第一部第十七章
「湖岸にはすぐにたどり着きました」
時子の悲しい語りは続く…。
明け方の琵琶湖は波こそ穏やかであったが、湖面を吹きぬける風は冷たく、時子の肌を刺すように吹き付けた。
すでに空が白み始めていた。すぐに夜が明ける。その前に決行しなければ、――時子はかねてから「ここで」と決めていた岩場に登った。
目の前に黒々とした湖面が不気味に広がっていた。「ここへ身を投げるのか」今、現実に湖を目の前にして、時子は一瞬たじろいだ。
沖のほうに目をやると船が幾艘か見えた。朝早くから漁師たちも働いているのだろう。そんな、船で働いている漁師たちの懸命な仕事振りをふっと想像した瞬間、なぜ自分は死ななければならないのだろうと、何故か、すでに答えを出したはずの疑問が再び湧き出てきて頭の中をぐるぐる回りだした。
漁師も農民もその生活は困窮を極めている。
ここ数年の飢饉はひどいものだった。特に昨年、一昨年と二年にわたった飢饉(養和の飢饉)は悲惨を極めた。時子の一族を含め、当時の地方豪族たちはそれでも何とか食べるだけのことは出来た。しかし、民衆には多くの餓死者が出た。都には屍が山のように積み重なっていると、ここ近江の国でも噂はしきりであった。そして、比較的土地の豊かなこの近江の地でもそれは例外ではなかった。結果、収穫も減ったが、そんな事情はお構いなしに、都からの租税の取り立ては、むしろ厳しくなって、人々の困窮ぶりは目を覆うばかりであった。
生きようと懸命の人たちは、生き延びるためには自分の子供の肉まで喰ったという。そうまでして生にしがみつくのが人間の性なのだ。
「それなのに、自分は、自分は……。」
その命を捨てようとしている。この大事な命を!それほど追い詰められた今の自分……。
「今までそんな民衆の苦しみから目を背けてきたことの報いがこの結末だったのだろうか?」――ふとそんなことを思ったりもした。無論貧しい人々への施しはいつも怠りなかった。でも結局自分だけは食べていたではないか?その間にも無数の人々が飢えで死んでいったのだ。その報いだろうか?
良心の呵責が時子を攻め立てた。
――ここまで考えを巡らすと時子はその場に座り込んでしまった。
死ぬと平安があると自分に言い聞かせていたが、結局罪深い自分は地獄に落ちるのだとあらためて思い知らされた。前世の自分も罪深い身であったからこうして女として生まれたのだ。とすれば、死んで安らぎを得られるとは、とんだ妄想ではないか。
「結局は生きるも地獄、死ぬも地獄なんだわ」
時子の眼からまた涙があふれた。地獄に落ちる恐怖が体を突き抜けた。自ら命を絶つ決心は揺らぎつつあった。
途方にくれて泣き崩れた。どうすればいいのか、
「誰か私を助けて、誰でもいい、こんな私を絶望の淵から救ってください、女性に生まれ、ただでさえ穢れたこの身にさらに降りかかった忌まわしいこの白癩という業病、私は地獄道に落ち、生涯そこから抜け出せぬ哀れな女、ああ、だれかこの身を救ってください!」
いつしか悲しみの声は祈りの声へと変わっていった。
しかし、いったい誰に祈っているのか、いや祈っていいのか、時子にもわからなかった。神様なのか、仏様なのか、私を救って下さる方はいったいおられるのか、それとも誰にもこの私はもう救えないのか……。
「やはりひと思いに湖へ飛び込もう!」
時子はあらためて決心した。もう迷うまい。よいのだ、自分が地獄の業火に焼かれようとも。
「少なくとも、父母と時実様の苦痛は取り除けるではないか
一時の悲しみがあるにしても、わずらわしい厄介者がいなくなるのだ。私のことなどすぐにみんな忘れてしまう。いいのだ。これでいいのだ。せめて人様にこれ以上迷惑をかけるのはやめよう。それには命を絶つしかないのだ」
そう自らに言い聞かせながら、一歩、一歩、と崖の淵へ近づいた。――恐ろしくその時間が長く感じられた。漸く崖の淵まで来ると、そこで足がすくんでしまった。――この先にはもう地面は無い…。湖面を見下ろすと、押し寄せる湖の波が自分を優しく手招きしてくれているようにも見えて、すると今度は、彼女は不思議な安堵感に包まれるのを感じた。
もはや選択の余地は無かった。
彼女は、そこで深く息を吸うと、目を瞑り両手を合わした。
「みんな本当に今までありがとう。さようなら」
そうつぶやくと時子は最後の一歩を空へ踏み出した。