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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第一部第十四章

「ふー」

 ここまで語り終えると、住蓮は大きく溜息をついた。

 過去の回想も、その中身によっては、本人への精神的負担が大きい。住蓮の近江の思いでは核心に迫るにつれ、住蓮の心を重く沈ませていた。

 すると続いて、異常な疲労感と口の渇きが彼を襲った。---当然である。そもそもが語るには余りにも悲しい思い出であった。普通に暮らしていても、過去のあらゆる場面が、あらゆる時々に彼の脳裏を駆け巡り、その度に悲しい思いに囚われるのが常であった。---しかし物語としての過去は、語るにはあまりに悲しく切なく、心の負担は想像を超えるものだった。

 信空は住蓮の打ちひしがれた様子を見ると、彼を気遣って言った。

「少し、休むがよかろう…。誰かに水でも持ってこさせよう」

 そして部屋を出た。――あまりの空気の重たさに、彼を少し一人にさせたほうが良いかも、と考えたのである。

 しばらくすると外で、彼が弟子の一人に「水を」と用事を申し付ける声がした。「承知しました」と弟子の返事が聞こえると、まもなく彼は部屋へ戻ってきた。

 若い修行僧がしばらくすると、湯飲みを二つ持ってきた。

 信空は住蓮に湯飲みの水を勧ると、自身も昔を懐かしむ様子でこう語った。

「そうであったか、応水律師が長命寺におられたか。いやいや、何とも、――そうであったか」

 そして目を瞑って黙想を始めた。彼も過去のことを追想したのだ。――比叡山、黒谷での修行時代に彼の思いは及んでいるようであった。

 住蓮は、湯飲みの水で、ようやくのどの渇きを癒すと、「ふー」っと再び大きいため息をついた。

 兄弟子の気遣いがうれしかった。

 私的なことゆえ、安楽始め、ごく身近な仲間には事情を話し、また援助も求めていたが、兄弟子たちには語るまいと思っていた。ましてや師にも……。

 しかし所詮は明るみに出ることなのだ……。住蓮は自分の力ではどうにも出来ない何か大きい力を感じた。それは、運命、必然、とかいった言葉でも言い表せない何か特殊な力であった。

 彼は、その力の中でもがき苦しんでいる自分の姿を今、こうして客観的に見つめなおすと、そんな自分がひどく非力にも思えてきて「これはここまで話した以上は一気に喋ってしまおう!そして理解と助言を求めよう!」と決意した。すると少し、疲労感も取れたような気がしてきた。

 住蓮は再び語り始めた。---彼はまずは信空に疑問をぶつけた。

「信空様は応水様をご存知であると、先ほど仰られましたが……。いつ、どこで、どのように応水様とはお知り合いになられたのですか」

 住蓮からそう問われると、信空は目を瞑って黙想していたが、おもむろに目を開けた。彼はしばらく天井を眺めていたが、再び目を瞑ると少し黙想して後、こう語った。

「いや、叡山は西塔黒谷でのこと、もう昔の話しだが…。彼とは共に修行をしていた仲じゃ。叡空様のもとでな」

 と、住蓮に答えた。

「左様でございましたか」

 住蓮も、何とも不思議なこの因縁に、心を巡らした。

 信空はまた暫し黙想していたが、彼自身もまた懐かしい思い出が蘇ったのであろう。続いて、彼は当時のことを懐かしげに語り始めた。

「当時は、黒谷に山の念仏者達が集まっておった。叡空様はその中心であった。法然様、応水律師……、皆、共に修行をした仲間じゃ。最も師が中でもずば抜けて優れていたのは言うまでも無いが……。私が法然様と共に比叡山を降りたのは、もう十数年前のことであろうか。---応水律師が山を下りられたのはそれより少し前であったと思う。彼はある日、突然山を降りる、と言い残すと、黒谷から姿を消したのだ」

 住蓮は数奇な運命の廻り合わせを感じた。

「左様でしたか……」

 信空は応水の下山について語り終えると、一瞬窓の外を見やったが、再び住蓮の顔を見据えると、応水について話を続けた。今度は下山にいたるいきさつについてである。

「彼は若くして律師となった、その秀逸さは叡山内でも評判であった。次は大律師となるのも時間の問題、と将来を嘱望されていた。それがある日のことじゃ。所用のため彼が都へ行ったところ、そこで念仏聖に群がる民を見たのだと……」

 目を瞑ってはいたが、住蓮には兄弟子の目が少し潤んでいるようにも見えた。涙ぐんでいるのであろう。彼は兄弟子の心優しさに心を打たれた。

 信空は続けた。

「うちひしがれたぼろぼろのそれら無数の民を見て彼は心をひどくうたれたらしい。それからの彼は変わった。程なくして彼は念仏僧の集まる黒谷へとやってきた。そして我々と念仏修行を共に始めたというわけじゃ。そして……」

 と、そこまで言うと、信空は急に黙ってしまった。暫し沈黙の時間が過ぎた。一つ一つの思い出の点検が終わったのか、彼は話を再開した。

「彼はことあるごとに都へ足を運び、念仏聖たちと交わっていた様子じゃ。その影響からであろう。彼の言動はいつしか行き過ぎることが多くなった。---多くは天台への批判であったが。それには叡空様も手を焼いておった。最後には応水律師自身ももはや叡山は自分の住むところではないと感じたのじゃろう。そして市中で念仏の功徳を皆に説いて回る道を選んだというわけじゃ。惜しい人物が去ったと、黒谷では評判の話であった。しかしそれも昔の話、さて、どこにおられるものか、と案じていたが近江の国におられたとはのう……」

 住蓮は話を聞き終えると「わかるような気がします」と言った。そしてこう言葉を続けた。

「あの方の目は常に民に向いておりました。それも打ちひしがれて、ぼろぼろになった人々、この世に絶望し、自分には何の救いもないと、悲嘆の毎日を過ごしている人々……」

 そこまで言うと、住蓮はまた近江でのなつかしい日々を思い起こした。

「応水様は世間知らずの私の目を開かせてくれました……」

 兄弟子と応水とのなりそめを聴き終わると、彼は再び自分の物語を語り始めた。

 それは次の様である…。

 応水に長命寺坂下者たちとの交わりのきっかけを与えられた後、彼は積極的に彼らの村へ出かけた。

 何か興味深かった、という単純な気持ちからそれは始まった。

 当初は坂下集落の住人達は住蓮をなかなか受け入れなかった。しかし不思議なものである。反発されればされるほど、住蓮は彼らの中に入り込みたい欲求に駆られた。それは、興福寺での修行とは違う、また別の何かが得られることを期待して、という本能的欲求の成せる技であったかもしれない。

 そんな彼の根気が奏した。彼は次第に集落の人々と生活を共にし、ついには彼らと共に笑い、泣き、悲しむことが出来るようになっていた。

「応水の坊主に続いてまた、変てこな者が現れよった」

 集落ではそんな評判がもっぱらであった。

 このような交わりが続く中で、住蓮はいかに自分が彼らに対する偏見に囚われていたか、ようやく気がつくと共にそんな自分を恥ずかしく思った。---彼らは貧しくとも、互いに協力し、少しでも足りているものは不足しているものに分け与え、力のあるものは力の足りないものに力を貸し、誰もが貧しいながらも平等に生活できるよう、お互いの生活を支えあっていた。

 それは見事に調和の取れた共同体であった。

 住蓮には眼から鱗の取れる経験であった。

 外から眺めていたときは、そんな彼らを可哀想だとは思いつつも、反面、汚い、くさい、などと心の底では感じていたのだ。---それは誰しもがそうであろう。

「中に入ってみてこそ本当の姿が見える!」住蓮は貴重な哲学を身に着けたとも言えようか。

 近江の自然と交わる日々にも増して、彼らとの交わりの日々は楽しいものであった。彼は自分が見失っていたものをやっと見つけたような、そんな幸せすら感じていた。

 彼は信空に言った。

「あの者たちが私の目から梁を取り除いてくれたのです。大きな大きな梁です。ちりや埃ではない、私の目に張り付いていたとても大きな大きな巨木をです」

 信空はそんな住蓮の思いに深く共感した。

「そちも、応水律師からよきこと多くを学んだようじゃの。なるほど、彼の教えがあって、今のお前があるということか、なるほど、なるほど……」

 信空はやっと合点がいったという調子で何度も頷いた。

「六時礼賛にかけるそちの意気込みも、応水律師の教えの賜物というわけか、あはは、合点、合点」

 信空は普段はめったに笑ったりすることはなかった。怖い存在としての兄弟子、それも法然の一番弟子であった。住蓮はその信空が珍しく笑うのを目の当たりに見て、また彼に対する親近感を強くした。

 無理もない……。法然の一番弟子という存在として、彼は若い弟子たちからは、どちらかというと疎まれる存在であった。---それがどうだろう。今は父親のような眼差しを自分に向けている。住蓮は法然の教団に拾われた自分の幸せを噛み締めた。すべての人たちに感謝の気持ちをささげたかった。安楽やその仲間たちに最大の感謝をささげたいと言う気持ちは変わらない。しかし教団全体も家族なんだと、あらためて、教団の重要性について再認識させられたのでもあった。

 和やかな空気がしばしその場を支配した。

 しかしそれをかき消すかのように、今度は信空が、やや厳しい口調でこう尋ねた。

「応水律師との出会い、まことに興味深い話であった…。されど肝心の祇園舎の女人とそちとの関係についてはまだ合点がいかぬことがある。その時子殿という名の女人は何ゆえ、近江の地を離れてこの都で暮らすようになったのじゃ。話を続けてはくれまいか」

 と、信空は住蓮を促した。

 この発言が、住蓮の心から、楽しい思い出をたちまち奪い去り、代わって、悲しい思い出で彼の心は再び満たされた。

 それでも語り続けねばならない……。

 住蓮は答えた。

「それは……」

 そう語り始めると、たちまち悲しい思いがさらに募った。思い出したくない、しかし……。住蓮は重苦しい心に鞭を打った。今は真実をすべて話そう、しかしそう思えば思うほど言葉が詰まってしまう…。

 と、次の瞬間、激しく沸き起こる悲しみの感情からか、彼は嗚咽にのどを詰まらせたかと思うと、ついにはただ泣きじゃくるばかりであった。

「……」

 それを見る信空もただ黙っているよりほかなかった。

 この青年が味わったであろう想像を絶する辛酸さを思うと、これ以上話を続けさせるのはあまりにもむごい仕打ちにしかならないとも、彼はあらためて思った。

 そこでこう声をかけた。

「分かった……。住蓮、今日はもう語らずともよい……。住蓮、辛かったであろう。そちの辛さを思いやることも出来ず……。私が悪かった。もうよい、――その時子殿が白らいを患ってしまったということ、祇園舎の女人こそが即ちその人であったということ、それだけ分かればもうよい。もう十分じゃ……」

 信空は、この不幸な出来事に襲われた若い二人の心のうちを思うと、何とも辛い思いに苛まれた。

 もはやほかにかけるべき言葉も見つからなかった……。「辛かったであろう」そう重ねて言うしかなかった。

 極まった悲しみの感情を前に、信空もなす術がなかった。

 住蓮の咽び泣きの声は、しばらく続いた。

 どれほど続いたであろうか――漸く彼は泣き止むと、手で目を拭い、少し落ち着きを取り戻したのか、続いてしっかりとした口調で信空にこう告げた。

「信空様、お心遣いありがとうございます」

 信空は、ただ黙って頷いた。

 漸く平静さを取り戻した住蓮は思った。「隠すようなことは何もないのだ。――それに兄弟子も家族ではないか!家族に隠し事はしてはなるまい。心配をかけさせないためにも早くすべてを語るべきではないか!」彼はそう確信すると信空に告げた。

「信空様、お心遣いは感謝しますが、こと、ここにいたりましては、その後のこと、ここにすべてお話してしまおうかと思います。お時間がよろしければ、ですが……」

 夜もかなりふけていた…。

 信空は若い弟子の申し出をどうしたものか一瞬考えたが「大丈夫か……。そちさえよければ、私のほうはいっこうに構わぬが」

 と、住蓮の顔を見つめながら答えた。

「はい、大丈夫でございます」

 そう住蓮は答えると、時子の白癩発病以後、馬渕の里に起こった、その後の出来事についてさらに詳しく信空に語り始めた。



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