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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第三部第二十四章

「終わったか……」

 何とも言いようのない静寂が周囲を支配していた。

 人々のすすり泣く声が聞こえる……。

 西方を見やると、茜色に輝く空が一段とその赤さを増したようにも見えた。そして、その夕日に照らされた鴨の河原も真っ赤に染まって見える。

 すると、そんな光景の中に、安楽の流した血も溶け込んで、もはやあたりは一面の朱色で染められてしまった。

 まるで、彼が西方浄土へ招かれたかのようである……。

 誰しもがそう信じたであろう。

 それはあまりにも荘厳な景色であった。人が立った今、処刑された現場とは思えない、そんな重々しくも、きらびやかで、美しい光景だった。

 誰もが、すすり泣きつつも、そんな荘厳さに身動き一つせず、この偉大な仏教者の遺体の処置を見守っていた。

 首はしばらくはさらされるだろう、しかし……。

そうはさせまいと犬神人達が動いた。

「われらの手で荼毘にふそうぞ!」

 源太が皆にそう声をかけた。

 彼らは、安楽の生前の願いどおり、秀能らの処刑の一部始終を黙って見届けていたが、こと、ここに至って、我慢の限界に達したのである。

 彼らは、安楽の死骸を奪取せんと、秀能らを取り囲んだ。

 そのあまりの気迫のすさまじさに、秀能らは後ずさりをすると、そのまま、一目散に退散してしまった。

「命があるだけでもいいと思うがよい!」

 逃げ去る彼らの背中に、源太らは罵声を浴びせた。

 源太らは、秀能らが這う這うの体で逃げ去るのを見届けると、次には安楽の死骸を、彼らの里に持ち帰らんと準備を始めた。

「安楽殿、見事な往生であったぞ!」

 源太の声が河原にこだました。

 皆がまた嗚咽にのどを詰まらせた。

 偉大な仏教者の最後に人々はただ涙するよりほかなかったのである。

 そして念仏の声が……。

 誰からというのでなく、自然と念仏の唱和が再び始まった。

 何とも美しく悲しい旋律となって、それは……。

 数日も都中に響き渡った、と……。

 とある歴史書にはある。

 さて、同じように、感慨深く、やはりその一部始終を見ていた盛高であったが、彼は、ふっと我に返ると、意を決し、馬にまたがると五条の橋を渡り始めた。自分も刑場へ赴こうとしたのである。

そんな彼の表情も清々しく見える。

 一人の人の命が絶たれたというのに……。

 それもあれほど心を許した友の死であるのに……。

 それなのに、なぜか心は悲しみで溢れるというのでなく、むしろ彼の死に様の、あまりの神神しさに清められた、というのであろうか……。

 自分がそうしようと思う前にすでに体が動いている。

 否動かされているのだ!大きい力に。限りなく大きな力に……。

 口も自然と開いた……。

 彼は躊躇することなくこう叫ぶのであった。

「行くぞ!」

 盛高の言葉に、清兵もその後を追った。群集が騒然としている中を、かき分けると前へ進み出て、橋の袂へたどり着いた。

 そこから南、六条の方を見やると、河原では、犬神人たちが、完全に処刑場を占拠している。そして彼らが安楽の死骸の、その後の処置をしていることも伺えた。

 そして刑場から追い出された、秀能以下の院の武士たちが、一目散にこちらへと走ってくるのも見える。

彼らはついに五条の橋に到達したが、そこで盛高が率いる放免、河原者の一群が、彼らの行く手を阻んだ。

秀能は完全に狼狽していた。ーー本来なら安楽の首を晒すべきだが、もはやそれが出来るような状況では無い。そんなことをしようものなら、彼ら犬神人らは再び攻撃的となり、我らに刃向かってこよう。彼らの命はもはやあるまい。

 ――しかし、このまま帰っては御上が……

 左様、許されるはずはなかったろう。ーー首をさらしてこそ、処刑の意味があるのだ。

 このままでは、偉大な殉教者として民衆の手で葬られてしまう…。

 それでは、此度の尊長、長厳らの謀略の意味が全く無くなってしまうのは、彼の頭にもすぐに理解できたからである。

 そこへ、今度は盛高が姿を現したのである。

「…」

 彼は頭が混乱して言葉を失って、ただ盛高を見つめていた。

 ――ひょっとすると応援に来てくれたのであろうか?

 と、そんな都合の良いことを内心思った瞬間であった。

 盛高は、さらに馬を進めると、秀能を見据えてこう言い放ったのである。

「このまま帰られよ、秀能殿!」

この言葉の気迫に押され、秀能はその場についにへたり込んでしまった。

「……」

 秀能は身動きできずにいる。

 盛高が、四人の逮捕の後行方をくらましていたのは知っていた。彼が念仏者たちと親交を持っていたため、わざと遠ざけていたこともあったが、おそらくは、念仏者への弾圧が始まったのを知って、洛外へ逃げたものと思っていたのである。

ようやく落ち着きを取り戻すと、秀能は声を振り絞って、こう言い放った。

「盛高、そちが拙者に命令を出来る身分か!」

 秀能は必死の思いで、声を震わせながらもそう反論した。

 彼には上官としての、彼なりの最後の意地があったのである。

 盛高はしかし冷静であった。そして、また、どこまでも威圧的であった。

彼は秀能に言い放った。

「よいから、今日はこのままお引取りになられよ。命は奪わぬ!それは安楽が望まぬこと、我ら安楽の意思を踏みにじろうとは思わん!源太さん、そうであるな?」

 いつの間にか、傍らで源太が二人のやり取りを聞いていたのである。ーー盛高が秀能と対峙していることを仲間から聞かされた彼は、盛高の応援をせんと、腕に自信のある犬神人を率いて、ここまでやって来たのだ。

 盛高から問われて、源太も頷いて同意を示した。ーーただその表情はすさまじいほどに殺気立ってはいたが……。

 一方秀能は沈黙を守ったままだった。ーー上官としての勢いは一瞬に消え去った。二人に睨まれ、気迫でも押されて、体はがたがたと震えている。

「……」

 秀能がもはや反論できぬのを見て、盛高はさらに言葉を続けた。

「安楽の遺骸、彼ら犬神人に任せよ。彼らが手厚く葬るであろう。それとも、どうしても、彼の首、晒しものにしたいと仰るか?であらば……」

 と、言うと、盛高は刀に手をやった。

「どうしても、というのであれば、この盛高を斬られてからになされ!」

「……」

 秀能は、ここに至って、もう足腰ががくがくと震えて、心臓は動悸が激しく今にも口から飛び出そうな勢いだった。

 暫くすると、秀能は盛高から目を逸らした。彼は、周囲の者に目配せすると、言った。

「退散するといたそう」

 と言うと、彼らは、盛高、源太らの冷たい視線を背中に受けながら、這々の体でその場を抜け出した。

 その後姿を見やりながら、盛高は秀能に大声で呼びかけた。

「伝えられよ!尊長殿、長厳殿に!――この盛高、あきらめませぬと!」

 その言葉を聞いたか、秀能の歩みが一瞬止まった。

 盛高はその背中に向かって、再び呼びかけた。

「是非とも伝えられよ!この盛高、必ずや我が友、住蓮の身をいただきに参りますとな!必ず!」

 盛高の新たな院への宣戦布告はこうしてなされた。

 御上への公然たる反逆の宣告であったが、彼の心に悔いは無かった。安楽の死によって得られた大切な何かに比べれば、自分の運命、行く末などどうということはないと、何故か余裕を持って感じられた。

 また、まことの念仏者となろう、と心に思ったことが誇らしく感じられた。迷いは全く無かった。

「清兵」

「はい」

 秀能らの姿が見えなくなると、彼は清兵に尋ねた。

「私も良き念仏者になれるか?」

「はい?」

 予想外の質問に清兵は驚いたが、すぐに、はっきりとこう答えた。

「勿論でございます!いや、というか、すでになられたでありましょうとも!」

 盛高は清清しい顔で清兵に微笑みかけた。

「ありがとう!住蓮の命、今度は失敗の無いように、何としても救おうではないか!我ら力を合わして!」

「はい!」

 改めて河原を見やると、安楽の遺骸を片付け終えたのであろう、犬神人らは行列を作って、彼の遺骸の搬送を始めようとしていた。目指すは鳥部野、そこで荼毘に付そうというのである。

 源太が盛高に声をかけた。

「一緒に来られるか?」

「勿論」

共に六条河原へと急いだ。ーー気がつくと、ゆき、次郎、三郎も傍にいた。皆涙顔である。

 葬送の一団の元へ到着すると、安楽の遺骸に向かって皆は改めて手を合わした。そして源太が遺骸に語りかけた。q

「安楽殿、皆が来てくれた。皆がな……」

 ゆきは盛高に抱きつくとさらにいっそうの涙を流し始めた。すると、そこへ突如聞きなれた声がした。

「わしも行くぞ! 」

声のする方を見て、ゆきが声を上げた。

「あれは応水様!」

 確かに、応水であった。彼も今日一日、事の成り行きを遠くから見守っていたのである。

「安楽の遺骸、私が荼毘に付そう」

 応水は皆の輪に加わると、そう言った。ーー無論反対する者がいようはずは無い。

「応水様に見送ってもらえば、安楽様も安心でしょう」

 涙ながらのゆきの言葉に皆は頷いた。

 こうして準備が整うと一行は出発した。

 成り行きを見守っていた対岸の群集から、念仏の唱和がまた始まった。その声に見送られて、鳥部野へ向かう行列は、ゆっくりとゆっくりと進んでいった。

 多くの命の種を蒔きながら……。

 ゆっくりと、ゆっくりと……。

 何故ならば……。

 その日、盛高のみにとどまらない、新しく念仏者となった者は数知れぬと、時の書物には書かれている……。

 安楽の堂々たる往生の姿に感銘を受けて念仏者となった者の数、それは、数百、数千とも噂された。

 左様、安楽は死して生きた、すなわち新しい多くの命、真摯な念仏者の誕生をもって……。

 そしてさらには……。

 彼ら名も無き民衆の一人一人が、長きにわたり心の信仰をしっかりと保ち、その後も続く念仏者への弾圧にも屈せず、命を賭して戦ったからこそ、専修念仏の火はその後も絶えることなく、脈々と守り続けられたのである……。

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