第三部第二十一章
安楽、住蓮はいよいよ処刑の日を迎えても、心の動揺は無かった。
――念仏の功徳を説いて、死罪に処せられるのであれば、むしろそれは喜ぶべきこと。
二人の思いは一緒だった。弥陀の本願に自らの身を委ねた、絶対他力の念仏の世界で、二人はすでに死の世界を超越していた。
「往生とは、往きて生きることなり。また輪廻を断ち切ることなり」と、そう信じて、六時礼賛興行に全てを捧げてきた半生であった。「何の悔いも無い」というのが、彼らの偽ざる心境であった。また、「弥陀の本願のために死ねるとは、なんとありがたいことか」と、わが身の有難さをかみしめるのでもあった。
女犯――まったく根拠の無い罪で死罪に処せられることも、彼らには苦痛ではなかった。
――弥陀は全ての真実を見抜いておられる。
すべてに感謝の念で心は満ち溢れていた。中でも、恩師の法然上人への感謝は並々ならぬものであり、師が流罪になることが決まると、流罪先での生活は大丈夫だろうかと、自らのことよりもそちらを案じて、夜も眠れない日を過ごしてもいたのであった。
嘘の供述をして刑を免れた、仲間の二人に怨みも持たなかった。
――彼らも辛かったのであろう。
むしろ、彼らのことを思いやったのであった。
そして、今まで自分たちを支えてくれたすべての人、ゆきを始めとした河原者たち、次郎や三郎ら放免の者たち、ほか、念仏説教に耳を傾けてくれたすべての人々に、限りない感謝の気持ちを持って、日々念仏三昧の日々を送ってきた。
それら、この世での全てのお勤めが今日終わろうとしていた…。
白装束が準備された……。いよいよである。放免の太い声が獄舎に響いた。
「安楽、住蓮、覚悟いたせい!」
二人は縄を打たれ、牢の外へ出された。そして縄打たれると、厳重な警護の隊列下、都大路を引っ立てられた。
向かうは六条河原_。
獄舎を出ると、日の眩しさに目がくらんだ。すでに多くの都人たちが、哀れな罪人を見ようと、この獄舎周辺にまで押しかけていた。
彼らの多くは同情的であった。中には涙する人も多かった。ところが、中には「この色坊主め!」と叫びながら、石を投げつける者もいた。すると、「何をする!このふとどき者め!」と、それを諫めるものも出て、周囲は騒然となった。
そんな喧騒の中を、見せしめのためでもあったが、行列はきわめてゆっくりと、都大路を進んだ。
五条の大路に差し掛かると、しかし、様相は一変した。
怒号の飛び交う周囲の喧騒が落ち着きを見せた。代わりに、安楽、住蓮の耳には、秩序だった、美しい、念仏の大合唱が聞こえてきたのである。
「……?」
二人は耳を疑った。
ついに五条の大路に出た。すると、そこで目に飛び込んできたのは、手に数珠を持つ、数え切れない群集の姿であった。――しかも皆が、大声で念仏を唱えているのである。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」
皆、無心である。住蓮、安楽は感極まって涙した…。
「皆、ありがとう。見送りに来てくれたんだね」
住蓮、安楽の目にも感謝の涙が溢れた。--自分たちの蒔いた仏の命が、こんなにも多く実を結んだのだと、阿弥陀仏の命の力、その偉大さに改めて感銘を受けた。ーーここに至って、二人の命は仏の命と混然一体となった。もはや死は二人の前に何等の意味も持ってはいなかった。いや、より正確に言えば、阿弥陀仏の前にあって、死は敗北したのである。
「えーい、やめんか!」
護衛の武士、放免達がたしなめるが、群衆はまったく怯むことは無かった。―この時点ではまだ、高声念仏の停止の宣旨は正式には出されていなかったのである
安楽、住蓮は涙ぐんだ。
――みな、ありがとう!
声にこそ出せないが、頭を下げ、皆に感謝した。
すると、群集の一部が騒ぎ出した。
「二人の縄を解け!」
「二人は無実だ、自由にしてやれ!」
中には、護送の兵に石を投げつける者も出てきた。再び、大路は騒然となった。
東の京極(平安京の東のはて、現在の寺町通当辺り))を越え、五条の橋の手前に到着する頃には、興奮した群集が処刑に向かう隊列を囲んで、ついに安楽と住蓮の護送の隊列は動けなくなった。
すさまじい喧騒であった。
護衛の兵も、予想外の展開に為すすべもなく、ただ呆然としている。
騒然とした雰囲気の中で、ふと気がつくと、護送の隊列は分断され、住蓮、安楽の二人は前後に離れ離れになってしまっていた。
安楽が先頭、住蓮が後ろである。
護送の兵達も、矢のように次から次へと飛んでくる石をよけるのに精一杯で、なすすべもなく、ただうろたえるばかりであった。ーー気が付くと、住蓮を囲む隊列は群衆に囲まれ、もはや全く動けなくなっていた。
先頭の安楽らの隊列はそれでも何とか五条の橋に辿り着いたが、橋の中央まで来ると、そこでやはり動けなくなった。
大混乱となった……。
どうなるのか?…。皆が冷静さを失って、もはやどうにもならない状況に陥ろうとしていた。
民衆の一部は今にも隊列に襲いかかろうとしている……。
一触即発……。
と、その時である。
「あれを見よ!」
と、群衆の中の一人の男が叫ぶや、橋の東側の河原を指差した。皆がその方向を見やると続いてどよめきが起こった。
「おーっ!」
「何と!」
「あれは!」
橋の東のたもと、そこの河原に、白装束に身を包んだ人々の姿が見える…。
「犬神人だ!」
誰もがすぐにそうと認識した。--すると、それまで騒然としていたのが嘘のように、群衆は静まり返った。
ことの成り行きに、ただひたすら目を瞑って念仏を唱え、身を任せるままにしていた安楽であったが、あたりを支配した静寂に、思わず目を開けると、目の前に広がる光景に、驚きの言葉が自ずから口を突いて出てきた。
「源太さん!」
安楽が驚いたのも当然である。ただ、犬神人が集結しているだけではない。彼らは、手に手に斧、鎌、鉈、鋤、鍬など考えられる限りの、身の回りにある、ありとあらゆる武器になりうるものを手にしている。ーーそしてその先頭に源太がいた。間違いない、遠目にもはっきりと見える。しかも、どんどんとこちらへ近づいてくる。ーーだれも遮る者はいない。人々は彼らが近づくと一斉に交代を始めるのである。ーー当時の人は皆、祟りを、穢れを恐れたので、それはやむを得ないことでもあった。
「……」
皆が、その異様な光景に口を閉ざしたままであった。しかし、次に、その静寂は、その異様な装束の一団の鬨の声によって破られた。
「えいえいおー!」
「おー!」
犬神人、皆が各々の武器を高くかざして叫んだ。
――何が起こるのであろう。
ようやく鬨の声が終わると、再び静寂が襲った。次には重苦しい緊張感が橋の周辺を支配した……。
群集は固唾を呑んだ。誰もが次に何が起こるのか検討が付かず、重く張り詰めた緊張感の中、身動き一つせず、ただ黙って様子を見守るよりほか無かった……。