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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第一部第十二章

「御身が応水殿であるか?」

 住蓮は尋ねた。ぼろぼろの僧衣をまとった男はゆっくりと振り返ると、不審そうな目で住蓮をしばし見つめたが、おもむろにこう住蓮に切り返した。

「ふーむ、確かに私が応水であるが、そちは何者かな?」

 そう言うと、にっこり微笑みながらも、住蓮の体をじろじろと眺めだした。

「何ともうさんくさい!」内心はそう思いながらも、住蓮は雑役婦の葬祭の件を手短に話した。

「左様か…」

 応水はそうとだけ答えると、そのまま黙って目を瞑ってしまった。

「こんな破戒僧にいつまでも係わっていては面倒なことになるやもしれぬ」

 住蓮はそう感じたので「では、あとのことよろしく」と言って、屋敷の場所だけ伝え、その場を立ち去ろうとした。するとそれまで黙っていた応水が突然しゃべりだした。

「まあまあ、確か、――名を時実殿と申したか、噂には聞いておった。あの佐々木家の荘園で働いておるとか……。なんともともとは興福寺での修行僧であったとか!立派なものじゃて!であれば、わしと少し話も出来よう。どうじゃ、ちと、わしも退屈しておったところじゃ。今日はさっぱり魚も釣れん。人恋しい日もあろうというもの。ちょっとばかりこの坊主につきあってはもらえまいか?」

 そういう応水の言葉は、耳にはやさしく響いたが、そう言いながらの目つきには眼光鋭いものがあり、時実--住蓮は、なぜかしらその誘いに”否”とは言い切れず、とりあえずここは彼の言うことに従うことにした。

 それになんと言っても彼はこの地では新参者であったし……。

 そこで「まあ、今後のことを考えれば、こんな坊主ともお付き合いだけはせねばならぬというものか…」と自分を納得させると

「では、しばらくだけ」

 と言って、住蓮は彼の傍らに腰掛けた。

「ははは、それでよい。それでよい……」

 応水は今度は笑顔で住蓮を見つめた。

 彼は年のころ五十歳ぐらいであろうか。遠目には、がりがりに痩せた貧相な顔つきであったが、こうして横に座って見ると、非常に思慮深そうな人柄を漂わせていた。また先ほどとうって変わった人懐っこそうな笑顔は、彼の温厚な人柄をしのばせた。

 穏やかな顔つきで彼は話を続けた。

「どうじゃ、ここの暮らしぶりは?」

 気軽に声をかけてくる彼に対して

「はあ、まずまず機嫌よく仕事はさせていただいておりまする」

 と、住蓮は卒のない返事を返しておいた。「やはりあまり係わり合いにならないようにしておくにこしたことはない」という彼の防衛反応からであった。

「それは結構なことじゃが……」

 と、応水は言葉を返しながらも、釣竿を持つ手に急に力をこめた。

「かかりよった!」

 と、応水は大声で言うと、釣り糸を引き上げた。

「おお、釣れたわい!」

 見ると小魚が引っかかっていた。応水は手際よく魚を針からはずすと、持ってきていた魚籠に放り込んだ。すると満足そうに笑みを浮かべて、

「さてさて、今日はこれで何とか腹が足りる。ありがたいことじゃ」

 と自ら呟くのであった。

 住蓮は呆れてしまった。――漁師の捕ったものを食べるとしても、戒に反するのだ。ましてや、自分の手で魚を捕らえて、それを食用にするとは……。腹が足りる、と満足するとは……。

 仏の教えを捨てた自分が立腹するのも筋違いかもしれないとは思ったが、住蓮は「それにしても、僧衣をまとった人間がかくもあからさまに!---坊主も落ちぶれればかくなるものか!」と、何か義憤に近いものを感じた。そこで、こんな破戒僧に関わるのはやはりもうこれぐらいにしないと、と思い、立ち上がるとこう告げた。

「それでは、私目はそろそろ……」

 そう言って暇乞いをしその場を離れようと歩き出した。

 すると、そんな住蓮の思いを見透かすかのように、毅然とした表情を見せると、応水は立ち去ろうとする住蓮に向かって、急に厳しい口調で語りだした。

「さてさて、おぬしはこう思っているのじゃろ。――何という坊主だ。破戒も甚だしい。こういった、だらしのない坊主共がこの国をだめにしているのだ、民を誑かしているのだ、とな……」

 住蓮は心に考えていたことをずばりと言い当てられて少しうろたえた。――彼は、返す言葉が見つからず、歩を止めると已む無く黙ってそのままその場で立ち尽くしていた。

 緊張した雰囲気がその場に漂った。すると、その緊張を破らんかの如く、今度は応水は急に「はははは!」と笑い出した。

 彼はひとしきり笑い終えると続けた。

「それでいのじゃ。それで!そう考えて当たり前。何せ、そちはあの修行厳しい南都興福寺で修行をつんだのであるからな!」

 と語り終えると、また元の厳しい表情に戻った。何か思案しているようであった。住蓮は困惑してただ黙っているよりほかなかった。

 しばし沈黙の後、さらに彼は語り続けた。

「しかしだ、のう時実。――この魚はわしの腹に入ってわしを養う。わしを生かすために死ぬのじゃ。すれば、次にはこうして生かされたこのわしはまた誰かを生かさねばならん、という定めにはならんか?そのためにはいずれ死ぬこともあろう。そう、死んでこそ誰かを生かせる場もいずれ出てこよう!物みな、それぞれ役割を持ってこの世に生を受けている。そして役割はいつか終わるときが来る。熟した果物の実は落ちて後、腐り、命果てた後、また、その種が根を出し、新しく樹木へと成長する。そして多くの実を結ぶ。わかるかな……。一粒の種は死ななければそのままだが、地に落ちて死に、新たに芽を出すことによって、その百倍も、千倍も多くの実を結ぶのじゃ……」

 急に真摯に語りだした応水を住蓮はただ黙って唖然として見つめていた。応水は今度は湖に向かって顔を向けると話を続けた。

「わしが意味もなく、ただ殺したい、という欲求だけでこの魚を食したのであれば、それは仏の教えに反するであろう。しかし、これは違う。生きとし生けるものすべて仏性あり。草や花にだって命はある。しからば命ある草や花にも仏がおられる。とすれば人間は何も食べてはいけないということか……。そんな馬鹿なことがあろうはずも無い」

 住蓮は言葉の重みにただ圧倒されて聞いていた。

「仏様の教えた戒律はそもそも人を活かすためのもの。仏性を目覚めさせるためのもの。人々を彼岸へと導くためのもの。であろう!しかし、昨今の南都北嶺の教えは、形式にばかり囚われてはおらんか。戒律、勤行、ああやらこうやら、と。しかし、飢えに苦しみ、生きることに絶望しておる、この今の世の多くの民衆を、この戒律が救えるのだろうか。彼らにきびしい修行を積めと言うのか。どうじゃ、おぬしはどう思う?」

 厳しい表情でこれらのことを語り終えると、一転して、応水は再び表情を和らげ、にこりと住蓮に微笑んだ。

「ははは、すこし喋りすぎたようじゃのう。いや、すまん、すまん。でも、何となくおぬしには一度話したかったのじゃ。話さねばならむと思っていたのじゃ。今日ここで会えて話が出来たのも何かの力、導きによるものであろうか!いや時間を取らせた。またこんな坊主でよければ、人恋しいおりに尋ねてきてくれ」

 応水はそう言うと、岩場を離れた。

 そのまま立ち去ろうとした彼だが、突然立ち止まると、何か思い出したように、急に歩を止めて振り返った。

「そうじゃ、肝心の葬送の件だが、――心配するには及ばん。わしがすべて手配する。荘園で待っておれ。すぐに連絡いたす」

 そう言い残すと、応水は足早に去った。住蓮はただただ圧倒され、茫然とするより他なかった。---やがて遠ざかる彼の姿は、松林の中に消えてしまった。

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