第一部第十三章
住蓮は次の日、再び長命寺へと向かった。なぜか応水にまた会いたくなったからである。
「戒律は人を生かすためのもの。仏性を目覚めさせるためのもの。人々を彼岸へと導くためのもの」
という、前日の応水の言葉が耳にこびりついて、昨夜はなかなか眠れなかった。そのような教えは興福寺の修行僧時代には聞いたことは無かった。――何か、忘れかけていたものが思い起こされたような気分に、彼はとらわれたのである。いやより正確に言えば、住蓮が元来持っていた情熱、末法の世でもがき苦しんで切る人々を救いたいという情熱を揺り動かしたというべきであろうか……。
ともあれ……。
住蓮は長命寺への道すがら考えた。
確かに、本来人を救うはずの戒律が人を苦しめている。そしてその苦しさから逃れようとますます勤行に励むが、その結果は、ますます煩悩にまみれた自分をそこに発見するだけである。興福寺でのあの苦しい日々、まじめに修行に取り組めば取り組むほどこの悪循環から逃れられない自分に気づくのが常であった。
「考えてみれば……」
興福寺の修行に耐えられなかった自分は、この答えの出ない悪循環から逃れるために、そのことを忘れるためにこの地へ逃亡してきたのかもしれない。父から逃れるためと自分には言い聞かせていたがそれはたんなる誤魔化しに過ぎなかったのか?
「でも今はそれなりに楽しい日々があるではないか」と彼は自分に言い聞かせはするものの、すぐに彼の良心の声が彼に囁き始めるのだ。
――しかし逃れられない人々はどうなるのか?
――彼らを放っておいて、お前は本当にそれで良いのか?
――自分だけ良ければそれでいいのか?
「わからない!」
苦しかった。激しい頭痛が彼を襲った。道端にしゃがみこむと彼は天を仰いだ。
「答えてくれ誰か!」――答えがほしい。いや答えを見つけなければ……。
彼は体を少し休めた後、再び立ち上がると長命寺へと歩を速めた。
やがて、長命寺坂下の集落にたどり着くと、彼は早速応水を探し始めた。
坂下者の集落は柵で囲われている。普通は中には部外者は入り込まない。特にそういう決まりがあるわけではないが、皆、そういうものだと思って、それで自然と調和が保たれていた。坂下者たちが凶暴であるとか根も葉もない噂のせいもあったが、それよりも、誰もが鼻をつまむであろう、あの悪臭のせいというのが、むしろ一番の原因ではなかったろうか。
住蓮も柵に近づくとその匂いにやはり一瞬たじろいだが、それでも近くのぼろ小屋に男がいるのを確認すると、彼に呼びかけた。
「応水殿はいずこかご存知か?」
呼び止められた男は、見慣れないよそ者に、不審さを抱いたのか、じろっと住蓮を見返した。少し離れた距離ではあったが、ひどい臭いが漂ってきた。住蓮は思わず息を止めた。
「あそこだ」
苦しそうな住蓮の表情を哀れむように、手で方向を指し示しつつ、そう一言吐き捨てると彼は立ち去った。
彼の指差した方向に応水の姿が見えた。
住蓮は、男が立ち去ると、一息深呼吸をした後、応水に呼びかけた。
「応水殿!」
応水は住蓮の声に気がつくと振り向いた。彼は昨日と同じ粗末な僧衣をまとっていた。
「やあ、お前さんか。ははは、よく来た。というか、多分来ると思っとったがな」
にこりと微笑むと、応水は気さくに彼を集落の中に招きいれた。
「さあ、中へ入って来い」
「中へ、ですか……」
柵で囲われた、というよりは隔離された、この手の場所に足を踏み入れるのは実は彼も初めてだった。しかしもう後には引けない。
――ええい、ままよ!
彼は柵の隙間から体を中へ入れた。中へと足を踏み入れるにつれ、臭気が強まり吐き気を催した。しかし、それでも中の人々は快活そうに行き交い、楽しげに会話を交わしている。彼らはこの闖入者を特に歓迎するでもなく、かといって無視するわけでもなく自然に迎え入れた。
戸惑いながら足を進めているうち、気がつくと応水は目の前にいた。
彼はまた微笑んだ。
「よう来たのう。そうじゃ、この中を案内するか。なあに、この臭い、すぐに慣れるわい。心配無用じゃ」
遠目にこれらの人々を見ることはあっても間近で接する機会は無かった。住蓮はそんな自分が何となく恥ずかしく感じられた。
近江の地の美しさと豊かさばかりを追い求めていた。荘園の中の比較的豊かな生活の影で、これらの人々がうごめいているのか……。
住蓮は、ふと考え込んでしまった。
「そもそも、こういった人々の犠牲の下に自分たちの豊かな生活が成り立っているのではあるまいか?」と、そんな疑問が湧いた。いや疑問と言うよりは、触れてはいけない事実というのだろうか……。わざと目を瞑っていなければならない現実というのだろうか……。
応水はそんな住蓮の思いを見抜いたかのように呟いた。
「寺からの施しがあると言うても、なーに、お情け程度のもんでな。――結局、寺もこの者らをいいように利用しているというわけだ。使い捨ての雑役夫としてな。寺の坊主らにとってここに囲っている者たち、こんな便利なものはない。真面目に黙々と働くからのう。無論、わしは、この者たちが、いいように使い捨てにならんように、寺に監視の目を光らせておる。しかしのう、それとて限界がある……」
と応水はそこまで言うと口をつぐんだ。そして、はあっとため息をつくと再び話し始めた。
「――まったく仏の教えを説いているものどもが、こんな無慈悲なことを平気でしよるのだ。全く許せんが、この者たちの食うもののことを考えると、そう簡単にわしも喧嘩は出来んからのう。――こんなわしに出来ることといえば、あとは……」
と、そこまで言うと応水は今度は目を瞑ると天に向かって合掌した。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。左様、彼らが阿弥陀様の救いに預かれるように、念仏の功徳を毎日彼らに説いて回ること。――老いぼれたこのわしに出来ることはそれぐらいじゃ」
彼は住蓮に向かってなおも語り続けた。
「五濁溢れるこの末法の世、結局人間の作ったこの濁りに人間が飲まれようとしておる。しかしこの濁りはここに居る者たちが作ったものか。ではあるまい、この者たちは犠牲となったものではないか?」
応水は遠く琵琶湖の対岸にそびえる比叡山を見やると
「のう、あの比叡の山の向こうに京の都がある。行ったことはあるか、おぬし?」
住蓮は突然の問いに「ありません」とだけ答えた。京の都へは足を踏み入れたことはない。奈良の都は寂れる一方であったが、平安の都はそれなりに美しい都なのであろうか…。
そんな感慨にとらわれている住蓮を見ると、応水は彼の心の思いを見透かしたのか、こう続けた。
「麗しい都の姿を想像しているにであれば大間違いであるぞ!---ひどいもんじゃぞ、都のありようは。この度の飢饉で、また多くのものが都の中へと流れたからのう。食うに困ったものが、都へ行けばなんとかなるかと、都へ集まるが、結局都へ行ったとて同じこと。飢え死にするしかない。鴨の河原には屍が溢れておる。それはそれはひどい光景じゃ。累々と屍が山積みにされておるのじゃから……」
「何と!」
住蓮は絶句した。京の都ですら。現実はそんなにひどいありようなのか、と思うと心が痛んだ。
「しかし、今の俺に何が出来るのというのか?」興福寺の修行に挫折し、逃げ出した、俺は所詮そんな無力な者に過ぎない…。
住蓮が最後には俯いて考え込んでしまった。---それを見ると、応水は、住蓮を元気付けようとしたのだろう、今度は急に明るい口調で話し出した。
「いや、何、破戒僧のぼやきじゃ。あまり気にするな。ああ、年をとるとぐちが増えて困るわい。---どれどれ中を案内してやろう。おもろい奴もおる。そうじゃ、忠助を紹介しよう。この村一の人気者じゃ」
そう言うと、応水は先に歩き出した。住蓮は何か自分の気負った気持ちをはぐらかされた気もしたが、それはそれでありがたかったし、この村の生活にも興味があった。というより、実際は今まで存在を知っていても眼を背けていたのであるが…。
「これからは何事をもまっすぐに見据えて、事実をありのままに受け入れ、逃げることなく立ち向かうべきだ」
住蓮はそんな思いに満たされると、何かしら自分の心がつよく奮い立つのを感じながら応水のあとに付いて行った。