第一部第二十一章
時子の戸惑いを隠せない表情を見やりつつ、応水はさらに話を続けた。
「そうじゃ……。そもそも一人でいるから死のうなどと考えてもしまう。多くの仲間と過ごすことで気も晴れるやもしれん。――ここ長命寺でも坂下者たちはたとえ病を患っても陽気で元気快活じゃ。それは仲間がいるからじゃ。時には喧嘩もしよう。しかしいつも彼らは助け合っておる。支えあっておる……。そちも同じ境遇の仲間とともに暮らすのが一番じゃと思う。---確か時子殿は笛の良き吹き手であったろう。そちの笛を皆に聞かせてやれ。皆も大いに慰められようて!---皆で、共に悩み苦しみ、そして支え合い、助け合え!どうじゃ」
時子はこの応水の言葉を聞くに至って、漸く冷静さを取り戻した。そして思った。
「助け合う、支えあう……」
そんなことは一度だって考えたことが無かった。言われてみれば、確かに仲間がいれば何かが変わってくるかもしれない。――時子は目の前に僅かにだが光明が見出せたような気になった。
すると、なぜか朝の空気までもがすがすがしく感じられた。――もう随分と長く忘れていた、最近では珍しい感覚だった。
そんな時子の心情の変化を応水は見抜いていた。
「死ぬのはいつだって死ねる。――のう時子殿、繰り返して申すが、わしはそもそも穢れなど信じてはおらぬ。堂々としとればいい!---しかし、そちらの境遇の者たちは、しかるべき庇護がないと生きていけないのも事実じゃ。ここは、だまされたと思うて、わしの言うとおりにしてみんか。先程話した、わしの友は、実は法皇様から、祇園舎での彼らの管理を全面的に任されることになったのじゃ。信頼できる奴じゃ。それは保証する。果たして都でどういう生活が待っておるか、それは実際のところわしにも想像もつかんし、約束もできん。しかし、いずれにしても、生きていく糧の心配はおそらくあるまい!」
彼女は応水の親身な説得に、都へ行ってそのような形で働くのも、悪くはないかも、と思い始めた。
――助け合い、支えあい、生きていく。確かにそうだわ。こんな私でも何かの、誰かの役に立てるかもしれない。今はそれにかける時なのかも…。
しばらく考えていた時子だったが、もはやこれ以上迷うこともなかった。実際ほかに選択肢もなかった。時子は応水に頭を下げて、こう告げた。
「わかりました。応水様にこの身お預けします…」
時子の返事に、応水の表情がようやく柔らいだ。
「そうか、そうか、わかってくれたか……。わかってくれたか。ありがとう、ありがとう」
時子もうれしく思った。いざとなれば、拾ってくれる神や仏もいるものだ、とも思った。そして、応水に命を救われたことを感謝した。――しかし、感謝しながら、時子はそこで、急に、時実と両親にあてた遺書のことを思い出してうろたえた。
「どうしましょう……」
応水は時子から遺書の件等、昨夜から今朝こに至るまでの事情を聞いた。
「なるほど……」
応水は少し考えていたが、
「時子殿、ご両親と時実のことはご心配無用。早速、今からわしがそちと共に出向いてすべて説明いたすとしよう。――早いほうがよいの」
と、時子に安心するように告げた。
「ありがとうございます」
時子は深々と頭を下げた。
無論、今、自殺を諦めたとは言っても、白癩に侵されたこの体は、確実に死に向かっていく……。それは分かっていた。だからこそ、そんな姿を絶対彼には見せたくない。「故郷を離れて京都へ行ってしまうのは寂しい限りだが、様々なものへの愛着を断つうえで、ある意味よいことなのかもしれない……」時子はそう自分に言い聞かせて、恋人への思いを振り切ろうとしたが、一方で「時実様、もう二度とは会えますまい」と、彼への思いが募ると、また涙ぐんでしまった。
応水はそんな彼女の心情を察して暫く彼女を見守っていた。そして思った。「まったくこんなか弱い女子に、何という試練であろうか!」と。
しかし、いつまでもぐずぐずしてはいられない。彼はやさしく彼女を促した。
「それでは参るとするか。――御両親が心配されておられるであろう。急がねばなるまい」
「はい、わかりました」
と、そう言った時子であったが、少し考えてから後、こう応水に告げた。
「応水様、お願いがあります…。私は屋敷へは戻りません。両親への報告、応水様に全部お任せしてもよろしいでしょうか……」
応水は少し驚いた表情を見せたが、すぐに時子の心の内を察した。そして言った。
「分かった。良かろう…。改めて両親に会うのも辛かろうて…。わしが十分に説明を致すとしよう」
時子は応水に頭を下げた。そして涙声でこう言った。
「ありがとうございます…。今から両親と会いましても、また、別れに辛さが募るばかりでございます。時実様もいつ近江へ戻られるか全く不明でございます。あの方が帰られるまで待ったところで結局は別れが待つばかりでございます。そんな辛い日を過ごすことは耐え切れませぬ。――都へ着いたら、何なりと消息も伝えられましょう。私は、もう自ら命を絶つようなことなど決していたしませぬ。元気でいるからと、皆にお伝えください。こうなった以上、一刻も早く都へ行きとうございます。応水様、今日にでも都へ連れて行ってくださりませ。お願いします」
そう言うと時子は手で涙を拭った。
応水も同じ思いを抱いた。---会ったところで結局は別れが待つばかり、であれば、辛さ、悲しみも倍増するというものだ。
「そちの言うこと、もっともじゃ…。案ずるな。わしがしっかりとそちの思い、伝えて来ようぞ!」
応水はそう言うと、少し思案していたが、続けて時子にこう指示した。
「この近くに古い阿弥陀堂がある。そこは、わし以外は誰も立ち寄らん。あそこなら人目にもつかんし……。まずはそこへ行くとしよう。そして、そちはそこで待っておるがよかろう。よいか、話を済ませたら、そちを迎えにわしも阿弥陀堂へ向かおう。いずれにしても急がねば……。屋敷は今頃大騒ぎであろうからの」
時子は黙したままではあるが、大きく頷いた。
「それでは急ぐとしよう」
応水は彼女を促した。
「わかりました。よろしゅうに」
時子もそう言うと、応水の後に続いた。二人は歩を速めた。
かくして、二人はその阿弥陀堂を目指して歩き出した。
時子は歩きつつ、何度も自分に言い聞かせた。
――今はこの方にすべてをお任せするしかない!
時子の目には、今や応水の後姿が、以前に会った時よりもいっそう大きく、また頼もしく見えた。
そして、まだ見ぬ、都の祇園舎の里の有様を頭に描きながら、またそこで仲間と働く自分の姿を想像しながら、わずかではあるが、新たな期待と希望を抱きつつ、彼の後を急ぎ足で追った。