第一部第二章
こうして慈円が仏法の最高権威者として、都の秩序を自らの手で取り戻さんと、決意を新たに、希望に胸を膨らませている、その一方で、平安の都では、一人の女性が、明日をも知れぬわが身の運命を嘆きながら、今や殆ど崩れ去ったに等しい律令制度の最下層のさらにどん底の所でもがき苦しんでいる姿があった。
無論、慈円の目の届かぬところで……。
その名を時子という。
「何という運命のいたずら!」
時子は昨夜は文字通り一睡も出来ずにこの日の朝を迎えた。
あまりに衝撃が大きかった……。
あの都大路での光景……。
まさかあの場で兄の姿を見ることになろうとは!
「兄上!」
と、どんなにか一声かけたかったことか!。「でもそんなこと、出来ようはずも無い。今の自分のこの惨めな有り様では……」
いや何よりも兄に対して自分はもう死んだ存在なのだ。近江の国から姿を消したあの時、自分は死んだのだ。それは単純に行方をくらましたというだけのことではない。
「この病に侵されたものは生きていてももう死んでいるのだ」
どうしてこんな運命になったのだろう。
また、よりによって、何故、今になって、まさかこの京の都で兄に巡り会おうとは!
「立派なお姿に……」
嬉しかった。都大路での兄は立派に武者として立ち振る舞っていた。馬上の姿は凛々しく、堂々として、近江源氏の血を受け継いだ者としての風格を備えていた。誇らしかった。うれしかった。
「それなのに私は!」
だからこそ自分の運命が呪わしかく、身も心も張り裂けそうだった。
「もう、兄と分かれて何年になるだろう」
時子は回想した。ーーー兄は源平騒乱の折、木曽義仲の軍勢に加わると言うと、父の反対を押し切って家を飛び出した。あれが最後だった。もうかれこれ九年になるだろうか。なつかしい近江馬渕での日々……。
「楽しかった……」
本当に毎日が楽しかった。ああ、あの故郷へ帰りたい。美しい湖、美しい空、広がる葦の平原。葦笛を作って遊んだ日々。
しかしこんな身となってはもはやそんな願いもやかなうはずも無い。
「今の自分の顔はどうなっているだろう?」
そう時に考えても、鴨の川面を見ることも恐ろしく、そこに映った己の容貌を想像すれば、それだけで死にたい思いにかられ、そのまま、鴨川に飛び込んでしまうかもしれない。
「……」
時子は自分の手足を眺めてみた。白い斑点は確実に毎年増えていた。手足の感覚もおかしかった。鈍いというのか、痺れるというのか……。痛みを感じないことすらある。女性にとって命の髪も、もうかなり抜け落ちていた。
そして何よりもあのおぞましい腫れ物が!
人が見れば恐れおののく、いずれはこの病に陥った者の顔を獅子のごとくに変貌させてしまう、あのおぞましい腫れ物が、体のあちこちに出来始めていた。
「もう長くは生きられないだろう」
時子は自分の寿命も残りはわずかとすでに悟っていた。
こんな運命の自分だが、ここ祇園舎の裏手の雑木林の一画で生活を共にする仲間がいる。みんな優しくしてくれる。私よりもっと病のひどい人もいる。それでも皆、毎日の仕事をやり遂げている。
「弱音を吐くわけにはいかない!」
自分たちに課せられたのは都大路の清掃、より具体的には
人、動物の死骸の処理であった。形だけは最下級の神官として、犬神人という名を与えられ、穢れを清めへと変えねばならぬ多くの儀式にも使役された。
忙しい毎日…。
昨日もいつもの通りのそんな日課の繰り返しがあったに過ぎない……。まさかあんな出来事が待っていようとは…。
その”あんな出来事“のあらましとは次のような事であった。
すなわち…。
その日の当番の者たちはいつものごとく、赤手袋をつけ、顔に覆いをまとい、白装束に身を固め、鈴の音を鳴らしながら都大路を練り歩く……。昨日は比叡山から天台座主が宮中へ詣でるということもあって、念入りに検非違使の指令の元、人や動物の死骸の始末を行った。
「皆の者、ご苦労であった。我らは、天台座主様一向が内裏へ入られるまでは、この小路にてしばし待機するようにとの検非違使様の仰せだ。しばし休むとしよう」
一連の仕事が終わると、こう指示を出したのは、彼ら犬神人の頭領を務めていた源太である。
「そんなに偉いお坊さんであれば我らのこの身の”業”も取り除いてくださればよろしかろうにのう!」
と誰かが皮肉まじりに叫んだ。すると、すぐに別の誰かが、
「我らのような者が極楽へ往生できるとでも思っているのか!どんなに善行を積んだところで、結局、地獄に落ちるしかない運命だ!」
と自虐気味に吐き捨てるように叫んだ。
「ははは!道理じゃ!道理じゃ!」
他の者たちもそんな応酬を囃し立てる。
時子も黙ってそんなやり取りを聞いていたその時であった。大路の方に検非違使を先頭にした武者の隊列が見えたのだ。
「おお座主様の一行だ!」誰かが叫んだ。時子も隊列を見守っていたが突然隊列が止まった。何やら慌ただしい気配である。検非違使の元に一人の武者が駆け寄った。何やら耳打ちをしている。彼からの報告が終わると検非違使は馬の踵を返した。そして大声で叫んだのであった。
「佐々木盛高をここへ呼べ!」と。
時子は耳を疑った。---兄の名前であった。懐かしい、懐かしい兄の名前が今呼ばれている!
「一体何が起こっているの?」そう思って目を漏らしていると、検非違使のところに一人の武者が馬を駆って来た。
「あれは兄様!」時子は絶句した。烏帽子姿に武者装束の凛々しい姿であった。やや遠目ではあったが顔ははっきり見える。間違いなく兄だった。
思わず駆け出しそうになった。生き別れになった兄が今、目の前にいるのだ!
その先頭に兄の姿を見たのだ!
時子は高まる感情の波を、しかし抑えねばならなかった。「兄は検非違使様とも馬上で言葉を交わす身分、しかしこちらは虫ケラ同然の犬神人…。天と地ほどに身分の差がありすぎるではないか!ここはお顔を拝見出来ただけでも幸せと思わねば」
何と言う呪われた運命であろうか!---そう思うと、悲しみで心が張り裂けそうになった。
やがて問題は解決したのか、隊列は再び動き出した。時子は涙で曇った目を拭いながら、兄の後ろ姿を見送った。
こうして、その日、都大路の清めの仕事が終わって、祇園舎の犬神人里に帰ると、時子は激しいめまいに襲われて寝込んでしまったのである。無論、原因は思いもよらず、兄を目撃したこと、などとは誰にも告げられなかった……。
「そんなことを言ったところで何になろう!」
悲しみに打ちひしがれて、ただ悶々と横になっているよりほかなかった。
そうして寝込んだまま、気がつくともう次の日の朝を迎えていたのであった。
めまいはかなり楽になってはいた。
「いつまでもここで横になってもいられない。仲間に迷惑がかかるわ……」
と、考えて、体を起こそうとした丁度その時だった。
「おときさん、どうだ体の調子は」
背後から源太の声がした。彼はどうも時子の様子がただならぬのを察して、様子を見に来たのである。源太は時子の傍らに腰を下ろすと、時子を心配そうに見つめた。
「源太さん、ありがとう。大丈夫よ。少し気分はよくなったわ」
時子は源太に感ずかれぬようにそっと涙をぬぐうと、あわてて顔の覆いを被った。犬神人が外へ出る時に着用するものである。ここは私的な場所ではあったが、女であるがゆえに自分の醜い素顔は隠したかったのである。
「そうか、それならいいんだが、顔色が悪かったし、昨日帰ってから寝込んでいるって聞いたから」
源太はもうすっかり頭の毛が抜け落ち、顔はごつごつとして変形し、目も充血が強く、視力もそうとう落ちていた。右手の指も2本なくなっていた。
清めの役割をも担うものとして、祇園社の最下級神官の身分を与えられ、陰陽師たちの支配下にもあり、また検非違使の配下としても働き、摩訶不思議、神秘的な存在として、都人たちから恐れられる存在ともなっていた彼らであるが、その素顔は実際のところこのような有り様だったのである。
そうこの有り様こそ、白癩ーーー業病とも言われたこの病に侵された者達が辿る宿命であった。
さて、源太は何か並々ならぬことが時子の身の上に持ち上がったに違いないとは感づいたが、この里のしきたりでもある「深入り無用」の習いにしたがって、それ以上の詮索は止めることにした。皆が例外なく悲惨な過去を背負ってこの里に来ており、互いに深くを詮索しないのがこの里のルールであった。
二人は暫く黙ったまま小屋の中で座っていた。
時子は源太の思いやりを嬉しく思うと、なんだか少し気分も良くなって、源太を安心させんと、こう言った。
「源太さん、もう大丈夫です。気にかけてくれてありがとう」
それを聞いて、源太もにこっと微笑を時子に返した。
「それでも、今日は休むといい……。食事の準備のことなら心配せんでいい、皆のものにはわしから伝えておく……」
源太のやさしい心遣いに時子は胸を打たれた。
「ありがとう、源さん」
「なーに、礼なぞ……」
「でも、大丈夫です。皆に迷惑がかかっては……。手伝いぐらいなら出来ますから……」
「そうか、でも、決して無理はするなよ!」
時子の言葉に納得すると、源太は時子の小屋を出ようとした。しかし戸口まで来ると、ふと何かを思い出したように片手で頭をポンポンと叩くと、時子の方を振り向いた。そしてこう告げた。
「そうそう、肝心なことを伝えるのを忘れておった」
「何でしょうか?」
時子は尋ねた。
「どうする、いつもの坊主が会いに来ている。断ろうか。今日は帰ってくれって」
「ああ、住蓮房様ですね」
努めて平常を装いながら、いつものように明るい口調で彼女は源太に答えた。しかし、今日は誰にも会いたくなかった。昨日の件の精神的打撃はあまりにも大きすぎた。
「源太さん……」
「うん、どうする」
「住蓮房様にはくれぐれもよろしく……。ただ、今日は少し具合が悪いので会えないと、お伝えください」
「わかった。---まかしておけ」
「よろしゅうに」
源太はにこっと笑うと最後にこう言った。
「それにしても変わった坊主だ。いつもあんたを訪ねてくる。いくらあんたのことが気にかかる、と言ったって……。ここへは、どんな事情、いきさつがあったって、普通の人間は誰も近寄ろうとはせんからのう。親でも兄弟でも……」
そう言うと、さらに彼は続けた。
「おときさん、困ったことがあればすぐにわしに相談するのじゃぞ。−−ここの他の連中はあてにならんからのう。おっと、誰かが聞いてれば大変じゃ。いやいや、悪いやつはおらんがのう、それでも、いざというとき頼りになるのはわしだけ。−−そうじゃろ、ははは」
そう言い残して源太は去った。彼の、時子を元気付けようというやさしい心遣いが、それはそれで嬉しかったが、そのことが時子をさらに涙ぐませた。
「住蓮房様、わざわざ会いに来てくださったのに、本当に申し訳ない。少し時子に時間をください。少しだけ時間を」
時子はそう自分に言い聞かせると外へ出た。里は食事の準備やら何かと騒々しくなり始めている。いつまでも悲しみにくれているわけにもいかない。
思い切って小屋の外へ出てみると、目には東山の峰峰のすっかり秋色に染まった姿が飛び込んできた。しかしこの眺めを美しいと鑑賞できる心の余裕などとっくの昔に無くなってしまっていた。この里の者は皆そうなのだ。
「そして、また冬が来るだけ……しかし来年はこの命あるだろうか?」
時子は、そんな悲しい思いを振り落とすかのように、ぶるぶるっと頭を震わせると、皆が集まる所へと足を向けた。
「元気出さないと!」
自らを毎日、こうして叱咤激励するよりないのだ。
今よりまた、いつもの勤め、都の“清め”の日々が始まるのであるから……。