第一部第十六章
夜もかなりふけてしまった。
ひっそりと静まり返ったここ犬神人の里で、しかし時子と源太は向かい合い、時の過ぎ行くのも忘れ、話に没頭していた。
「あとは実行に移すだけでした」
時子は淡々と、源太に語り続けた。---源太が聞いたその後の一部始終は次の通りである。
決意を固めると、時子はまず遺書をしたためた。父母宛に一通、住蓮に一通。父母には今まで大切に育ててくれた感謝の気持ちを、そして住蓮には、いつも自分に優しくしてくれたこと、愛してくれたこと、に対する感謝の気持ち、すべてを書き綴った。
遺書を書き終わると、あとはいつ実行するかだけであった。---琵琶湖に身を投じる決心だった。
「簡単なことではないか」
思うは易かった。
湖畔の岩場には身を投じるに適した高台がいくつもある。しかもここからは容易に歩いていける。
しかし、住蓮が心配からか、いつも傍にいたので、一人で琵琶湖まで行くことは実際にはなかなか出来なかった。
「何とか一人っきりになれないだろうか……」
日々、その様に思いを巡らしていると、チャンスは程なくして到来した。住蓮の父が病で床に伏したという消息が奈良から伝わったのであった。重い熱病で、容態はかなり良くないらしい。
住蓮は奈良へ向かうことにした。奈良を旅立ちこの近江の地に向かうときは喧嘩別れであったが、それでも父は父だ。見舞いに行かねばなるまい。
奈良へ旅立つ住蓮は、やはり以心伝心というのであろうか、時子を一人にすることには大きい不安を感じてはいた。
「一人にして大丈夫だろうか?」と思いつつも、いや、まさか流石にだいそれた行動には及ぶまいと思い直し「私の留守中、十分に体を休ませて置くように」と、そう時子に強く告げると、彼は奈良へ旅立った。
「今が絶好の機会!」
時子は住蓮を見送った日の夜、いよいよ覚悟を決めた。
すでに二、三ヶ月も前から庭の木を眺めているときでも、外出して道の並木を見たりするときでも、その枝振りをみては、そこにぶら下がっている自分を想像し、
――死んでしまえば楽だろうか?
――死ぬときは苦しむだろうか?
――いやひとおもいにぶら下がればその瞬間絶命するから苦しむことはあるまい
とか、自問自答することが癖のようになってしまい、ふとわれに返っては、そんなことを考えている自分の身の上を恨めしく思い、涙ぐむ毎日が続いていた。
あるいは一思いに小刀を胸に突きつけようかとも思い、血まみれになって死んでいる自分の姿を想像する。
そして思うのだ。
---その痛みに自分は耐えれるだろうか?
---結局は死にきれないで苦しむだけではなかろうか?
---それならば湖に身を投じよう。溺れ死ぬならすぐに気を失ってそう苦痛は感じないだろう。
などと考えると、たちまち次には
---いや湖に身を投げると魚に食われてしまうのではなかろうか、それはいやだ
などと馬鹿なことを思ってみたり、
---それなら池に身を投げればよい。さいわい、この馬渕の里にはいくつもため池がある。その一つに身を投じればよいのだ
などと考えるが、すると直ぐに
---池に身を投げて溺れ死ぬのはいいが、池の底で腐っていくのは嫌だ
と、恐ろしさから身震いをする。
生きるも地獄、死ぬも地獄であった…。
――とにかく死んでしまえば今の苦しみからは逃れられるに違いあるまい!
最後はそう思うのだが、しかし、そんなことを考えれば考えるほど、ますます死に切れない自分を発見するのである。
「しかし今はもう決行するしかない」
時子は固く決心すると、遺書を自分の部屋の小机の上に置いた。そして翌日、世の明けぬうちに身支度を整えると、誰にも気づかれぬ様に、そっと屋敷を抜け出した。
――さあ!
彼女は屋敷を背にすると、琵琶湖へ向かう足を速めたが、すぐに一瞬足を止めた。---今までの思い出が脳裏に、わっと、吹き上げてきたのである。時子は屋敷の方を振り返ると、そこで何も知らず寝ているであろう父母のことを思って、また泣き出してしまった。
どれぐらい泣いたであろう…。
しゃがみこんで、ひとしきり泣いた後、時子は涙をぬぐうと、立ち上がった。そして向こうに見える、父母のいる母屋の方に向かって、深々と頭を下げた。
「本当に今まで有難うございました」
と彼女は声に出して言って、最後の別れを告げた。
---もはや振り返るまい!
そう固く心に誓うと、次に、時子は体を反転させると、暫く息を整えた。そして意を決すると、琵琶湖の方向へ再び歩を進めた。
――すべてを捨て去るしかないのだ。この地への思いも、父母への思いも。そしてこの穢れた身を捨て去るしかないのだ!
そう心に強く言い聞かせると、まだあたりは暗い中、時子は湖へ向かう小道を急ぎ足で歩いていった。