第一部第十八章
と、まさにその時だった。
「待たれい!」
呼び止める大声に時子の足は止まった。一体誰の声か、と思うも間もなく、時子は後ろから体を捕まえられた。
「あっ」
と思った瞬間、時子の体は後ろへ引き寄せられると、地面へとそのまま押さえつけられた。見上げると僧衣姿の男が時子を押さえつけていた。
「離してください!」
時子は男の手を振り解こうと懸命に頑張ってみたが、所詮男の力には叶わなかった。
「馬鹿なことをするでない!」
男は時子を叱り付けた。万事休すであった。時子はへなへなと体をそこへ横たえるしかなかった。
上る朝日に湖面が反射して、きらきらと輝きだした。鏡のような輝きだった。周囲は既にかなり明るくなっていた。
男の顔がはっきり見えてきた。時子はすぐにそれが誰かわかった。
「応水様……」
実は時子は、今までに何度か住蓮につれられて、長命寺の坂下の集落に足を運んだことがあったのである。無論両親には内緒であり、発覚すれば騒動になることも承知であった。住蓮としては、ただ、そういう場所になぜか自分は関心があって、足を運んでいるのだという事実を恋人に隠しておくのがいやだったのであり、時きも純粋に恋人の心情を理解しようと思っての上での行動ではあった。
時子は、最初はやはりこわごわではあったが、何度か足を運ぶうち、その里の人々の人情の厚さに深く感心させられて、自分の持っている偏見に恥じ入ってしまったことをしっかりと覚えている。
住蓮は、時子を応水にも紹介した。何とも不思議な雰囲気を漂わせた僧であったと、その時に思いはしたものの、交流はそれ以上は続かなかった。---この里に足を運んだことが彼女の父母に発覚してしまったのである。両親からは直ちに、住蓮共々、その里への出入りを以後禁止されてしまった…。
二人が厳しく叱責を受けたのも勿論であった。
「あんな穢れ者たちと交わるなどもってのほかじゃ!」---坂下者などと深く関われば、その身に、さらには佐々木の家に「穢れ」がもたらされるではないか、という理屈である。---当時の感性としてはごく普通のものであったと言えようか。
時子はそんな過去の記憶をたどりつつ、やはりあの時のあの方に間違いない、と確信した。するとまた涙が勢いよく溢れ出した。---涙を漸く堪えると、彼女は改めて言葉を発した。
「あの時の、あの時の応水様ですね……」