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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第一部第十九章

 時子は、横たえていた体を起こすと、次にはそのまま地面に座り込んだ。

 こうして時子がようやく落ち着きを取り戻し、もはや湖面に身を投じる危険性がなくなった、と判断すると、応水は、自分も時子と合いあわせて腰を下ろした。次には、彼自身も一つ深呼吸をして気を落ち着かせると、こう優しく語りかけた。

「そなたは、以前にお見受けしたことがある。確か時実といっしょに……」

 時子はようやく平静を取り戻していたので、落ち着いた口調でこう答えた。

「左様でございます。時子です」

「そうじゃ、そうじゃ、時子殿――確かあの佐々木家の娘御であったの」

「はい」

 そこで周囲が一気に明るくなり始めた。夜明けだ。湖面がきらきらと眩いばかりに輝き始めた。

「あっ」

 自分の顔が朝日に照らし出されると、時子は思わず声を発した。そしてすぐに顔を袖で隠した。---直視されたくはなかったのである。

 応水は事情をすでに察していた。

「隠さずともよい、病のこと、すでに時実から聞いておる」

「時実様から……」

 時子は、初めてこのことを知ったので驚いた。父母からは応水との接触を禁じられていたはずだが……。

「そうじゃ、何度も相談を受けた」

「左様でございましたか」

 時子は、時実の自分を思う気持ちがうれしかったが、それがまた新たに悲しみを呼び起こし、目から涙が溢れ出た。

 応水はそんな彼女を慰めるように、やさしく彼女に語りかけた。

「死んでどうなる……。皆が悲しむだけじゃ。皆はどうしてそちを救えなかったか、と自らを責めるじゃろう。そちが死んでも皆に悲しみを残すだけじゃ。何も解決にはならぬ」

 時子は涙を流しながら黙って聞いているよりほかなかった。

 応水はさらに話し続けた。

「この世に人として生を受けて、何かの因果でそちは今、白癩を患った。それがどのような因縁からか、そちの前世に何があったからか、それはわしにわからぬこと。ただ、これだけは明らかじゃ。それはのう、それは、今こんな死に方をしては、いつまでもこの悪い輪廻を断ち切ることは出来ぬということじゃ」

「悪い輪廻……。断ち切れない……」

 時子は応水の言葉を反芻すると、そのまま俯いて黙ってしまった。しかし暫くすると、感情の高まりを抑え切れなくなったのか、キリッと顔を上げると、激しい口調で応水にこう反論した。

「そんなことはわかっております。死んだら私は必ず地獄に落ちるでしょう。それでよいのです。それが望みなのです。一生そこで地獄の業火に焼かれてしまえばいい。私なんか、もう、どうなったって、どうなったって!」

 これを聞くと、それまでやさしい口調であった応水だったが

「馬鹿なことをいうでない!」

 と、突然、時子を叱りつけた。

 応水の思わぬ一喝に時子はたじろいだ。優しい、穏やかな、そしてお人好しのお坊さんという印象しかなかったので、驚いたのである。時子は、しかし、ひるまなかった。今は自分の思いのたけを全て、彼にぶちまけようと、彼に反撃を始めた。

「でも、応水様。私は今このような病の身になって一体何の希望があるというのでしょうか。もうこれ以上は考えられないというぐらい考え、考え、そして考え抜きました。その結論がこれだったのです!」

 応水はこの時子の反論を、今度は黙って聞いていた。

「女として生まれただけでも穢れたこの身ですのに、さらに白癩まで患うとは!---ああ、こんな穢れた身を一体誰が救って下さるというのですか。神にも仏にもあらゆる祈願をかけてきました、それでも、それでも、誰も私に救いの手を差し伸べてはくれなかったのです。そうではありませんか!」

 応水は、こうして興奮する時子の気持ちをなだめようと、時子の背中に手をやった。時子の気持ちは痛いほど分かった。何と慰めていいのか……。応水もしばらくは慰めの言葉を捜せないでいた。

「絶望の極限に身を置かねばならぬ、そんな人の心の苦しみがどうして赤の他人に理解できよう?どんな言葉もこの人には空虚な響きしかもたないのだ……」

 応水は背中をさすりながらそれでも、何とか時子に希望を持たせようと、言葉を選びながら、ゆっくりと語りはじめた。

「遠くに見える漁師たちの船をみてごらんなされ」

 応水は、続いて立ち上がると、湖面の遠くを指差しながら言った。

「船……」

 言われて、時子がその方をみると、はるか向こうの湖面に幾艘もの船が浮かんでいるのが見えた。早朝から漁に出ているのであろう。さっき時子が見た時よりもその数はふえていた。

 応水は続けた。

「あの漁師たちも穢れたものとされておる。魚を獲ってるだけなのに、それが殺生だと、そんな理由でじゃ」

 応水の言うとおりである。当時、山の猟師、海の漁師らは仏法で禁じられている殺生をするから、という、それだけの理由で”穢れたものたち”とされていた。

「しかし、都の身分の高い人々は、彼らが漁で捕ったその魚を、珍味として食卓に並べて、食しておる。なんとも皮肉ではないか。そしてその罪を許して貰わんと、しばしば比叡の山の高僧を招いては、夜通し読経をさせよる。まったく馬鹿げた話じゃ……」

 やさしく、ゆっくりと丁寧に語りかける彼の言葉が、ようやく素直に時子の耳に入ってきた。しかも説得力を持って……。彼のことをせいぜい人のよい変わり者のお坊さんぐらいにしか思っていなかった時子は、しばし悲しみを忘れてその熱弁に聞き入った。

「彼ら漁師は自らが生きるために、また人の暮らしのために、働いておる。で、そのあげく穢れたものとされる。おかしな話ではないか」

「彼らだけではない。長命寺の坂下にも、生まれながらに足の萎えた者、目の見えぬ者、孤児、いろんな者たちがいるが、『けがらわしい』と言って、高貴な身分の者達は近づこうともせん。彼らに一体何の罪があるというのか!」

 応水はそこまで喋ると一息ついた。---そして暫く黙っていたが、今度は立ち上がると遠く向こうに見える比叡の山を見やりながら、さらに言葉を続けた。強い口調で、怒りを込めながら……。

「そもそも仏の教えに”穢れ”というものがあったのか。わしもあの比叡の山で修行中、多くの経を読んだが、どこに穢れとか浄めとかいう教えが書かれておるのか?天台の高僧と呼ばれる偉いお坊さんに聞いても満足に誰も答えてはくれんかった」

 時子は、今は、彼の熱弁に黙って聞き入っていた。

「おかしいではないか。そもそも仏の教えは、生きとし生けるものすべてに仏性ありというものじゃ。そうじゃだから誰でも仏になれる。まさに仏教とは誰もが仏になるための、また誰をも、すべての衆生を仏にするための教えではないか。それなのに山川草木悉皆成仏を言う天台の坊主ですら、穢れ、浄めを口にする。仏の教えを本当に理解しておるのか!全く馬鹿げたことじゃ!」

 ここまで一気に話し終えると、応水はまた腰を下ろした。そして時子に合い向かうと、彼女の両肩に手を置いた。そしてさらに語り続けるのであった。

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