第三部第二十三章
「おお、安楽様だ!」
鴨川の対岸からも、犬神人たちが口々に声を上げている。
縄打たれた罪人が、堂々と進んで歩く姿は、それだけでも十分見る者の目を困惑させた。
そんな混沌の中、安楽はさらに前へ進み出た。---皆固唾を呑んで成り行きを見守っていた。院の武士たちは、犬神人を前に、がたがたと震えるばかりの有様であったから、彼は何らの束縛を受けることも無く、さらにさらにと、橋の袂へと進み出た。
落ち着き払った堂々とした態度と、その表情の神々しさに、秀能以下の院の武士らも圧倒されるばかりであった。彼らは、ただ成り行きを見守るばかりであった。
安楽は誰にも遮られることなく、ついに源太の前まで進み出た。おぼつかない目ではあったが、ようやく目の前に安楽の姿を確認すると、源太が声を上げた。
「安楽殿、無事か?」
安楽は久しぶりに聞く仲間の声を懐かしく思ったのか、にこっと笑った。
「源太さん、ありがとう、元気だ」
そう答えると、安楽はさらに一歩前に進み出た。そして二人は抱擁を交わした。ーー共に涙を流しながら。
抱擁が終わると、源太は安楽に涙声で言った。
「さあ、安楽殿、もはや自由じゃ。わしらのところへ来なさるがよい!」
しかし、そんな源太の呼びかけに反して、彼は、にこりと微笑むと、こう返事をするのであった。
「気持ちはうれしい、源太さん。しかし、どうか、このまま見守って欲しい……」
予期せぬ言葉に源太を始め周囲の犬神人らは驚きの表情を呈した。
「安楽殿……」
源太も戸惑いを隠せない。
そんな源太に向かって、安楽はさらに言葉を続けた。
「源太さん、私の往生を見守って欲しいのだ。皆で……。仲間に見守られて往生を遂げられれば、こんな幸せがあろうか」
源太は、安楽の、この予期せず言葉にしばし絶句したが、すぐにこう反論した。
「安楽殿、馬鹿を言うでない!我らこうして安楽殿を……」
助けに来たのに!――と言いたかったのだが、安楽の言葉がそれを遮った。
「源太さん!」
安楽はそう叫ぶと、源太に再び歩み寄った。
両者のすぐ近くには、実は秀能が刀を持ったまま、そこに立っていたのであるが、彼も神人に近づくのは恐ろしく、ただじっと成り行きを見守っているばかりであった。
安楽はそんな秀能の姿を見やりながら、さらに言葉を続けた。
「源太さん、気持ちはうれしい。なるほど、今はこうして御上の軍勢も手も足も出ない状態だが、私がここから逃げ出せば、源太さんらは謀反人となる。そんなことはあってはならない。それに、私は今日は助かっても、所詮いつまでも逃げられまい。いずれまた捕まるであろう。源太さんらも全員死罪となろう。所詮は逃げおおせられるものではない、御上に弓を引いたとなれば……。私はともかく、皆の命までも、それだけは避けなければ!」
安楽の説得に源太は押し黙ったままでいた。安楽の言うとおりであり、反論は出来なかった。
安楽は続けた。
「源太さん、今ならまだ大丈夫。どうか、お願いだ。皆を連れて帰ってくれ!そうすれば、ここにおられる秀能殿も、そちらを後日追及することはあるまい」
安楽の気迫に押されて黙っていた源太であったが、ここに至ってその重い口を開いた。
「安楽殿、我ら命を惜しいと思ってはおらん。死ぬなら共に死のうぞ!と駆け付けたのだ!それに悔しいではないか!女犯などという濡れ衣で……」
安楽は、そこで源太の言葉を再び遮った。
「源太さん、私はそんなことを気にはしていない。弥陀は真実を知って下さっている。こうして死罪を申し渡されても、誰に何の恨みも持っておらぬ。弥陀が分かってくださればそれだけでいいのだ」
そこまで言われてしまうと、源太ももはや反論できなかった。
「……」
黙っている彼に向かって、安楽はさらにこう言って、彼の言葉を締めくくった。
「人間いつかは死ぬ。しかし私は、此度は生まれ変わるのだ。いや、弥陀が新しい命をくださるのだ。なんというありがたいこであろうか!それこそ往生、往きて生きる、そして弥陀は悪しき輪廻を終わらせてくださる。何と素晴らしいことではないか。それを皆で見守ってくれ!」
源太は、安楽からこう告げられ、暫く下を向いたまままでいたが、漸く頭を上げると、はっきりした口調でこう言った。
「承知した!」
二人は再び抱き合った。
誰も止める者はいなかった。二人の目からは大粒の涙が溢れ出した。ーーずっと二人のやり取りを聞いていた、他の犬神人も、また、その場にとどまっていた民衆達も泣き始めた。
盛高も遠くからではあったが二人のやり取りを聞いて、大きい感動に包まれていた。
――生きるとは何だろう。
――そして、死ぬとは何だろう。
自分自身は、今まで念仏信者に囲まれて、彼らの生き方にある種の感銘を覚えて、自らも仏の道を歩んでいこうと、漠然と感じていたことは事実である。
しかし、それはまだまだ感傷的な次元のものだと言うことを、今ここに、彼は思い知った。念仏に生きることの意味を、今は心の底から湧き上がる感動と共に、ようやく理解し得たと、彼は確信した。
確かに自分も何度も死ぬ思いを乗り越えてきた。そのため死に対する恐怖をそれほどは感じていなかった。
しかし、今、安楽の言葉を聞いて、自分が恥ずかしくなった。彼が崇高な信仰心で死の恐れを克服しているのと比し、何と己の心の貧しいことか!
――私も真の念仏者となろう
ごく自然にそんな気持ちが心にわきあがった。
見かけの強さではない、心の強さ――それを持ちたい。
――念仏は人を真に強くするもの、まことの生きる力を与えるものなり!
今、安楽の言葉を聞いて、漸くそれを悟った。
彼は涙ぐんだ。悲しいのではない、あまりにも大きい感動に心動かされたためだ。
見守るすべての人も同じ気持であったろう。
泣き声があちこちで聞かれる……。
すすり泣きがいつまでも続く中、安楽は源太から離れると、今一度源太にお辞儀した。次に後ろを振り向くと、呆然と立ち尽くす秀能に向かって声をかけた。
「秀能殿、もう大丈夫です。何の心配もございません。彼らは私に最後の別れを告げに来ただけのこと…。他意はありませぬ。今、その挨拶もすませました……。どうぞ、秀能様、決められたとおりにお勤め果たされよ!」
秀能は突如声をかけられどぎまぎした。
――拷問で責め苦を与えた張本人である自分に向かって、何と言う心の余裕であるか!
秀能はどう答えていいものか分からず、暫く黙っていた。
安楽がそれを見て、彼を促した。
「さあ、どうなされた?お勤め果たされよ……。ただ、一つお願いがござるのだが…」
秀能は戸惑いの中、催促されて、漸く言葉を発した。
「願いとな?」
安楽は頷くと、しっかりとした口調で答えた。
「左様、願わくば、念仏数百篇の後、最後に十念を唱えさせていただきたい。その後に我が首刎ねられよ」
秀能は思わぬ提案に、さらに戸惑いを深くし、どう答えていいものか思案するばかりであった。
「……」
秀能は困ったことになったと思った。正式にはまだ高声念仏の禁止の宣旨は出されていなかったが、いずれ宣旨が出されることを承知していたからである。そんな状況で、念仏百篇を認めるのはどうか……。
しかし、今の状況で、彼がそれを拒否出来る立場ではないことも分かっていた。もしこの提案、拒否すれば、折角おさまりかけた犬神人の怒りが爆発するであろうことは一目瞭然であった。
彼もようやく覚悟を決めた。
「承知した。已むをえまい……」
短くそう答えると、秀能は護送の隊列を再編成した。震え上がって、立ちすくんでいた武士達も、事の成り行きを見て、ようやく落ち着きを取り戻すと、隊列を整えて、再び処刑場へと行進を始めた。犬神人の隊列は一旦退いたが、それを見守りつつ、今度は隊列の後を追った。
散り散りにされた民衆も戻ってきて、皆がそれを見守っていた。ーー啜り泣きの声がそこかしこで聞かれた。
漸く一行は六条河原に到着した……。
処刑の準備が淡々と進められた。ますます多くの群集が集まった。河の対岸にも人が溢れ、鴨川に多くの人が弾き飛ばされんばかりであった。
処刑の準備が終わると、安楽は、西方を向かされ、川辺に引っ立てられた。対岸の群集への見せしめとして、わざとその場所に立たせるのである。
処刑場のすぐ周りは、大勢の犬神人、河原者らによって完全に包囲されていた。武士達は彼らがそれ以上近寄らぬように刀を抜いて、警護には当たっていたが、処刑が無事終わっても、彼らに襲撃されるのでは無いかと、内心怯えるばかりであった。
「いよいよであるな……」
秀能の言葉が響く。安楽は頷いた。
「阿弥陀様よ来てください…」
こう呟いて、覚悟を決めて、大きく深呼吸をした安楽だが、ふと右横を見ると、源太の姿が最前列に見えた。安楽は大きくお辞儀をした。次に左を見た。するとゆきの姿が見えた。安楽は続けて彼女にもお辞儀をした。
こうした、彼の落ち着いた態度に感銘を受けたのであろう。群集の啜り泣きの声は、一段と大きくなった。泣き叫ぶ者も出てきた。
源太も大声で泣いていた。
そんな雰囲気に押されて、秀能は気力も萎え、たじたじの体であったが、それでも何とか力を振り絞ると、彼は、安楽の傍らに近寄ると、約束どおり安楽に最後の念仏を許可すべく、彼にささやいた。
「よろしいぞ、安楽殿」
安楽は秀能にも深々とお辞儀をした。
「かたじけのうござる」
そう言うと、安楽は前を向いた。すると対岸の群集が目に飛び込んできた。彼らにもお辞儀をした。
見ると、最前列には友の姿がある。
――あれは、三郎、次郎、それに盛高殿も……。
彼は彼らににこりと微笑んだ。
――ありがとう、見守ってくれて!
大きな安堵感に包まれ、彼はいよいよ覚悟を決めると、合掌し、目を瞑って念仏を始めた。
夕焼けの美しい西方に向かって……。
西方浄土が彼の目に映ったであろうか?
それを見守る群衆も彼の念仏に唱和した……。御上の命を守る者はいない。
夕焼けの空がさらにその茜色を増した、とそう記録にある。
さらに後世の記録によれば、この日、この念仏唱和の声は都中に響き渡ったという……。それはとてもこの世の物とは思えぬ響きであったとも……。
こうして、どれだけの時間が経過したであろうか。短いと感じた者もおろう、長すぎると感じた者もおろう……。
そして弥陀はこの瞬間を果たして西方から見ておられたであろうか……。
何処におられたであろうか……。
皆がそれぞれの感慨に浸る中、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀〜仏」
安楽が最後の十念を終えて口を閉ざした。
次に彼はその場に正座すると頭を垂れた。我が首刎ねられい、という合図であった。
首切り役の放免が背後から近付くと刀を振りかざした。と、もう次の瞬間であった。彼の打ち下ろした刀が鈍い音を立てた。
「あっ!」
人々の叫ぶ声が響き渡った。一瞬の静寂の後、その声の多くは直ぐに泣き声に変わった。
鴨の河原が血に染まった。
夕陽の輝きが一段と増したための、目の錯覚であってくれれば、と見守る全ての人が思ったであろう……。
「安楽様!」
多くの人の叫び声と、鳴き声、そして怒号が刑場に響き渡った……。
偉大な仏教者がこの日、かくして往生を遂げた。今様を愛し、常に笑顔を絶やさず、民衆と共に歩み、日の当たらぬ世界の人々、多くの河原者達、そして犬神人らの中に入り、彼らと苦楽を共にし、彼らの救いを求めて、ただひたすら弥陀の本願を縋り、六時礼賛興行にその人生の大半を捧げた、偉大な信仰の人……。
かくして、彼の首は死して地に落ちたが……。
しかし直ぐに、その首は種となった。
そして、やがて芽を出すのである。
何百、何千もの多くの新しい命を生みだすために……。
――左様、弥陀の本願に縋った人は、こうして死して後も生き続けるのである!
いつまでも、決して朽ちることなく…。
そのことを、秀能始め、この弾圧を目論んだ人々は理解する術を持っていなかったが……。