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阿弥陀仏よ何処に  作者: ソンミン
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第一部第十章

 一方ここ吉水の里では住蓮の話が続いていた。

「近江での新しい生活はまことに楽しく……」

 住蓮が信空に語った話は決して誇張されたものではない。彼の近江の国での生活はまことに充実したものであった。

 まず、近江の国は、源平争乱とは無縁とまではいかなかったが、それでもある程度は秩序が保たれていて、奈良の都では日常茶飯事であった強盗、人殺しの事件、また、死体がそこかしこに散らばっているという荒廃した光景を多く目の当たりにするということは無かった。

 自然と心も穏やかになる…。

 次に仕事に恵まれた。もともと勉学に長けた彼であったから、荘園管理の仕事はさほど難しいことではなかった。時子の父母からは絶大な信頼を寄せられたし、周囲の者もすぐに彼を慕いだした。

 そして何よりも時子との出会いである。

 時子――佐々木家の一人娘である。馬淵の里でも評判の美貌の持ち主で、両親が手塩にかけて育てたかいがあったか、性格も温厚で、優しい心の持ち主で、屋敷の者からは勿論、里の誰からも好かれていた。

 左様、彼女はまことに魅力的であった。

 住蓮が恋心を抱いたのも当然であろう。また彼女も、奈良からやってきたこの真面目な青年に好感を持ったのは当然の成り行きではあった。

 春には二人で琵琶湖の湖畔に遊び、夏には葦の茂る湿原に小船を浮かべ、秋には紅葉の美しい湖南の山々に登り、そして冬には田畑に積もった雪で雪合戦をした。

 中でも二人のお気に入りは三上山であった。あの大むかでの伝説が残る美しい山である。山の頂上まで登ると琵琶湖が一望できた。向こうには比叡山も見える。そして特に何を語り合うというのでなく、ただ時を過ごすのである。それだけで十分二人は幸せであったのだ。

 いつも二人はいっしょであった。時子の父母も二人の関係を暗黙のうちに認めていた。

 全てが順風満帆であった。

 幸せな日々……。

 しかし二年目に状況は変化した。

 全国的な飢饉がこの近江の地にも押し寄せたのである。収穫はいつもより格段に少なく、このため京の都に収めるべき税が思うように徴収できない事態となった。

 住蓮は農民から陳情を受け、税負担を軽減してもらえないと、生きていくこともかなわない、と切実に訴えられた。

 しかし都からの税の取立ての要求は厳しいものであった。

 住蓮は農民たちの苦しい生活を目の当たりに見て、それでも彼らから容赦なく税を取り立てねばならぬ自分の仕事に苛立ちを覚え始めた。

「何かが間違っている……」

 青年に苦悩の日が続いた。

 加えて、源平争乱の影響が少しずつこの近江の地にも現れ始めていた。

 平治の乱でこの地を追われた源氏方の佐々木氏一族が、源頼朝の勢力伸長の余勢を駆って、再びかっての近江の領地を取り戻さんと虎視眈々とこの国を狙っていたのである。このため豪族同士の揉め事がいたるところで起こるようになった。あるものは源氏方、あるものは平氏方、と、ひどい場合は夜討ちをかけ、一家皆殺しを図る、といった具合であった。

 時子の父は平治の乱の折は、源氏の血を引く佐々木氏ではあったものの、平氏方に与した。このことが源氏の血筋に誇りを持つ長男の盛高には気に入らなかった。

 佐々木盛高、そう、時子の兄である。佐々木家の跡継ぎとして期待され、文武に秀でた男子として育てられた。そしてその期待は実り、特に武芸においては、湖南地方で右に出る者なし、と言われるまでになった。

 彼は、そんな争乱の世の移り変わりを目の当たりにするにつけ、ここ近江の地から、できるならば源氏の旗の下、京の都へと進出せんと、その機会を虎視眈々と狙うようになった。

 こうして親子はよく喧嘩をするようになった。平氏への恩義を捨てきれない保守的な父であったから、そのことは当然ではあった。彼は住蓮によくその不満をこぼした。

 住蓮は盛高とも仲が良かった。住蓮は荒法師で鳴らした父、祖父の血を引き継いでいたせいか、武芸も達者であった。しばしば二人は武術の練習をした。馬で近江の平野を駆け巡り、弓矢の練習も競い合った。

「どうだ時実、俺と一緒に義仲様の軍勢に加わらぬか!」

 盛高は冗談とも本気とも取れぬ口調で住蓮に尋ねたことがある。住蓮がどう返事をしたものか思案していると、

「なーに、戯れに申したこと。聞き流してくれ」

 と言うと、盛高は急に表情をキッと引き締めて、

「時実、しかし、もし俺が家を出るようなことがあれば、時子のことをよろしく頼む。あれはお前のことを本当に好いているようだ。それと父母もよろしく面倒を見てくれ。ここのところ、この馬渕の里周囲でも不穏な気配が感じられる。父を狙って、いつ誰が屋敷を襲ってくるとも限らん」

「何を急にそんなことを!」

 と、住蓮は適当に聞き流そうとしたが、盛高は真剣な眼差しでこう続けるのだった。

「いつも喧嘩ばかりしている父だが、それでも大事な父親だ。しかしお前がいれば安心だ。ゆめゆめそのこと怠りないように頼む」

「兄者、はやまったことだけはせぬようにお願い申す!」

 と、住蓮は言葉で制止するのだが、その勢いを止めることは無理そうだと内心では思っていた。

 そしてその時が来た。

 住蓮が近江の国に来て三年が過ぎたある日、盛高は突然家を飛び出した。

 ――こういい残して

「俺は木曾の義仲様の軍勢に加わり、都から平氏一族を追い散らす。それが源氏の血を受け継ぐ佐々木の家に生まれた俺の役目だ!」

 と。

 こうして盛高は馬渕の里を去った。

 父母の落胆は大きかった。跡継ぎが失踪したのだから当然である。

 そして、こうして佐々木家を襲った悲しみに、さらに追い討ちをかける出来事が持ち上がった。

 それは……。

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