第一部第二十章
「往生極楽など到底叶うはずも無い、穢れた者共、と蔑まれている彼らが、みんな、懸命に、真面目に日々の暮らしを生きておる。一方で、堕落した都の貴族どもは、大金をつぎ込んで叡山の坊主から戒を受けよる……。そして、『これで極楽往生可能じゃ』と安心して喜んでおる。そんなことが許されていいのか!懸命に、真面目に生きておる者たちこそが極楽往生に預かれるべきではないか!そうでなくて、何が御仏の教えじゃ。懸命に、真面目に、正直に生きておってこそ極楽往生の望みがあるのじゃ。――たとえ、この世では絶望の毎日の連続であったとしても!」
応水の熱弁はさらに続いた。時子は気迫に押されただ黙って聞いていた。
「のう、時子殿、――穢れも、浄めも往生極楽とは全く無縁じゃ。女人であっても、白癩を患った身であっても、極楽往生は可能じゃ。地獄へ落ちることなどない。何故なら、万人を誰一人区別することなく、等しく救われようと言うのが御仏の願いなのじゃから。それが阿弥陀様の本願であるのじゃから……」
応水の真心が、肩に置かれた手から体に染み入って来るのを、時子は感じていた。
「時実を気遣い、両親を気遣い、――そちのようにやさしく、美しい心を持った、そう、仏心に満たされた者が、地獄に落ちることなどありようはずが無い。そうじゃろ、そちの心は仏心で満たされておるのじゃから。それを承知の阿弥陀様は必ずそちを救ってくださる……」
時子の心に、応水の言葉が入り込んで、その温もりが、ますます膨らんでくるのを、時子は感じていた。
涙は少しずつ喜びの涙に変わりつつあった。
「だから、今、諦めぬことじゃ!弥陀の本願におすがりなされ。そして、あるがままの自分のままで……。そう、悩み、苦しみ、煩悩に蝕まれながらの自分のままで……。左様、あるがままの自分の姿のままで懸命に生きていくことが肝要なのじゃ……。それこそが往生、往きて行きん!ということだ」
「往きて行きん…。あるがままの自分の姿のままで……」
時子は応水の言葉の説得力に圧倒されていた。
「そうじゃ。あるがままでのう……。安易に自らの命を絶つなどということは、絶対にしてはいかん!」
最後に、再び激しい口調で、時子をそう叱責すると、応水はそこで言葉を止めた。
琵琶湖の湖面が、今やすっかり姿を現した太陽に、遠くまで照らされて、ますます輝き始めた。
美しい眺めであった…。
時子は、湖面で働く漁師の姿を見やりながら、今聞いた応水の言葉を頭の中で反芻していた。
「私は、確かに不幸ではあったが、同時に我侭であったのかもしれない…」
応水に諭されて、時子は、この病を治そうと必死になればなるほど、即ち、自分がもがき苦しめば苦しむほど、周囲の人々までもが苦悩を深めてきたことに改めて気付いた。
「この病は自分の運命として、そのまま受け入れるべきなのかもしれない…」
時子がそんなことを漠然と思っていると、それまで黙っていた応水が口を開いた。
「時子殿、そちの身、わしに預けてみてはくれぬか」
「預ける……」
時子は、この突然の応水の提案の真意を測りかねた。
「さよう、わしに考えがある。というのも、わしの友人が、都で白癩の者たちの世話をしておるのじゃ、清水寺の坂下でな…」
時子は黙って聞いていた。
応水は少し間をおくと、さらに言葉を続けた。
「京の都の清水寺にな、ここ長命寺と同じような坂下の集落がある。そこに白癩の者たちの里があるのじゃ…。そこでわしの友が彼らの面倒を見ておるというわけじゃ…。そこでだが一つどうだ、彼の世話になってはみぬか?わしがそこまで連れて行ってしんぜよう。いかがじゃ?」
唐突な応水の提案に時子はただ驚くばかりであった。
「清水寺……」
時子はまだ幼いころ、京の都へ行った折、清水寺を遠くから眺めたことを思い出した。美しい寺だと思った。どのようにしてあんな山の斜面に寺を建てることができたのだろう……。子供心に、そんなことを随分と不思議に思ったのを覚えている。
「ましてやそこの片隅にそのような境遇の人々が暮らしていようとは…」
時子にはただ驚きであった。
応水は時子のそんな驚きの表情をよそにさらに話を続けた。
「実は、清水寺坂下に暮らす白癩者を、一部、祇園舎が引き取って、神官(神人)として働かせようという動きがあるらしいのじゃ」
「祇園舎……」
時子は急な話の展開に戸惑った。なぜ、祇園舎のような格式高き社が、わざわざ白癩のものを集めて、そのようなことをしようとするのか?
時子は事の真意がつかめずにいた。
応水は時子の戸惑いを察して、ゆっくりと丁寧に説明を加えた。
「京の都の有様はそれはそれはひどいものじゃ……。飢餓、病、あるいは戦乱で打ち捨てられた無数の死体、風化した骸骨が都の大路に転がっているという。そんな有り様ゆえ、皆が、京の都は、今や、無数の悪霊、魑魅魍魎が徘徊する祟られた場所じゃと信じて恐れておる。特にその祟りを恐れておるのは腰抜けぞろいの朝廷の貴族たちじゃ 」
応水は続けた。
「そこで白癩の者たちが目を付けられたのじゃな。彼らに権威を持たせて都の大掃除をさせ、一気に浄めもさせようと」
時子が疑問を呈した。
「彼らに権威を持たせる?」
時子にはさっぱり合点がいかなかった。
「理解は難しかろう……」
応水は説明は続いた。
「まあ、言わば魔力みたいなものにすがろうというわけじゃ。怪しの力が、白癩者たちには備わっているのだ、というようなことがまことしやかに都人の間で囁かれておるのじゃ。穢れを怪しの力で一気に浄めてしまおうということじゃろう…。もうすでに一部の者たちは、後白河院の勅命により、祇園舎に集められておる。そして彼らを神人として、正式な位を持たせ、また、正式な装束も与えておられるとのことじゃ。まあ、形だけの位ではあろうが……。噂によると、真っ赤な装束に白い頬冠り、手足には牛皮の手袋と靴を着用させるということじゃ」
時子は驚いた。そして思った。「それほどまでに荒廃した、穢れて祟られてしまった、と嘆き悲しまれている都の大掃除を、そんな異様な装束に身を包んだ白癩者たちがするという!---都の人々はとんでもないことを考えたものだ!」---時子は軽い身震いを覚えた。
応水はここに至ってさらに時子に問うた。
「時子殿、都へ行ってみぬか?行ってみれば、そちなりに何らかの仕事はあろうというもの。彼が必ず面倒を見てくれよう。祇園舎の話も含めてな…」
時子は思いがけない提案に即答も出来ず、ただ呆然と応水を見つめるのみであった。