第一部第二十八章
どれだけ時間が経過したか自分にも分らない。
いや自分に何事が起ったのか、それすらもわからない。
目が覚めると、住蓮は宙に漂っている自分を感じた。
「ここは一体どこだ。俺は今どこにいるんだ……」
周りは一面真っ白な世界であった。彼はうろたえた。
「俺は地獄へ来たはずだが?---これは夢なのか現実なのか?」
確かなことは、なんとも心地よい気分に支配されていたことである。ふんわりとした雲の上を歩いているようであった。
「地獄であればもっと苦しかろうはずだが……」
そんなことを考えていると、なんということか!今までに出会った人々が交互に目の前に現れては消えていくのである。中には手招きする人もいれば、逆にこちらへは来るな、と言わんばかりに手で追い払う仕草を見せ、彼を追い返そうとする者もいた。
『これは一体何なんだ?』
すると次には、輝くばかりに白い服をまとった美しい女性が、微笑みながら手招きするのが見えた。
「これが天女であるか…。何と美しい!」
そこで急いでそちらへ行こうかと思いもするが、そう思うや否や、後ろから体を誰かが引っ張ってそれを止めようとしたりするのである。
そうこうするうちに雲の切れ目が大きくなった。視界が急に開けた。すると無数の天女の群れが目の前に現れた。
「そうかやはり俺は死んだんだ。今俺は本当の三途の川へ向かっているというわけだ。そうに違いあるまい!」
と、そんなことを考えていると、一人の天女が近づいてきてこう彼に囁いた。
「早くいらっしゃいませ。何を躊躇っておられるのですか?」
その声に促されて、彼が、差し出されたその天女の手を取ろうとした、まさにそのときであった。
「おーーーい」
「おーーーい」
と、大きく太い男の声が何度も後ろから響いたかと思うと、後ろからむんずと体を捕まれて、たちまち天女の群れから引き離された。
「何をする!行かせてくれ!」
そう叫びながら彼は必死に差し出される天女の手にしがみつこうとした。そして何とか天女の手をつかんだと思うと、天女は彼の方を振り向いて、この世のものとは思えない甘美な笑顔を振りまくのであった。
「そうです。こちらへいらっしゃいませ。早くこちらへ……」
と、やさしく天女は彼に語りかける。しかし次の瞬間であった。
「!!」
その天女の顔は恐ろしい形相の髑髏と化したのである!
「あっ!」
と思うも間もなく、全身すべて骸骨と化した天女はすさまじい力で彼を引っ張った。
「早くこちらへいらっしゃいませ!」
あまりの恐怖に、彼は「助けてくれ!」と大声で叫び続けた。すると、それに呼応するかのように、彼の背後からは先ほど聞こえた「おーーい。おーーい」という男の声がいよいよ大きくなって響いて聞こえてきた。
住蓮は渾身の力を振り絞って骸骨から逃れようとした。---そしてやっとのことで骸骨の手を振り払うことに成功したその瞬間であった。
「おーーい。しっかりしろ!」
という、耳元で発せられる大声で、彼は目を覚ました。
天女も髑髏もすべてが姿を消した。雲もたちどころに消え失せた。
そう、現実の世界に、彼はようやく引き戻されたのである。
「……」
そこには、見知らぬ二人の顔があって自分を覗き込んでいた。
「……」
まだ目は霞んで、はっきりとは彼らの顔は識別できなかった。当然、意識も完全に元に戻ったとは言いがたかった。
彼は呆然と、二人の男を眺めていた。
「……」
そんな住蓮の顔を見やりながら、その二人は、彼がようやく意識を取り戻したのを確認すると、ホッと安堵の表情を浮かべた。
二人のうちの一人が、もう一人に向かって言った。
「おお、良かった。生きておる、生きておる」
するともう一人も答えて言った。
「いやはや、われら偶然ここに来たこととは言え、何とも命を救うことができたか、まあ、ともかくよかった」
と、お互いの肩を叩き合って喜んでいる。
「……」
この二人は何者か?---まだはっきりとはしない頭で、住蓮は懸命に今の自分の状況を理解しようとしたが、激しい頭痛に襲われてそれもままならなかった。
すると、二人のうちの一人が、
「これも一人でも多くの衆生を救おうとの阿弥陀仏様の本願の賜物でございますな、安楽様」
と、後ろを向いて誰かに話しかけている。---二人の背後に少し離れて佇んでいたために、住蓮にはその者の姿は見えなかったのである。
すると、安楽と呼ばれたその男の返答が聞こえた。
「いや、まこと阿弥陀仏様のお慈悲のお陰ではある……」
返答しつつ、その男は前へ進み出た。---住蓮の目に初めて男の姿が映った。
僧衣をまとってはいたが、きゃしゃな体つきで何とも弱弱しげに見えた。ほかの二人が、いかつく堂々とした筋骨逞しい体格をしていたので、その対比が何とも興味深く感じられた。
僧衣の男はしばしの黙想の後、徐に口を開くと、二人に告げた。
「ともかくもこの者、連れ帰ろう。意識を取り戻したとはいえ、体の衰弱が著しいようだ。まだまだ予断を許さぬ…」
住蓮は何とか口を開こうとするが、その力すら消耗していているようで、言葉を発することはできなかった。やむなく自力で体を動かそうとしたが、それも叶わなかった。体を動かそうとするだけで、激痛が体に走ったからである。どうも全身を強く打ちつけたらしい。
次第に意識ははっきりしてきたが、ともかく体が動かせなかった。「やはり俺は死ぬのだろうか」と彼は改めて心に思った。---先ほどの夢の中の心地よさが嘘のようである。頭痛もますますひどくなった。
目の前には最初霞がかかったようでぼんやりとしか見えたいなかったものが、次今はその霞も消えて、男らの顔もはっきり見えてきた。
安楽と呼ばれた男が三人の中の頭であるのは間違い無かった。---というのもあとの二人はぼろをまとっていたが、安楽と呼ばれた男だけは上等とは言えずとも、それなりの僧衣姿であったし、何より後の二人が「安楽様」と呼んでいたからである。
「さあ、はやくこの者を連れ帰ろう。相当冷え込んできた」
安楽に促されて後の二人は住蓮、時実を抱きかかえた。
「急ごう」
「はは」
安楽と呼ばれた男が先導を切った。住蓮の目にその後姿が写った。僧衣姿の彼は後ろから見てもやはりひどく華奢に見えた。背は高く見えたが、肩幅は狭く女性的な線の細さを感じた。ーーしかしそれでいて、歩く姿は勢い強く、その姿も堂々としていて、体の線の細さからは想像できぬ、なんとも言えぬ力強さを周囲に漂わせていた。
不思議であった。後ろ姿にすら、何か人を引き寄せる力を感じさせた。
住蓮は「この僧はいったい何者か?」と思ったが、そんなことを考えただけで、また激しい頭痛に襲われた。相当頭を強く打ち付けたのであろうか。
体もまったく言うことを聞かない状況に、住蓮は「ままよ、もうどうにでもなれ」と思った。
担がれて運ばれているため、進むたび痛みも激しくなるばかりであった。ついには、その痛みに耐えかねて目の前がまた霞み始めた。
そのかすんだ彼の目の向こうに再び鴨川が見えた。---住蓮は思った。
「せっかく渡った三途の川を引き返すのか」
続いて、先ほどの髑髏と化した天女を思い出した。地獄の入り口まであとわずかだったのを、この三人に連れ戻されたのだ。
住蓮はようやく自分の状況を理解しつつあった。
「俺は娑婆の世界へ戻るために再びそこを渡るわけか…。死に切れなかった、というわけだな…」
しかし生き返ったところで、魂の平安はない。また苦痛に満ちた毎日が繰り返されるだけだ!
死んだほうが幸せということもある。今の都の有様は、住蓮に限らず、多くの河原者たちにとって、生きるも地獄であった。---”平安”の都とは彼らにとってなんとも皮肉な名前であった。
鴨川の対岸のさらに向こうにその”平安”の都が広がっているのがおぼろげながら見えた。「またあそこへ帰るのか」しかし今の住蓮に選択肢は無かった。そこへ戻るのもまた地獄であることは明白であったが…。
いずれにしても住蓮は、今は自分ではどうにもならないこの体を、ともかくもこの男たちに任せるしかなかった。怪我の状態はひどそうだ。結局のところ助からないかもしれない……。そして思った。「死んでも、待っているのはまた地獄、決して俺には成仏、極楽往生など叶わぬのだ。そうさ、俺はどのみち地獄で生きていくしかないのだ」と。
そう考えると、彼の目にはまたとめどなく涙が流れ出すのであった。
「急げ!」と、安楽の声がした。
こうして男たちにかつがれて運ばれる途中も、何度も激痛が彼の体を走った。しかし彼には言葉を発することすら叶わなかった。あまりの激痛に意識がまたもや遠のいていった。
すると安楽が住蓮に声をかけた。
「安心なされ。もうそこが我らが庵のあるところゆえ!」
華奢な体つきからは想像できない、力強い声であったが、不思議なことに、彼はその声を聞くと、なんとも表現できぬ安心感に自分の体が包まれていくのを感じた。
彼にはその声が何かしら、仏の声のようにも感じられた。と、そう感じた瞬間、その安心感からであろうか、再び遠のく意識の中で、彼はまた夢心地で、想像の世界の中、雲の上を歩き始めるのであった。