第三部第二十二章
「このようなことになろうとは……」
異様な緊張感のみなぎる中、橋の西のたもとでは、盛高は予想していなかった展開に、今後の方策をどうすべきか思案していた。
――まさか、これだけの民衆が彼らのために立ち上がろうとは!
左様、暴動寸前ともいえる、このような民衆の抵抗運動が起きることを予測していなかったのである。
この思いも寄らぬ展開に、盛高の安楽、住蓮奪還計画は頓挫してしまった。
「さてどうしたものか……」
当初の計画では、安楽、住蓮らの護送の集団が五条の橋を渡り始めたところで、東側を源太を中心とする犬神人ら、また西側を次郎、三郎らを中心とする放免、河原者の一団、が占拠することになっていた。そうすることで、彼らの護送を妨げ、混乱に陥ったところを、盛高らが急襲し、二人を奪還するというものだった。
しかし、民衆の暴発により事態は思わぬ展開となってしまった。
この混乱の中、三郎は何とか盛高のもとに駆けつけると、興奮しながら彼にこう伝えた。
「盛高様!いかがいたしましょうか?安楽様はもう橋の真ん中で身動き取れぬ状態、また、住蓮様は一体どこにおられるものやら、姿が確認できませぬ。まだここには到達していない様子、もうどうなってるのやら……。多くの民衆が道に溢れ、たいへんな騒ぎで、まったく収集がつきませぬ!」
「うむ……」
盛高も、事態の意外な急展開に咄嗟にはいい知恵も浮かばなかった。
すると、橋の西側の方からである。突如民衆の叫び声が聞こえてきた。
「御上の軍勢だ!」
「逃げろ!」
「かなりの数だぞ!」
「捕まったら大変だ!」
あれほど気勢を上げていた群集であったが、まるで戦とばかりに、鞭を振るって馬を駆ってくるものものしい数の軍勢を見ると、すぐに散り散りになってしまった。
「しまった!」
盛高は舌打ちした。ーー院の軍勢の応援は、これも計算外だった。
民衆が散り散りになり、今や、視界の開けた五条の大路の向こうを見ると、西の方向から、馬に乗った一群の兵団がこちらへ向かってくるのがはっきりと見える。ーーさらに目を凝らして見るとそこには、取り残されていた住蓮の護送の一団も見えた。
「あっ」
と、盛高が思う間もなく、軍勢の一部は護送の一団を取り囲んだ。そして西側へと向きを変え、引き返そうとしている。
「ああ、住蓮様が連れて行かれる!」
三郎が叫んだ。護送の一団の姿はどんどんと遠ざかる。ーーおそらくは獄舎へ引き返すのであろう。
盛高は地団太を踏んだ。
「遅れを取ったか!」
悔しがる盛高の目に、すると、今度は馬を駆る秀能の姿が飛び込んできた。ーーもう目の前に迫っている。すると次には、秀能率いる一団は、盛高の前をあっという間に通り過ぎた。
あまりの展開の速さに盛高はなすすべも無く立ち尽くしていた。
秀能の一軍は、勢いよく橋に突入した。
しかし…。
勢いはそこで止まった。彼らはそこで立ち止まざるを得なかった。ーー橋の上にはまだ多くの群衆が取り残されており、馬を止めざるを得なかったのである。
「えーーい、立ち去れ!立ち去れ!ーー御上に反逆するのか!皆、死罪であるぞ!」
秀能は馬上で大声を上げた。
群集も、ここに至ってようやく、一時の興奮状態から脱したようだ。新たな院の武士達の、ものものしい登場に、橋からも民衆は撤退を始めた。中には川に飛び込む者すら出てきた。
秀能らの一軍は、じりじりと距離を詰めて、安楽の護送の隊列に近づいて行った。ーーそしてついにほぼ目と鼻の距離のところまで近づいた。
「もはやこれまでか…」
盛高はため息をついた。
安楽の救出も難しくなったのは誰の目にも明らかであった。応援に駆け付けた兵の数は数十はいるであろうか?対するにこちらは盛高以下、放免が十数人である…。多勢に無勢であった。
「しかし…」
と盛高は思い直した。
ーー命を賭して来たのではないか!悔いの無いように立ち上がろう!
盛高は迷いを吹っ切った。
彼は三郎を見据えると、しっかりした口調でこう尋ねた。
「三郎、覚悟は出来てるな?」
三郎も、はっきりとそれに答えた。
「当たり前でさ!」
盛高は言った。
「少し作戦変更となるが、よいな!――こうなっては、もはやただ突入するのみ!三郎、持ち場に戻って、次郎達にも伝えよ!私の合図を待てと」
「承知!」
と力強く答えると、三郎は、次郎に率いられた放免達の元へ駆け戻った。彼らは、手に手に武器を持ち、盛高の号令一下、一気に橋上へ踊り出さんと、手ぐすね引いて待機している。三郎が次郎に耳打ちすると、次郎は大きく頷いた。ーー準備は整った。
「まずは、安楽を救出せねば!」
覚悟を決めると 盛高は鉢巻を締めなおした。そして清兵に命じた。
「行くぞ!」
「はい!」
清兵も素直に応じた。
「御仏のために死ねるなら本望です。私が盾となりましょう!盛高様は死んではなりませぬ。生きて、住蓮様をも必ず助けてあげてください。お願いします!」
盛高は、この従者の暖かい主君思いの言葉に、熱いものを感じた。
「わかった、任しておけ!」
そう清兵に言うと、不思議と自分の体に力がみなぎってくるのを、盛高は感じた。
――運があれば、この命永らえて、次に住蓮をも助けられよう
見ると、橋の東側では、源太率いる犬神人の一団と、急ぎ駆けつけた秀能率いる院の武士集団が、すでに対峙している。
しかし…。
対峙こそしていたものの、各々の士気の優劣は明らかであった。
犬神人らの一団は、源太を先頭に、勢いは衰えるどころか、秀能ら武士集団を睨みながら、どんどんと間合いを詰めていく。
一方…。
秀能ら院の武者集団も、ここまでは勢いで、また院の威光を盾に、馬を走らせ群衆をも蹴散らしてきたが…。
ここに至って、武器を持った犬神人の一群と対峙するに至り、その勢いはたちまちに萎えてしまった。それどころか、さてどうしたものかと、実は内心おろおろするばかりであった。ーー彼らは源太らの勢いに押されて、じりじりと後退を始めた。
勢いを失った理由は簡単であった。
左様、彼らは祟りを恐れたのである。――彼らを切れば、祟りは必定、と当時の者であれば、誰もがそう考えたであろう。
「……」
重々しい静寂の中、両者の睨み合い続いた。――おそらくこの睨み合いが長く続けば、それだけで、両者の勝負は、犬神人たちの勝利に終わったかもしれない。そう、秀能たちは尻尾を巻いて、逃げ帰ったであろう。ーー盛高も両者の対峙している状況を見て、「これなら勝てるやもしれん」と、すぐにそう感じた。
彼は言った。
「清兵、少し待て!」
盛高は、今にも飛び出さんばかりの勢いの清兵を押しとどめた。
「我らが出番は必要無いかもしれぬ……」
異様なまでに静寂と緊張が漂う中、源太が一歩さらに前へ進み出た。すると後の者もそれに続いた。ーー彼らは何かに取りつかれたように、前へ前へと進んでいった。駆り立てられるように…。何か、より大きな力によって……。
「これも御仏のなせるわざか…」
そう盛高が感じた、まさにその時だった。
源太が右手を大きく上げて叫んだ。
「えーい、えーいおお!」
すると、犬神人の一団もそれに続いた。
「えいえいおお!」
一斉に上がる鬨の声は、天地に響かんばかりであった。
ここに至って、院の武士達は、すっかりひるんでしまい、その場にへたり込む者、さらには逃げ出す者も出てくる始末である。
手を刀にやってはいたが、犬神人への恐れから、抜く気力は持ち合わせていなかった。彼らは総崩れとなりつつあった。
「頑張れ源太さん!もう一息の勝負だ!」
そう、心に念じた盛高の思惑通りに、もう少し源太らの行進が進んでいれば、院の武士らは総崩れとなっていたかもしれぬ……。
と、その時であった……。
人間の思惑と違う、何かの大きな意志がその場にまた、新たな展開を命じたのであろうか……。
事態は意外な展開をここでまた迎えることになる……。
突然、大声が響いた、
「駄目だ!駄目だ!止めるんだ、源太さん!」
皆が声の方角を見やった。
盛高もである。その声の主を確認すると、彼は呆然として、こう呟いた。
「安楽……」
左様、そこには安楽の姿があった。 ーー無論、手に縄をされたままの姿で。
「安楽様!逃げてください!」
次郎が叫んだ。なるほど、すでに警護の者の姿もなく、その気になれば逃げることも可能であったろう……。
「安楽様、早く!」
放免達も次々に叫んだ。ーーしかし安楽は逃げようとはしなかった。
いや、それどころか源太に近づいて行こうとしている…。
「安楽、何を考えているのだ?」
戸惑う盛高の目に、その表情は清清しく、神々しくも見え、それは、一瞬、美しい仏像の表情のようにも見えた。