんはこの者と知り合いか?」
安楽は女性に尋ねた。
「いえ、知り合いというわけではありませぬ。ただ……」
そういうと、ゆき、と呼ばれた女性は、住蓮の腕の傷の手当てをする手をしばし休めた。そして彼の顔を改めて覗き込むと、言った。
「間違いありませぬ。二三ヶ月ほど前にこの河原にやってきて住み着いたかたです。私の小屋から近かったものですから、覚えております」
と彼女はしっかりした口調で、三人に答えた。
「左様か……」
安楽がそう応えると、ゆきと呼ばれた女性はさらに話を続けた。
「はい、この方、ここに小屋を構えると、すぐに酒浸りの毎日となり、それはそれは手のつけられぬ有様でした。乞食をしながら何とか生業をたてていたようです」
そういうと、ゆきはもう一度彼の顔を優しく覗き込んだ。深い同情に満ちた表情であった。
「もっとも、ただ、それだけなら覚えてはいなかったかもしれません。そんな人はここにはごく普通にたくさんいますから……」
そうつぶやくゆきに、安楽が尋ねた。
「たしかに、して、それでは、なぜこの者を特別に覚えておるのか?」
ゆきは安楽にそう言われると、答えた。
「これでございます」
と言って、住蓮の腰を指差した。そこには横笛が吊り下げらていた。---ぼろの衣服には似つかわしくない、立派なもののように見えた。
「これでございます、この方はこんな落ちぶれた姿をしてはおりましたが、かっては笛の名手であったのでしょう。いつも夜になると、河原に座って笛を吹いておりましたが、その調べは美しく、しかし悲しく、聴くものを魅了しておりました。そして……」
と言うと、ゆきと呼ばれた女性はそこで一瞬声を詰まらせた。込み上げて来るものがあったようだ。---気を落ち着かせると彼女は続けた。
「そして、夜通し一人で泣きとおすのです。ここへ来るまでに、何かそれなりの悲しい所以があったのでございましょう」
と彼女は話を締めくくった。
「そうであったか……」
皆は押し黙ってしまった。ゆき自身も涙目となっていた。同じ生活を経験したものだけが感じ得る、心からの同情であった。
「きっと、とてもとても、それは悲しい出来事があったのでしょう」
ゆきの言葉に、安楽ら三人はただ沈黙を守るしかなかった。
一方、住蓮は、というと彼も回復しつつある意識の中で、このゆきなる女性の言葉を聴いていた。するとなぜか時子のことを思いだして深い悲しみに襲われ、すると彼自身も絶望で涙があふれてきた。そして言葉にならない心の叫びを放つのであった。「どうして自分をそのまま捨てていってくれなかったのか!」と…。
彼は自分を救い出した、今は正体が判明した放免の二人を恨めしく思った。
「この体さえ言うことを聞けば、鳥辺野へ再び赴いて髑髏の群れの中にまた身を投じようものを!」
しかし現実は、体が全く言うことを聞かない今、彼らに自分の身を委ねるしかなかった。
次郎がこの場の静寂を破った。
「とにもかくにも、安楽様」
「うむ」と安楽は応じた。
「あたりはかなり冷え込んできております。取りあえずは、さしあたっての傷の手当ても済んだことですし……」
「ふむ」
安楽は少し考えた。---ここは養生を続けるに相応しい場所とは言えなかった。では、さてどこへ運んだものかと思案したのである。
「この者、足の骨が折れておる可能性が高い。手当ては時間がかかるであろう。次郎のこの小屋では十分な手当ては無理じゃ」
「では少し先の安楽様の説法所へ連れてまいりましょうか」
「いや」
安楽はしばし考えに耽っていたが、徐に口を開くと言った。
「いや、あの説法所では薬が十分でない。やはり吉水へ運ぶのが妥当であろう」
「法然様のところへですか?」
「左様」
「いやはや、吉水の上人様のもとへ、またもやこのような乞食同然のものを担ぎ込まなければならぬとは!」
次郎が言うと、三郎が続いた。
「左様、法然様も、安楽様も人が良すぎるというものでさ」
安楽はそれを聞くと、二人に快活な声でこう答えた。
「何、我らの思いは一人でも多くの衆生に弥陀の本願を伝えること。この者もこうして我らに助けられたこと、やはりこの者を救えという弥陀の思いであろう。---我らはこのような者を拒むことは決して出来ぬ。心配せずとも、吉水では、乞食同然の者運ばれるごとに、誰が命じるでもなく、また命じられるわけでもなく、誰かがその者の世話をしておるではないか。−−吉水へ運べば何とかなろうというもの。法然様もそれをお咎めになろうはずもない」
ゆきと呼ばれた女性も同意した。
「このかたの傷、今は血は止まっておりますが、かなり深い様子、是非とも吉水にある薬が必要かと」
次郎、三郎は大きく頷いた。
「それでは急ぐとしましょう」
そう言うが早いか、二人は元気よく住蓮が乗せられている戸板をそのまま担ぎ上げた。放免だけあって力はそれなりのものがあって、彼らは軽々とそれを持ち上げて外へ出た。
目指すは吉水、祇園舎の北東に隣接するところ……。
あの叡山で、智慧第一と呼ばれた法然上人の庵があるところ…。
そう、今や、身分の上下貴賎かかわりなく、多くの都人の信心、尊敬を集めている”念仏聖”の住まわれる場所である。