第三部第二十五章
這う這うの体で逃げ帰った秀能は、院の御所に戻ると早速安楽処刑の前後の様子をつぶさに、尊長、長厳に報告した。
「何という失態じゃ!」
怒り心頭の尊長、長厳が秀能を叱り飛ばしたのはいうまでも無い。それでも、よくよく考えてみると「犬神人の反乱が無かったのは不幸中の幸いではある……」とも、思うに至った。
彼にも容易に理解できたからである。彼らがもし蜂起を決起してたら、市中の念仏者もそれに同調し、都は大混乱に陥ったであろう……。
そうなれば、上皇の威信は地に堕ち、尊長、長厳も処罰の対象となりかねない。
「安楽の首を晒せなかったことだけ何とか言い逃れをすれば、責任は秀能だけに留まろう…」
そう考えたのである。
「しかし、残る一人をどうなさる?また犬神人らが騒ぎを起こすことは十分考えられようというもの」
長厳の問いに、尊長は暫く口を閉ざしていたが、徐に口を開くとこう答えた。
「かといって彼らに屈して釈放するわけにもいかぬ……。然るべき場所へ連れて行き、そこで始末するしかあるまい……」
現場で恐怖の体験をした秀能は大きく頷いた。
――あんな恐ろしい思いは二度とごめんだ!
そう思ったからである。
長厳もこの提案の全てを理解した。
「それがよかろう」
長厳の言葉を受けて、秀能もこう発言した。
「仰せの通りかと……。確かに、本来なら、あの住蓮も都人へ見せしめにすべこところ、しかし、今日の有様を見る限り逆効果でございます。民衆は熱狂し、安楽はまるで英雄でありましたから…」
秀能のこの発言に尊長は眉をひそめた。
「それはならん。あの者どもを英雄になど!恐怖の念を与えねばならぬというのに!」
尊重はそう言うと、続いて秀能に命じた。
「早速、残る一人を近江の国、我が領地、馬渕の地まで、密かに引っ立てよ。そしてそこで首を刎ねい!そこであれば、邪魔も入るまい。そしてしかる後、処刑の事実をお触書として都の辻々に立てればよかろう!」
秀能はそう言われると、「はは」と短く返事はしたが、早速という言葉の真意を確認すべく、戸惑いの表情を見せつつ、こう問うた。
「今日、今よりですか?」
もうあたりは暗い。夜道を、囚人を護送せよ、と言うのか?素朴な疑問だった。
尊長が秀能を睨みつけた。
「何をのんびりとした事を言っておる!盛高に脅されたのであろう。あの者、手強い。今晩にでも、獄舎が急襲されるかもしれんのであろうが!彼奴が策略を廻らす前にさっさと始末してしまうのじゃ!」
長厳も加勢した。
「そもそもがお主の体たらくのせいであろう!」
秀能に反論の余地は無かった。
「はは!」
秀能は二人に一喝されて、勢い良くそう返事すると、部屋を後にした。
それを見届けると、長厳がぽつりと漏らした。
「うまく始末がつけばよいが……。しかし、当初の目論見通りにはいかんようだな」
尊長が答えた。
「なーに、もう数日で院宣が下される。それで大元締めの法然は土佐へ、あの弁舌の立つ親鸞は越後へ流される。この二人がいなければ、念仏教団はあっという間に瓦解する。もう心配は要らぬ」
長厳も同意した。
「確かに、今ではあの親鸞こそが要注意とは言える。あの、弁舌、聡明な頭脳、あの者こそ本当は何とか死罪にすべきだったが……」
尊長がにやりと笑った。
「心配御無用、ははは、生きて都へは帰れますまい。それは私が保証しましょうぞ!手はすべて打ってありまする」
長厳は呆れた顔で答えた。
「本当に貴殿の悪巧みには頭が下がろうというもの、ははは!」
長厳の笑いにつられて、尊長も笑った。
「ははは!」
こうして二人はひとしきり笑った。
そして笑い終わると、最後に尊長はこう長厳に告げた。
「左様、これで、念仏に傾倒したあの東国武士の勢いも何とか抑えられるというもの。すれば、御上の目指す親政政治の実現はもうかなったも同然でありましょう!」
「まことに!」
二人の高笑いが御所内に響いた。
しかし、彼らは大切なことを見落としていた。ーー歴史を作るのは偉大な人物でもなく、またその時代の有力者達の陰謀でもない、ということを。
その時代時代に底辺で苦しみの声をあげている民衆が歴史を作るということを……。
左様、念仏教団の指導者を幾人死罪に処せようが、幾人流刑に処せようが、時代の流れは止められないのだ。――安楽の蒔いた命の種が、都の民衆の間では、この瞬間も大きく大きく膨らんでおり、もはやこの新しい仏教の流れ、時代の流れは止められないのだ、ということに、この二人の策略家は気付くことなく、満足げに各々の部屋へ戻るのであった。
二月、極寒の都に一陣の風が吹き抜ける……。
月明かりも頼りにならない、闇夜の、そんな都の、それもひっそりとした小路を……。
縄を打たれたまま馬に乗せられ、秀能らに護送される住蓮の姿があった……。
それも、皮肉なことに、彼の思い出の地、近江を目指して……。