第一部第二十七章
実際、近江の地を去った後、どういう経過でここへ流れ着いたのか、今の住蓮にも実はよく分からなかった。――思い出せないのだ。ここへ来て、来る日も来る日も同じ毎日を過ごすようになったことと、何より栄養が不足していて、頭の働きが衰えてしまっていたのある。
「自分がどうしてこの河原で暮らすようになったのか?」いくら考えてもぼんやりとしか思い出せない。全く思考が定まらないのだ。---いや実際のところ、彼にとって、もうそんなことすらどうでもよかったのである。
なぜなら…。
「もう大切な人はいないのだから!あれほど俺が愛した人は、俺のことを呪いながら死んでいったのだから!---俺は過去の悲しい出来事に呪われながら、そして己の運命を呪いながら死んでいくしかないのだ!」
彼は毎日心の中でそう叫ぶ。そして思うのだ。「いや実のところは彼はもう死んでいるのだ」と…。
腐乱した死体がそこかしこに散らばる、この絶望の支配する河原にあっても、陽気に元気良く毎日を過ごしているものもいる。
しかし、もはや自分には絶望しかない。誰も救ってくれるものなどいないのだ!---住蓮は今日は、運良く手に入れた酒をしたかたに飲みながら、酔って遠のく意識に、何ともいえぬ快感を感じていた。---死に近づいていることが嬉しかった。
「それでいいのだ――死んだら時子に会えるではないか」
そう考えるとむしろ心は穏やかになった。
しかし時子は今、どこの世界をさ迷っているのだろう?極楽にいてほしい。彼女は何の罪も無いのに、病に冒されこの世の地獄を味わったのだ。せめて来世は極楽で暮らしてほしい。
「でも、この俺は極楽に行けるのか?---いやこんな体たらくでは極楽への往生など出来ようはずが無い。地獄に落ちる運命だ。それは覚悟しよう…。実際死んでも、時子に会わす顔などない!」
いつしか、住蓮の目からは涙があふれ出ていた。
涙目で周りがはっきりと見えなくなると、耳に感覚が集中した。すると次にはその耳に、そう遠くない所からの念仏の唱和が飛び込んできた。――河原者の中には熱心な阿弥陀信者も多くいたのである。
「念仏を唱えれば極楽往生可能なのか?」
辻説法をする念仏聖たちの話を聞いていると、いとも簡単に往生が叶うようである。
「ただ一言南無阿弥陀仏と唱えればよいのだ」彼らはそう説く。
しかし……。
「そんなものはでたらめだ!---俺は馬渕の里での毎日、仏に向かって、時子の病の全快を祈願したが、結局仏は自分たちを救ってはくれなかったではないか!」
そう心で絶叫すると、ところがどういうわけか、心の中でもう一人の自分がこう反論する…。「それは自分の信仰が不足していたからだ!」と。
「父と喧嘩せず、あのまま奈良の都にいれば……。母は父は一体どうなったであろうか?---いや、もうもはやそんなことはどうでもいいのだ!」
住蓮は今にも崩れそうな粗末な小屋から外へ出た。かなり酔っていた。
小屋を出ると、子供を抱いた母親の姿がいきなり目に入った。横を通り過ぎるときに、しかし、それは、子供を抱いているのではなく、死んだ子供の肉を、その母が食らっているのだということが分かった。
「……」
それは住蓮にとっては珍しくも無い、いつもの光景であった。通り過ぎると、その女は子供の死骸を放り投げると、住蓮に食べ物の施しを求めた。
「……」
彼はそれを無視して歩き続けた。
「こんな地獄の世界ともそろそろおさらばせねばなるまい---しかし、どうやって?---それに、どこへ行ったって、結局そこに待っているのは、生き地獄の世界ではないか!」
住蓮の目が対岸の向こうに見える東山に注がれた。
いたるところで煙があがっているの見える。そう、死体を荼毘にふしているのだ。
京の都の一大葬送場、鳥部野である。
「そうだ、鳥部野へ行って見るとしよう。そしてそこで野垂れ死にするとしよう!」
死にたかった。今や心に思うのはそれだけであった。
「死んでさえしまえば、ともかく、この果てしない、思考の堂々巡りのもたらす苦痛から逃れられるに違いない!地獄の苦痛も、この今の苦痛に比べればましであろう!---いや、よしんば、地獄の苦痛が今の苦痛よりも数倍も辛いものであっても、そんな地獄こそ俺にふさわしいのだ!―なぜなら時子を俺は救えなかった!そんな俺の行き先は阿鼻叫喚の地獄こそふさわしいのだ、苦痛を得てしかるべきものなのだ!」
そこまで思い詰めた気持ちになると、住蓮は鴨川の向こうを見やった。鳥部野---そこでは無数の死体の山の中に、無数に髑髏が転がっているに違いない!そしてそこへ群がる無数の烏……。
「俺の最後の死に場所としては、鳥部野こそ絶好の場所ではないか」
彼は心を固めた。
彼はふらつきながらも、鴨川を西から東へと渡った。水量は多くなく簡単に渡れた。いくつもの死体が浮かんでいる川を、それらを、手で掻き分け、あるいは足で蹴散らしながら……。
「俺もすぐこいつらの仲間入りだ」
彼はそう思うと、なぜか体はむしろ軽くなった。可笑しかった。不思議な気持ちだった。
川を渡り終わったところで急に目の前が真っ白になった。崩れ落ちていく自分を感じた。彼は一度地面に崩れ落ちたが、しばらくすると再び起き上がった。
「ここで死ぬのはふさわしくない……、髑髏に囲まれて死ぬのが、俺にふさわしいのだ!」
彼はほとんど狂気に近い確信で心を奮い立たせた。
「さあ、もう少しで、地獄だ。三途の川を渡り終わったのだから……」
彼はふらつきながらも最後の力を振り絞って、送葬の煙が立ち上る山の方へ、東へと、ただ進んでいった。
どれだけ歩いたろうか?
気がつくと周辺に死体の山があった。まさしく”山”であった。鳥部野である。死臭があまりにひどく彼は思わず嘔吐した。
その足元を見ると、白骨化した死体が一体あった。住蓮の吐物にまみれた髑髏が住蓮を見て、にやっと笑った。――少なくとも彼にはそう見えた。
「やあ、いらっしゃい」と、髑髏が彼に囁いた、と、そう住蓮が感じた瞬間、彼は地面に崩れ落ち、体を打ちつけた。
もはや立ち上がることは不可能だった。
「時子、本当にすまなかった !」
薄れ行く意識の中で、最後の力を振り絞って、心の中でそう時子に、彼は叫び続けた。---すると、何と!彼の目の前に地獄の世界が、天然色で広がった。真っ赤な世界!晧晧と燃える炎、阿鼻叫喚の様…。それは絵で見る地獄絵そのままの様相であった。
「やはりこここそ、俺に相応しいところだ」
彼は地面に臥したままの状態で、にやりと笑った。このまま笑いながら死にたかった。本望だ。
「時子、本当にすまなかった。俺はこの地獄で、お前を助けられなかった報いを受けることとしよう」
ますます薄れ行く意識の中で、住蓮、時実は、時子が自分に向かって微笑むのを見た。
その彼女は優しく、こう彼に語りかけた。
「いいんですのよ。もう気になさらなくとも」
慰めの言葉が嬉しかった。
「ありがとう」
彼もにこりと微笑を返した。薄れていく意識が心地よかった。---雲の上に浮いているような気分だった。
「やっとこれで死ねる…」
もはや何も考えられなかった。ひたすら永遠の平安と安楽を願いながら彼は深い眠りに落ちた。




